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第二部第一章 灰色の帰郷
音も色も匂いも味も、全てが失われた世界を僕はただ歩いていた。
どれくらい歩き続けたのか覚えていない。
一日か三日か、あるいはもう一週間以上が過ぎていたのかもしれない。太陽が昇りそして沈む。その当たり前の世界の営みだけが、時間の経過を無慈悲に僕に告げていた。
僕の腹には大きな穴が空いていた。
父がその手に握りしめた聖剣によって貫かれた、名誉であり絶望の傷。
その傷は奇妙なことに、もう痛みは感じなかった。ただぽっかりと虚無がそこにあるだけ。まるで僕の心に空いた巨大な風穴と共鳴しているかのようだった。
血は止まっていた。
どうやって止めたのか自分でもよくわからない。ただ、村に帰らなければならないという、か細い、しかし絶対的な本能のようなものが僕の体を動かしていた。無意識のうちに僕の中に眠る得体の知れない力が傷口を焼き、肉を繋ぎ合わせ、最低限の生命活動を維持させているらしかった。
空腹も喉の渇きも感じなかった。
夜の凍えるような寒さも。
昼の肌を焼くような日差しも。
僕の感覚は完全に麻痺していた。
僕は生ける屍だった。
魂をあの血塗られた王都の広場に置き去りにしてきた、ただ歩くだけの肉の塊。
僕の頭の中では一つの光景だけが壊れた幻灯機のように何度も何度も繰り返し再生されていた。
『安心しろ。俺はお前には殺されねえよ』
そう言って穏やかに笑った父の顔。
自らの胸に聖剣を突き立てたあの瞬間。
僕に「父親殺し」という最も重い十字架を背負わせないために。
自ら命を絶った父の最後の愛。
その光景が再生されるたびに、僕の心はきしむ。
涙はもう出なかった。
感情という感情が全て枯れ果ててしまったかのようだった。
道中、何人かの旅人とすれ違った。
彼らは僕のボロボロの姿を見て、訝しげな、あるいは憐れむような視線を向けてきた。
だが誰一人として僕に声をかけてはこなかった。
僕の瞳があまりにも死んでいたからだろう。
生きている人間の瞳ではなかったからだろう。
僕はただ歩いた。
父と二人で王都へと向かった道を、今度はたった一人で逆方向に辿っていく。
あの時父が隣にいた道。
二人で焚き火を囲み未来を語り合った森。
僕が罠を仕掛け父がそれを褒めてくれた小川。
その全てが今は色褪せた灰色の景色にしか見えなかった。
全ての場所に父の思い出が染み付いていて、それが無数のガラスの破片となって僕の心を切り刻んだ。
二週間。
おそらくそれくらいの時が経っていた。
僕の足がついに見慣れた景色を捉えた。
緩やかな丘。
その向こう側に広がる豊かな森。
そしてその森に抱かれるようにして寄り添う小さな僕の故郷。
カリム村。
懐かしいはずの景色。
だが僕の心に安堵の感情は湧いてこなかった。
むしろ逆だった。
恐怖。
村に近づけば近づくほど、僕の足は鉛のように重くなっていく。
帰らなければならない。
でも帰りたくない。
だってあの村にはもう父さんはいないのだから。
「父さん、ただいま」
そう言って家の扉を開けても。
「おかえり」と言って僕の頭を撫でてくれるあの大きな手はもうないのだから。
そのあまりにも当たり前で残酷な事実が僕の歩みを止めた。
村の入り口で僕は立ち尽くした。
中へ入ることもできず、かといって引き返す場所もない。
そんな僕の姿を畑仕事をしていた一人の村人が見つけた。
「……ん? おい、あれは……」
その声がきっかけだった。
一人また一人と村の人々が僕の存在に気づき集まってくる。
彼らの顔には最初驚きの色が浮かんでいた。
そして次に僕のあまりにも変わり果てた姿に哀れみの色が浮かんだ。
「……ウオ、なのか……?」
村長が杖をつきながら人垣をかき分けてやってきた。
その皺だらけの顔が僕を見てくしゃりと歪む。
「おお……ウオ……! 生きていたのか……!」
村長はそう叫ぶと、老いたその体で僕を力強く抱きしめた。
「辛かったろう……! 苦しかったろうに……! よくぞ……! よくぞ一人で帰ってきた……!!」
村長の震える声。
その腕の温かさ。
その温もりに触れた瞬間、僕の中で凍り付いていた何かが音を立ててひび割れた。
「……あ……」
僕の喉から声が漏れた。
「……あ……ああ……」
そして次の瞬間、僕は声を上げて泣いていた。
枯れ果てたはずの涙が堰を切ったように溢れ出してくる。
「うわあああああああああああああああああああああん!!!!!」
僕は村長の胸に顔を埋め、ただ子供のように泣きじゃくった。
王都で父を失ってから初めて流す涙だった。
僕の慟哭を聞く村人たちも皆泣いていた。
父の友人だった鍛冶屋の親方も、いつもお菓子をくれた食堂のおばさんも、一緒に悪さばかりしていた同年代の友達も。
誰もが僕を責めなかった。
誰もが僕の帰還を温かく迎えてくれた。
王都から命からがら逃げてきたという商人から噂は聞いていたのだという。
勇者エミールが王都で魔王軍との激闘の末、命を落としたと。
「お前の父さんは英雄だ」
「村の誇りだ」
「お前はその英雄の息子だ。胸を張れ」
皆が口々に僕を慰め励ましてくれた。
王都で僕たちを『悪』だと断じたあの狂信的な瞳とは違う。
ここにはまだ父さんを『正義』だと信じてくれる人々がいた。
王都から遠く離れたこの村には、まだ母リリアの反転魔法の影響は及んでいないらしかった。
その事実に僕は少しだけ救われた。
【夏】
太陽が力強く大地を照りつける季節。
村の子供たちの声がいつも以上に活気づく。
「ウオ、川へ行こうぜ!」
「今日は絶対大物を釣ってやるんだ!」
その日も友達が僕を誘いに来た。
僕は断ろうとした。
だが、あまりにも彼らがしつこいので根負けしてついて行くことにした。
村を流れるカリム川。
水はひんやりと冷たく気持ちがいい。
友達は服を脱ぎ捨てると、歓声を上げて川へと飛び込んでいった。
水しぶきがキラキラと太陽の光を反射して輝いている。
僕はその光景をただ岸辺から眺めていた。
川に入る気にはなれなかった。
水に自分の姿が映るのが怖かったのだ。
そこに映るのが『ウオ』ではなかったらどうしよう、と。
そんな僕に業を煮やしたのか、友達の一人が僕を背後から突き飛ばした。
「うわっ!?」
僕はなすすべもなく川へと転落した。
突然の冷たさに心臓が止まるかと思った。
だが、その衝撃が僕の固まっていた何かを少しだけ溶かしてくれたのかもしれない。
「ははは! やったぜ!」
「ウオ、油断したな!」
水面から顔を出すと、友達が腹を抱えて笑っていた。
その無邪気な笑顔を見て、僕の口元がほんの少しだけ緩んだ。
その日は久しぶりに僕は彼らと一緒に泳いだ。
魚を追いかけ水を掛け合い、日が暮れるまで遊んだ。
一瞬だけ。
ほんの一瞬だけ、僕は王都での出来事を忘れることができた。
昔のようにただの子供に戻ることができた。
だが夜がやってくると全ては元に戻ってしまう。
家に帰り一人になると、あの広場の光景が鮮明な悪夢となって僕を襲うのだ。
父の血の温かさ。
僕の手で父を貫いたあの感触。
「うわあああああああああっ!!!!」
僕は悲鳴を上げて飛び起きる。
全身は汗でぐっしょりと濡れていた。
心臓は早鐘のように鳴り響き、呼吸がうまくできない。
闇が怖い。
眠るのが怖い。
一人になるのが怖い。
僕は夜が来るたびにその恐怖に苛まれ続けた。
【秋】
村は収穫の季節を迎えていた。
黄金色に輝く麦畑。
たわわに実った果実。
村中が活気に満ち溢れていた。
人手が足りないというので僕も収穫の手伝いをすることになった。
最初は気が進まなかった。
だが体を動かしている間は不思議と余計なことを考えずに済んだ。
重い麦の束を運び、汗を流し泥にまみれる。
肉体的な疲労が僕の精神的な苦痛を僅かに和らげてくれた。
一緒に作業をしていた村の大人たちは僕に優しかった。
「ウオ、だいぶ力もついてきたじゃないか」
「さすがエミールの息子だな」
「その真面目なところは父親そっくりだ」
彼らは僕の中に父の面影を見てくれているようだった。
それが嬉しかった。
僕があの偉大な勇者の息子であると認めてもらえているようで。
だが同時に、その言葉は僕の胸に鋭く突き刺さった。
『父親殺しのくせに』
僕の内側からもう一人の僕が嘲笑う。
『お前なんかがエミールの息子を名乗るな』
僕はその幻聴を振り払うように、さらにがむしゃらに働いた。
疲れ果てて倒れるまで。
何も考えられなくなるまで。
収穫祭の夜。
村の広場では大きな焚き火が焚かれ、皆がその年の恵みに感謝し歌い踊っていた。
僕もその輪の中にいた。
皆に勧められるまま果実酒を一口だけ飲んだ。
甘くて少し苦い大人の味がした。
その時、一人の村人が言った。
「ウオももう大丈夫そうだな」
「ああ、すっかり元気になった」
「良かった、良かった」
彼らの善意に満ちた言葉。
僕は笑顔で頷いた。
「うん。もう大丈夫だよ」
嘘をついた。
僕の心はまだ少しも大丈夫ではなかった。
むしろこの偽りの平穏が僕をさらに追い詰めているかのようだった。
皆が僕に期待する『元気になった悲劇の少年』という役割。
僕はその仮面を被り続けなければならない。
本当の僕。
心の奥底で罪悪感と自己嫌悪に苛まれ続けている本当の僕は、誰にも見せてはならない。
その日から僕は笑うのが少しだけ上手になった。
【冬】
厳しい冬がやってきた。
村は深い雪に閉ざされ、外へ出る機会もめっきりと減った。
僕は家の暖炉の前で一人過ごすことが多くなった。
家の壁には父さんが使っていた普通の剣が飾られている。
聖剣アスカロンはもうない。
あの広場に僕の血と父の血に塗れたまま置き去りにしてきてしまった。
僕は毎日その剣をただぼんやりと眺めていた。
この剣を僕が握る資格はあるのだろうか。
父さんは僕に自分の名前『エミール』を与えて死んでいった。
それは僕に勇者の意志を継いでほしいというメッセージだったのだろう。
だが今の僕にそんな資格があるとは思えなかった。
僕は自分が何者なのかわからないのだ。
僕は本当にウオなのか?
それともいつかまたあの恐ろしい『ダイマ・オウ』として目覚めてしまうのではないか?
僕の中に眠るあの力はいつ暴走するかもわからない。
そんな僕が剣を握り勇者を名乗ることなどできるはずがない。
それは父さんの名を汚す行為だ。
僕は悩んだ。
来る日も来る日も悩み続けた。
答えの出ない問いに僕の心はすり減っていく。
雪が降り積もるように、僕の心にも解決されることのない葛藤が静かに、そして確実に積もっていった。
そうして一年が過ぎた。
村に再び春の兆しが見え始めた頃、僕は村の日常にすっかり溶け込んでいた。
朝起きれば村の仕事を手伝い、昼は友達と他愛のない話をして笑い、夜は疲れて眠る。
悪夢を見る回数は少しずつ減っていた。
いや、悪夢に慣れてしまっただけなのかもしれない。
周りの誰もが僕のことを「もうすっかり元気になった」と思っていた。
僕自身もそう思うようにしていた。
それが一番楽だったからだ。
辛い過去に蓋をして偽りの平穏に身を委ねる。
それが僕がこの村で生きていくための唯一の方法だった。
だがそれはただの延命措置に過ぎなかった。
僕の心の奥底で膿み続けた傷は、決して癒えてはいなかったのだ。
そのことに気づいている人間が、この村にたった一人だけいた。
君の本当の顔
彼女の名前はレシア。
僕と同じ年に生まれた幼馴染。
亜麻色の髪をいつも二つに結んでいる、そばかすがチャームポイントの女の子だ。
彼女は昔から少し変わっていた。
他の子供たちが外で元気に駆け回っている時も一人木陰で本を読んでいたり。
僕たちが見過ごしてしまうような道端の小さな花に気づいてしゃがみこんでいたり。
活発でお転婆な一面もあるくせに、時折ひどく大人びた表情をする。
そして何よりも彼女は人の心の機微に驚くほど敏感だった。
言葉にしない感情をその大きな翠色の瞳でくい上げてしまうのだ。
僕が村に帰ってきてからの一年間、彼女は他の村人たちとは少し違っていた。
他の誰もが僕に「頑張れ」「元気を出せ」と励ましてくれた。
その善意はありがたかった。
だが同時に少しだけ息苦しくもあった。
しかしレシアは違った。
彼女は僕に何も言わなかった。
ただ僕が一人で草原に座っていると、いつの間にか隣にやってきて同じように黙って空を見上げている。
僕が家の前でぼんやりしていると、何も言わずにそっと花の一輪を差し出して去っていく。
彼女は僕を無理に励まそうとも慰めようともしなかった。
ただ静かに僕の隣に寄り添ってくれた。
そのさりげない優しさが僕のささくれ立った心をどれだけ救ってくれたことか。
そして彼女だけは決して口にしなかった言葉がある。
『元気になって、よかったね』
他の誰もが僕の笑顔を見てそう言ってくれた。
Tだがレシアだけは一度もその言葉を口にしなかった。
彼女は見抜いていたのだ。
僕の笑顔がただの仮面であることを。
僕の心の奥底に今もなお深い深い闇が澱んでいることを。
一年が過ぎたある夏の日。
その日も僕は友達と笑い合い、何事もなかったかのように日常を過ごしていた。
だがその夜、僕は久しぶりにひどい悪夢にうなされた。
父の血の匂い。
母の冷たい微笑み。
そして僕の腹を貫く聖剣の痛み。
「はあっ……はあっ……はあっ……!」
飛び起きた僕の心臓は破裂しそうだった。
窓の外はまだ暗い。
孤独と恐怖が津波のように押し寄せてくる。
僕は耐え切れずに家を飛び出した。
どこへ行くあてもない。
ただこの息の詰まるような闇から逃げ出したかった。
僕は無意識のうちに村の外れにある丘へと向かっていた。
そこは父さんが生きていた頃、よく二人で星を眺めた場所だった。
丘の頂に着くと、僕はそこに先客がいることに気づいた。
月明かりに照らされて一人の少女が丘の縁に腰掛けていた。
レシアだった。
「……レシア……?」
僕が声をかけると彼女はゆっくりと振り返った。
その翠色の瞳が僕を真っ直ぐに捉える。
「……眠れなかったの?」
彼女は静かに問いかけた。
その声は僕の全てを見透かしているようだった。
僕は何も答えられなかった。
ただ彼女の隣にゆっくりと腰を下ろす。
しばらく二人で黙って満天の星空を眺めていた。
無数の星が瞬いている。
父さんもこの星空のどこかで僕を見ていてくれるのだろうか。
やがてレシアが口を開いた。
「ねえ、ウオ」
「……何?」
「ウオは今、幸せ?」
そのあまりにも真っ直ぐな問いに、僕の心臓がドクリと鳴った。
僕は答えに窮した。
幸せなのだろうか。
村人たちは優しい。
友達もいる。
飢えることもない。
客観的に見れば僕は幸せなのだろう。
でも。
「……わからない」
僕の口から漏れたのは正直な気持ちだった。
「……そっか」
レシアはそれ以上何も聞かなかった。
ただ静かに頷いた。
そして彼女は続けた。
「ウオはさ、笑うのが上手になったよね」
「……え?」
「村のみんなと話してる時。いつも笑ってる。でもね」
レシアは僕の方へと向き直った。
その真剣な眼差しに僕は射竦められた。
「その顔、ウオの本当の顔じゃないでしょう?」




