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 二

 六日目の朝が来た。

 空は憎らしいほど青く澄み渡り、新しい一日が、まるで祝福されているかのような錯覚を覚える。俺達は、これまでのどの街よりも大きな商業都市『ゼノグラード』の門をくぐっていた。

「すごいね……」

 レシアが感嘆の声を漏らす。石畳の大通りには、様々な人種が行き交い、その活気はモハラにも引けを取らない。ここなら、今日こそは。そんな淡い期待が、俺の胸をよぎった。

 ゼノグラードの冒険者ギルドは、これまでのギルドとは比較にならないほど巨大で、そして洗練されていた。荒くれ者たちの怒声の代わりに、依頼の成否を巡る真剣な議論が交わされ、酒の匂いの代わりに、羊皮紙とインクの匂いが漂っている。

 俺達は、少しだけ気圧されながらも、カウンターへと向かった。

「パーティーメンバーの募集ですね。こちらの用紙に、目的、期間、報酬、そして募集する人材の条件を詳しく記入してください」

 受付の女性は、にこやかだが、その目は俺達の実力を値踏みするように鋭い。俺はごくりと唾を飲み込み、震える手でペンを取った。

 目的:世界の平和を脅かす秘密結社の打倒

 期間:約百九十日

 報酬:応相談(成功の暁には、望むもの全て)

 募集条件:腕に覚えのある者。死を恐れぬ者。そして、世界の真実を知る覚悟のある者。

 書き終えた用紙を提出した時の、受付嬢の顔。それは、哀れなものを見る目、というよりは、完全に理解不能な物体を見る目に近かった。彼女は一度だけ、俺の正気を確かめるように額に手を当て、そして深いため息をつくと、「掲示板の、一番隅に貼っておきますね」とだけ言った。

 やはり、駄目か。

 俺とレシアは、ギルドの隅にあるテーブルで、ため息をついた。周囲の冒険者たちが、ちらちらとこちらを見て、ひそひそと笑っているのが分かる。

「やっぱり、具体的じゃないとダメなのかな」

「だが、これ以上どう説明すればいい……」

『実は俺の母親が悪の組織のトップで、二百日後に俺の故郷を滅ぼすんです。だから手伝ってください』

 そんなことを言えば、即座に精神病院送りが関の山だ。

 俺達は、なけなしの金で頼んだ水でのどを潤しながら、途方に暮れていた。もう、このやり方では限界なのかもしれない。別の方法を考えなければ。そう思った、その時だった。

「あの……」

 頭上から、静かな声が降ってきた。

 見上げると、一人の少女が、少し困ったような、それでいて好奇心に満ちた目で、俺達を見下ろしていた。

 歳の頃は、俺達と同じくらいだろうか。肩まで伸びた、ふわふわとした栗色の髪。大きな眼鏡の奥にある、少し垂れ気味の瞳は、小動物のような警戒心と、知性が同居している。着古した革のジャケットと、動きやすそうなズボン。その腰には、一振りの細身の剣が差されている。冒険者、なのだろう。だが、このギルドにいる他の誰とも違う、どこか儚げで、けれど凛とした、不思議な空気を纏っていた。

「さっき、掲示板、見ました」

 少女は、俺達が書いた、あの突拍子もない募集要項を指差した。「それで……少し、お話、聞いてもいいですか?」

 周囲の誰もが俺達を笑い者にする中で、この少女だけが、真っ直ぐな目で俺達を見ていた。俺とレシアは、顔を見合わせた。これが、罠である可能性も考えた。だが、彼女の瞳には、嘘や悪意の色は微塵も感じられなかった。

「……ああ。いいぜ」

 俺は、頷いた。

 三

 俺達は、ギルドの喧騒を離れ、近くの公園のベンチに腰を下ろしていた。少女は、ライアと名乗った。

「それで、話っていうのは?」

 俺が尋ねると、ライアは少し躊躇うように視線を彷徨わせた後、意を決したように口を開いた。

「あなた達の募集要項……他の人はみんな笑ってたけど、私は、本気なんだなって思ったから」

「どうしてそう思うんだ?」

「……目、かな」彼女は言った。「あなた達の目、死んでなかったから。本気で何かを成し遂げようとしている人の目を、してたから」

 その言葉に、俺は少しだけ驚いた。この少女は、俺達の上っ面ではなく、その奥にある覚悟のようなものを、感じ取ってくれたらしい。

 俺は、レシアと一度視線を交わし、頷き合った。この子になら、話してもいいかもしれない。

 俺は、覚悟を決めた。どこまで信じてもらえるかは分からない。だが、もう隠し事はしない。俺は、これまでの経緯の全てを、ライアに話した。

 母リリアのこと。『愛眼』のこと。二百日というタイムリミット。そして、俺が背負わされた、歪んだ宿命のこと。

 俺の話を、ライアは一言も口を挟まず、ただ黙って聞いていた。大きな眼鏡の奥の瞳が、俺の言葉の一つ一つを、吸い込むように見つめている。

 全てを話し終えた時、公園には重い沈黙が落ちた。風が木々の葉を揺らす音だけが、やけに大きく聞こえる。

 きっと、呆れているだろう。頭がおかしいと思われたかもしれない。それでも、俺は構わなかった。これが、俺達の現実なのだから。

 やがて、ライアが、ぽつりと呟いた。

「……そう。……やっぱり、そうだったんだ」

 その声は、震えていた。彼女は俯き、ぎゅっと自分の拳を握りしめている。

「ライア……?」

 レシアが、心配そうに彼女の顔を覗き込む。

 ライアは、ゆっくりと顔を上げた。その顔を見て、俺は息を呑んだ。

 彼女の顔は、青ざめていた。そして、その大きな瞳には、深い、深い悲しみの色が、底なしの沼のように広がっていた。それは、俺が王都で、父を失った直後のレシアの瞳によく似ていた。

「私もね」ライアは、絞り出すように言った。「殺されたんだ」

「え……?」

「私の、大切な人たち。みんな、殺された」

 彼女の告白は、あまりにも唐突で、そして重かった。

「お父さんも、お母さんも。たった一人の親友も。……そして、私が、愛した人も」

 彼女の声には、感情がなかった。まるで、遠い国の物語でも語るかのように、淡々と。だが、その無感情さこそが、彼女がどれほど深い傷を負っているのかを、雄弁に物語っていた。

「魔王側の、得体のしれない存在に、ってことしか分からない。相手が誰なのかも、何が目的なのかも、何も。ただ、ある日突然、私の日常は、全部、奪われた」

 彼女は、そこで一度、言葉を切った。そして、自分のこめかみを、苦しそうに押さえる。

「一番、辛いのはね」彼女は、涙声で続けた。「顔を、思い出せないこと。お父さんの顔も、お母さんの顔も。親友が、どんな風に笑う子だったかも。愛した人が、どんな目で私を見つめてくれたかも。……全部、靄がかかったみたいに、思い出せないの。まるで、最初から、そんな人たちはいなかったみたいに。記憶だけが、私を嘲笑うみたいに、残ってる」

 その言葉は、呪いだった。大切な人を失うだけでなく、その存在の証さえも奪われるという、あまりにも残酷な呪い。

 彼女の悲しみは、俺の想像を絶していた。

 俺は、父の顔を覚えている。母の顔も。その温もりも、声も、俺の中にはっきりと残っている。それが、どれだけ幸せなことだったのかを、今、思い知らされた。

 ライアの大きな瞳から、ぽろり、と一筋の涙がこぼれ落ちた。

 その、あまりにも痛々しい涙を見て。

 俺の中で、何かが決まった。

 俺は、静かに立ち上がった。そして、俯く彼女の前に立ち、手を差し伸べた。

 ライアが、驚いたように顔を上げる。涙で濡れた彼女の瞳が、俺の顔を映した。

「厳しい旅になるぞ」

 俺の声は、自分でも驚くほど、静かで、そして力強かった。

「何度も死にかけるだろう。絶望して、全てを投げ出したくなる時も、きっと来る。それでも、俺達と一緒に来るか?」

 俺は、彼女に問いかけた。

「覚悟は、いいか?」

 それは、同情なんかじゃなかった。ただ、同じ痛みを、同じ敵を持つ者としての、魂の問いかけだった。

 俺の、差し伸べられた手。そして、俺の、真っ直ぐな瞳。

 ライアは、それらを、しばらく、じっと見つめていた。

 彼女の瞳の中で、悲しみと、迷いと、そして、ほんの僅かな希望の光が、激しく揺れ動いているのが分かった。

 やがて、彼女は、震える手で、その涙を拭った。

 そして、ゆっくりと、しかし、確かな意志をもって、頷いた。

 彼女の、冷たい指先が、俺の手に、触れる。そして、その小さな手で、俺の手を、力強く、握り返した。

「……うん。……覚悟は、できてる」

 その声は、もう震えていなかった。

 その瞬間、俺達の間に、確かな絆が生まれた。

「よろしくな、ライア」

「……うん。よろしく、ウオ」

 俺達は、互いの顔を見て、小さく笑った。

 その時、俺達の、握りしめられた手に、もう一つの、温かい手が、そっと重ねられた。

 レシアだった。

 彼女は、何も言わなかった。ただ、俺の瞳と、ライアの瞳を、その翠色の、優しい瞳で、しっかりと見て、にこりと微笑んだ。

 その笑顔は、「私も、覚悟はできてるよ」と、そう、語っていた。

 三つの手が、固く、固く、結ばれる。

 ああ、そうだ。

 俺達は、今日、初めて、本当の意味で『パーティー』になったのだ。

 一人では、見つけられなかったかもしれない、この、仲間という名の光。

 俺は、レシアが重ねた手の温もりを感じながら、少しだけ、彼女の顔を盗み見た。

 彼女は、笑っていた。

 だが、その笑顔の奥で、俺とライアが握りしめている手を、ほんの少しだけ、羨ましそうに見つめていることに、この時の俺は、まだ気づいていなかった。



 第三部 ライア編

 第二章:仲間という名の亀裂


 ライアという少女が俺達の仲間になってから、五日が過ぎた。

 彼女の覚悟は本物だった。俺とレシアだけの旅は、三人になったことでその色合いを大きく変えた。それはまるで、モノクロの世界に新しい色が一つ加わったような、不思議な感覚だった。

 一日目。俺達は早速、活動資金を稼ぐための依頼を受けることにした。ゼノグラードの冒険者ギルドは巨大で、依頼の数も桁違いだ。俺達が選んだのは、比較的安全で、かつ実入りの良いとされる『下水道に巣食う巨大鼠ジャイアントラットの掃討』。古典的だが、俺達の連携を試すには丁度いい。

 下水道は、想像通りの場所だった。鼻を突く悪臭。ぬかるんだ足元。そして、闇の奥から聞こえる、無数の爪がコンクリートを引っ掻く不気味な音。

「来るぞ」

 俺は腰に下げた剣の柄を握る。隣で、ライアも同じように細身の剣を抜いた。レシアは俺達の後方で、ランタンを高く掲げて周囲を照らしている。彼女は戦えない。だが、彼女が俺達の背中を守ってくれる。その事実が、何よりも俺に力をくれた。

 闇の奥から、赤い目が無数に現れる。車輪ほどの大きさの鼠たちが、涎を垂らしながら一斉に襲いかかってきた。

「俺が前に出る!」

 俺は叫び、鼠の群れに斬り込んだ。一体、二体と、剣を振るうたびに敵が屠られていく。だが、数が多い。一体を倒す隙に、別の方向から鋭い牙が襲いかかる。

「ウオ、左翼が手薄だ!」

 ライアの冷静な声が飛んだ。彼女は俺とは対照的だった。力任せに敵をなぎ払う俺と違い、彼女の剣筋は水のように滑らかだ。敵の攻撃を最小限の動きでいなし、的確に急所だけを貫いていく。無駄のない、洗練された剣技。

「レシア! 回復薬ポーションの準備を!」

「分かってる!」

 俺達が前線で戦う間、レシアは背後で支援に徹してくれていた。敵の位置を知らせ、俺達の死角を補い、傷薬や解毒薬をいつでも取り出せるように準備する。彼女がいるから、俺達は安心して背中を預けることができた。

 三人の歯車は、まだぎこちない。それでも、確かに噛み合い始めていた。俺が力で道をこじ開け、ライアが技で隙を埋め、レシアが心で俺達を繋ぐ。

 掃討を終え、地上に出た時には、俺達は泥と汚水と、そして鼠の血でずぶ濡れだった。悪臭を放つ俺達を、街の人々は遠巻きに見ていた。

「……ひどい格好だな、俺達」

「でも、やり遂げたね」

「報酬で、美味いものでも食いに行くか」

 三人で顔を見合わせて、思わず笑いがこぼれた。それは、疲労困憊の、しかし確かな達成感に満ちた笑いだった。この瞬間、俺達はただの寄せ集めじゃない、一つの『パーティー』になったのだと感じた。

 二日目。俺達は手に入れた報酬で、装備を新調することにした。

 武器屋の店主は、いかついドワーフだった。壁一面に掛けられた剣や鎧を前に、俺とライアは目を輝かせた。

「このはがねの質は悪くない。だが、重心が少しだけ柄に近いな。これでは、振りの速さが犠牲になる」

「こっちの剣はどうだ? ミスリルが混ぜてあるらしい。軽いが、強度は保証できない」

「ああ、それは見た目だけだ。純度が高くないミスリルは、ただの飾りだよ」

 俺とライアは、専門的な会話に夢中になっていた。父さんに教わった知識と、ライアが持つ実践的な知識が、面白いように噛み合う。俺は、自分と同じ目線で武器について語れる仲間ができたことが、純粋に嬉しかった。

 その時、ふと、俺達から少し離れた場所で、レシアが寂しそうに革鎧を眺めていることに気づいた。彼女は、俺達の会話に入ってこれず、手持ち無沙汰にしているようだった。

「レシア、どうかしたか?」

 俺が声をかけると、彼女はハッとしたように顔を上げ、慌てて笑顔を作った。

「ううん、なんでもないよ! 二人とも、すごく楽しそうだなって」

 その笑顔は、いつも通りの、太陽のような笑顔だった。だが、その奥に、ほんの一瞬だけ、小さな曇りのようなものが見えた気がした。俺が何かを言う前に、彼女は「あ、そうだ! みんなでお揃いの物でも買わない? 旅のお守り!」と、明るい声で話題を変えた。

 結局、俺達は揃いの革手袋を買った。レシアはそれを手に取り、本当に嬉しそうに笑っていた。俺は、さっき感じた違和感は、自分の気のせいだったのだろうと、そう思うことにした。

 三日目。俺達は街の外れにある草原で、本格的な連携の訓練をすることにした。

 俺とライアが、一対一で模擬戦を行う。

「いくぞ、ライア!」

「いつでもどうぞ、ウオ」

 俺は、力も速さも、本来の十分の一以下に抑えていた。それでも、常人から見れば神速の域だろう。だが、ライアはそれに食らいついてきた。俺の剣を、紙一重で見切り、カウンターを狙ってくる。彼女の剣は、派手さはない。だが、その一振り一振りは、千回、一万回と繰り返されたであろう、努力の結晶だった。

「やるな、ライア!」

「ウオこそ、全然本気を出してないじゃないか」

 彼女に、見抜かれていた。俺は苦笑するしかなかった。

 俺達が剣を交えている間、レシアは少し離れた場所で、村の親方から貰った短剣を抜いて、素振りをしていた。だが、その動きはぎこちなく、何度か自分の足をもつれさせていた。

 その姿を見て、俺の胸が、ちくりと痛んだ。彼女は、俺達の足手まといになっていると、感じているのかもしれない。

 俺はライアとの打ち合いを中断し、彼女の元へと駆け寄った。

「レシア、無理するな。君は、戦わなくていいんだ」

「でも……!」彼女は、悔しそうに唇を噛んだ。「私だけ、何もできない。ウオやライアみたいに、強くない。私だって、みんなの役に立ちたいのに」

「役に立ってるさ」俺は、彼女の頭に、ぽんと手を置いた。「君が、俺達の後ろにいてくれる。それだけで、俺は、安心して戦える。君は、俺達の最後の砦だ。……俺の、光だよ」

 俺の、精一杯の言葉だった。その言葉に、レシアの顔が、ぱあっと明るくなった。

「……うん。……ありがとう、ウオ」

 彼女は、満面の笑みで頷いた。その笑顔を見て、俺は心の底から安堵した。良かった。いつものレシアに戻ってくれた。

 その時、俺達を遠巻きに見ていたライアの表情が、一瞬だけ、何かを羨むように、寂しげに揺れたことに、俺は気づかなかった。

 四日目。街での情報収集。

『愛眼』の手がかりは、全く掴めなかった。当然だ。世界を裏から牛耳るような組織が、そう簡単に尻尾を出すはずがない。

 徒労感だけが募る。俺達は、日が暮れるまで街を歩き回り、疲労困憊で宿へと戻った。

 その夜の夕食は、重い空気に包まれていた。

 そんな空気を破ったのは、ライアだった。

「……少し、いいかな」

 彼女は、おずおずと切り出した。「私の、故郷の話、なんだけど」

 俺とレシアは、顔を上げた。

「私の故郷は、ここからずっと北にある、小さな村だったんだ。雪深い、貧しい村。でも、みんな優しくて、温かい場所だった」

 彼女は、ぽつり、ぽつりと語り始めた。それは、彼女が失った、大切な人たちの話だった。

 厳格だけど、誰よりも娘を愛してくれた父親。

 病弱だけど、いつも笑顔を絶やさなかった母親。

 悪戯好きで、いつもライアをからかってきた、男勝りの親友。

 そして、口下手だけど、誰よりも優しかった、鍛冶屋見習いの、恋人。

 彼女は、その一人ひとりの思い出を、まるで宝石のように、大切に、大切に、語った。

 顔は、思い出せない。けれど、その温もりだけは、今もこの胸にあるのだと。

「私は、取り戻したいんだ。顔を、じゃない。……彼らと笑い合った、あの日々を、胸を張って『幸せだった』って言える自分を。だから、私は戦う。私から全てを奪った、あの『何か』と」

 彼女の瞳には、涙はなかった。ただ、静かで、そして燃えるような、決意の炎が宿っていた。

 その、あまりにも気高い姿に、俺は言葉を失った。そして、心の底から思った。

 この子を、守らなければならない、と。

 俺は、彼女の隣に座っていたレシアを見た。彼女もまた、ライアの話に、静かに涙を流していた。その瞳には、深い共感と、そして、同じ痛みを知る者としての、強い連帯感が浮かんでいた。

 この夜、俺達三人の心は、本当の意味で一つになった。俺達は、もうただの仲間じゃない。同じ傷を、同じ決意を分かち合う、家族なのだと。

 そして、五日目。

 俺達は、ゼノグラードの王立図書館にいた。ライアの提案だった。

「敵の正体が分からないなら、歴史から学ぶしかない。過去の文献に、何か似たような事件の記述が残っているかもしれない」

 図書館は、知識の海だった。俺達は、古文書の棚に分け入り、一日中、羊皮紙の巻物と格闘した。

 ライアは、まるで水を得た魚のようだった。彼女は、俺達が知らないような古代文字をすらすらと読み解き、膨大な情報の中から、関連性のありそうな記述を、驚くべき速さで拾い上げていく。

「あった……これかもしれない」

 彼女が、指差した羊皮紙には、こう記されていた。

『二百年に一度、世界に現れる『貌無し(かおなし)』の厄災。それは、人の最も幸福な記憶を喰らい、その魂に忘却の呪いをかけるという……』

 貌無し。

 ライアの大切な人たちの顔を奪ったのは、これなのかもしれない。

「すごいな、ライア。まるで学者みたいだ」

 俺が素直な感想を述べると、彼女は少し照れたように、眼鏡の位置を直した。

「……本だけが、友達だったから。……昔から」

 その言葉に、彼女がこれまで歩んできた、孤独な道のりが垣間見えて、俺の胸が少しだけ痛んだ。

 その時、俺達の間に、レシアがそっと紅茶の入ったカップを差し出した。

「二人とも、根を詰めすぎだよ。少し、休憩したら?」

 彼女は、優しく微笑んでいた。だが、俺はその笑顔の裏に、昨日までとは違う、何か別の感情が潜んでいることに、気づき始めていた。

 俺とライアが、調査に没頭している間。彼女は、俺達が読めない文字を、ただ、黙って見つめていることしかできなかった。俺達の会話に、輪に入れない、もどかしさ。自分だけが、取り残されていくような、焦り。そして、俺とライアが、知的な会話で心を通わせているように見えることへの、小さな、小さな、嫉妬。

 その、言葉にならない感情が、彼女の笑顔を、少しだけ、歪ませている。

 俺は、彼女のカップを持つ手が、微かに震えているのを見逃さなかった。

「レシア」俺は、彼女の手を、そっと握った。「ありがとう。君が入れてくれた紅茶が、一番美味いよ」

「……え?」

「君が、ここにいてくれるだけで、俺は、頑張れる。俺達は、三人で一つのチームだろ?」

 俺は、彼女の目を真っ直ぐに見つめて言った。彼女の瞳が、大きく揺らぐ。やがて、その目に、みるみるうちに涙が溜まっていく。

「……うん。……うん……!」

 彼女は、何度も、何度も、頷いた。そして、俺の手を、強く、強く、握り返してくれた。

 良かった。俺の、想いは、ちゃんと届いた。そう、俺は信じていた。

 だが、俺はまだ、本当の意味で、乙女心を、そして、愛が生み出す、深い闇を、理解してはいなかったのだ。

 俺の言葉は、確かに彼女を救った。だが、同時に、それは、彼女の心の中に、新たな、そして、より深い、疑念の種を、植え付けてしまっていた。

『ウオの、あの言葉は、本当? それとも、ただの、優しさ?』

 その、小さな亀裂が、やがて、俺達の関係を、大きく揺るがすことになるということを、この時の俺は、まだ知る由もなかった。


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