12
それは息子として父に伝える愛の言葉。
それは相棒として相棒に伝える信頼の言葉。
それは一人の人間としてもう一人の人間へと伝える魂の繋がり。
その言葉が放たれた瞬間。
奇跡は起きた。
僕の涙が父の頬を伝い。
僕の体の温もりが父の冷たい鎧に伝わり。
僕の言葉が父の閉ざされた魂へと届いたその瞬間に。
父の虚ろな瞳の奥で。
ほんの僅かに何かが揺らめいた。
それは闇の中に灯った小さな小さな光の粒だった。
反転魔法の絶対的な呪縛に僕の愛が小さな亀裂を入れたのだ。
闇が揺らぐ。
光が抗う。
父の瞳の中で闇と光の壮絶な戦いが始まったのが僕にはわかった。
憎悪の化身である『勇者ルーミエ』と。
僕の愛する父親である『エミール』の人格が互いの存在を懸けて激しくせめぎ合っている。
その光景は一瞬のようでもあり永遠のようでもあった。
そして。
最終的にその長い長い戦いに終止符を打ったのは。
やはり僕の愛だった。
父の瞳の中から底なしの闇がゆっくりと後退していく。
そしてその後に残されたのは。
僕がずっと知っているあの温かくそして優しい光だった。
父の瞳に僕の顔が映った。
焦点が合った。
「……う……お……」
父の唇が震え僕の名を呼んだ。
それは紛れもないエミールの声だった。
「父さん……!?」
「……すまない……ウオ……俺はお前に……」
父は自分と僕の腹に突き刺さった互いの武器を信じられないといった表情で見下ろした。
そして事態を完全に把握したのだろう。
その顔が苦痛と後悔に歪んだ。
「……しっかりしろウオ! 今治す! 俺の治癒魔法で……!」
父の体から金色の光が溢れ出そうとした。
その時だった。
「……まだ完全な反転は無理みたいね」
冷たい声が広場に響き渡った。
ハッとそちらを見るといつの間にか少し離れた場所に母リリアが腕を組んで立っていた。
彼女はこの僕と父の一部始終をまるで観劇でもするかのように冷めた目で見ていたのだ。
彼女は僕たちの奇跡を嘲笑うかのように小さく舌打ちをした。
「愛ですか。くだらない。そんな不確定な感情ごときが世界の理を覆す私の大魔法に干渉するとは。……計算外でしたわ」
彼女は少し不機嫌そうに呟いた。
その言葉の意味を僕はまだ正確には理解できなかった。
だが彼女が何らかの目的を達成し損ねたことだけはわかった。
「まあ良いでしょう。今回はほんの実験でしたから。データは取れました」
実験?
僕たちはこの女の実験に付き合わされていただけだというのか。
僕たちの絶望も苦しみもこの女にとってはただのデータでしかないというのか。
怒りが僕の胸の奥から込み上げてくる。
だが今の僕にはもうそれに抗うだけの力は残っていなかった。
「ではごきげんよう。私の可愛い大魔王様。そして哀れな勇者」
リリアはそう言い残すとその姿を黒い霧の中へと溶かしていった。
そして霧が晴れた時にはもう彼女の姿はどこにもなかった。
まるで最初からそこに誰もいなかったかのように。
嵐は過ぎ去った。
後に残されたのは。
互いの腹を互いの武器で貫き合ったまま血の海に倒れ伏す父と息子。
そしてその周囲に転がる無数の意識のない人々。
「ウオ……!」
「父さん……!」
僕たちは互いの名を呼び合った。
そして傷の痛みと失血による眩暈の中でかろうじて意識を繋ぎとめる。
絶望的な状況の中で。
それでも僕の心にはほんの僅かな安らぎがあった。
父さんが戻ってきた。
僕の知っている優しい父さんが。
それだけで今はもう十分だった。
僕たちの本当の戦いはまだ始まったばかりなのだということをこの時の僕はまだ本当の意味では理解していなかった。
第一部第十二章 お前には
僕の腹を貫く冷たい鉄の感触。
父の腹を貫く僕の闇が生み出した刃のぬるりとした感触。
血の匂いがむせ返るような鉄の匂いが僕たちの間に満ちていた。
広場には僕と父、そして母リリアによって意識を奪われた数多の人々が転がっている。世界から音が消えただ互いの荒い息遣いと傷口から命が流れ出す微かな音だけが聞こえていた。
母は去った。
嵐のように現れ僕たちの世界を根こそぎ破壊しそしてまるで何もなかったかのように消え去った。
後に残されたのはこの地獄のような光景だけ。
だがそんな絶対的な絶望の只中にあっても。
僕の心にはほんのほんの僅かなしかし確かな光が灯っていた。
父さんが戻ってきた。
反転魔法の呪いが解け僕を見下ろすその瞳にはかつての僕が知る優しくて温かい光が宿っていた。憎悪の化身『勇者ルーミエ』は消え僕の父親『エミール』が僕の目の前に帰ってきてくれたのだ。
それだけで十分だった。
腹の傷がどれだけ痛もうと。
この状況がどれだけ絶望的であろうと。
父さんと一緒ならきっと乗り越えられる。
そう信じていた。
「父さん……大丈夫……?」
僕はか細い声で問いかけた。
「……馬鹿野郎。お前こそ大丈夫か……ウオ」
父さんは苦しげに顔を歪めながらも僕の頭を力なく撫でてくれた。その無骨で大きな手の感触が僕の心をじんわりと温める。
そうだ。希望はある。
僕たちはまだ終わっていない。
「早く……治癒魔法を……」
僕は父さんに懇願した。
ファイナルタワーで見せたあの奇跡の光。あれさえあれば僕たちのこの傷もきっと塞がるはずだ。
「父さんの魔法ならこんな傷すぐに……」
しかし父さんは僕の言葉を遮るように静かに首を振った。
その目に深い深い哀しみの色が浮かぶ。
そして彼はまるで幼子に残酷な真実を言い聞かせるかのようにゆっくりとそしてはっきりと告げたのだ。
「ウオ……よく聞け」
そのあまりにも真剣な声色に僕の心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
「あの反転魔法から抜け出すのに全魔力を使っちまってな」
父さんの言葉が続く。
「父さんはもう……自己治癒魔法を使えないんだ」
……え?
今父さんはなんて言った?
自己治癒魔法を使えない?
僕の思考が完全に停止した。
父さんの言葉が音として耳には入ってくるのにその意味を僕の脳が理解することを拒絶した。
「そん……な……の……」
僕の唇が震える。
「嘘……だよね……? 父さん……冗談でしょ……?」
僕は笑おうとした。
こんな最悪の状況で父さんがらしくない冗談を言っているのだと。
そう思おうとした。
だが父さんの顔に浮かんでいるのは絶望的なまでの真剣さと僕に対する申し訳なさだけだった。
そこには一片の嘘も冗談も存在しなかった。
「……ごめんなウオ……」
父さんのその謝罪の言葉が僕の最後の希望を粉々に打ち砕いた。
光が消えた。
僕の世界から最後の一筋の光が音を立てて消え失せた。
色彩が失われる。
世界が急速に色褪せてモノクロームの冷たい景色へと変わっていく。
使えない?
あの奇跡の魔法が?
父さんの命綱とも言えるあの力がもうない?
じゃあこの傷は?
僕の腹を貫くこの剣は?
父さんの腹を貫く僕の刃は?
このまま塞がらなければ僕たちは……。
死ぬ。
その一言が絶対的な事実として僕の脳髄に突き刺さった。
「そんなの……!!!」
僕は叫んだ。
声にならない叫びだった。
「そんなの……!!!!!」
嘘だ。
何かの間違いだ。
こんなことあっていいはずがない。
僕の心はただひたすらに目の前の残酷すぎる現実を否定し続けた。
父さんが死ぬ?
僕のたった一人の英雄が?
こんな場所で?
こんな形で?
ありえない。
あってはならない。
僕は父さんの言葉が信じられなかった。
信じたくなかった。
「そんなことないよね……? 父さん魔力がなくても気合でなんとかなるっていつも言ってたじゃないか……!」
僕は必死に過去の父さんの言葉を引っ張り出してきた。
それは僕が訓練でへばった時に父さんがよくかけてくれた励ましの言葉だった。
「そうだ……気合だよ父さん! 気合さえあれば傷なんて治るよ!」
僕は支離滅裂なことを口走っていた。
自分でも馬鹿なことを言っているのはわかっていた。
でもそうでもしないと僕の心は張り裂けてしまいそうだった。
父さんはそんな僕の痛々しい姿をただ黙って見つめていた。
その目に憐れみの色が浮かぶ。
その憐れみが僕には耐えられなかった。
それは僕の最後の悪あがきが完全に無意味であると告げているようだったからだ。
やがて僕の否定のエネルギーが尽きた。
そしてその後にやってきたのは第二の波だった。
なぜ?
なぜ父さんは魔力を使い果たしてしまったんだ?
答えはわかっていた。
父さん自身がそう言っていた。
『あの反転魔法から抜け出すのに』
ではなぜ父さんは反転魔法にかかってしまったんだ?
答えはわかっていた。
母リリアがあの忌まわしい詠唱を唱えたからだ。
ではなぜ母はあんな魔法を使ったんだ?
答えはわかっていた。
僕を『大魔王ダイマ・オウ』として完全に覚醒させるための『試練』として。
ではなぜ僕が大魔王なんだ?
なぜ僕はこんな忌まわしい宿命を背負っているんだ?
思考が巡る。
巡って巡って巡って。
そして全ての問いは一つの結論へと収束していく。
全ての原因は。
全ての元凶は。
僕自身だ。
僕がいなければ。
僕が『大魔王』でさえなければ。
こんな悲劇は起きなかった。
父さんは勇者としてもっと別の輝かしい未来を歩んでいたはずだ。
母さんも魔族としての本性を隠したまま父さんと村で幸せに暮らせていたのかもしれない。
僕だ。
僕が全てを壊したんだ。
そして、その自己への憎悪の行き着く先に、一つの鮮明な光景がフラッシュバックした。
ザクリ。
という鈍い手応え。
僕の手が父さんの腹を貫いたあの瞬間の光景。
あの時、僕は確かに大魔王としての記憶に支配されていた。
目の前の父を『悪の勇者』だと誤認していた。
だがそれは言い訳にはならない。
現に父さんを刺したのは、この僕の手なのだから。
もしも。
もしも、僕があの時父さんを刺してさえいなければ。
父さんは致命傷を負わずに済んだのではないか?
自己治癒魔法が使えない状態だったとしても、この程度の傷なら助かったのではないか?
いや違う。
違う。
僕のこの傷だって父さんの剣が貫いている。
僕が刺さなかったとしても、父さんは僕の腹を貫いたままでそのうち力尽きていたかもしれない。
わからない。
もう何もわからない。
だが一つの揺るぎない事実だけがそこにあった。
僕の攻撃が父さんの死期を早めた。
それは紛れもない事実だった。
つまり。
僕が父さんを殺したんだ。
その結論に達した瞬間、僕の精神は完全に決壊した。
罪悪感という名の黒く冷たい濁流が、僕の魂を根こそぎ飲み込んでいく。
「う……う……ああ……っ」
僕の喉から嗚咽が漏れた。
「ごめん……なさい……父さん……ごめんなさい……っ」
僕は泣きじゃくりながら何度も何度も謝った。
何に対して謝っているのか、もはやそれすらも曖昧になっていた。
ただ僕という存在そのものが罪なのだと魂が叫んでいた。
「僕が……僕が父さんを……刺さなければ……っ!」
「違う、ウオ……お前のせいじゃ……」
父さんが力なく僕を慰めようとしてくれる。
だがその優しさすらも今の僕にとっては鋭い刃となって心を抉った。
こんな僕に優しくしないでくれ。
もっと罵ってくれ。
「お前のせいだ」と断罪してくれ。
でなければ僕のこの張り裂けそうな罪悪感の行き場がない。
頭の中で幻聴が聞こえ始めた。
『そうよ。お前が殺したのよ』
母リリアの冷たい声。
『見てみなさい。お前のその汚れた手を』
僕は恐る恐る自分の右手を見下ろした。
そこには父さんの血がべっとりと付着していた。
その赤黒い色は僕の罪の色だった。
決して洗い流すことのできない呪いの刻印だった。
『お前が生まれなければエミールは死なずに済んだのよ』
「ああ……ああああ……っ」
僕は自分の髪をかきむしった。
その声から逃れるように。
だが声は内側から聞こえてくる。
逃げ場などどこにもない。
『そもそもお前は何なんだ?』
今度は自分自身の声が問いかけてきた。
『ウオか? ダイマ・オウか?』
『勇者の息子か? 魔族の王か?』
『正義の味方か? 悪の化身か?』
わからない。
わからない。
わからない!
僕はもう僕が誰なのかもわからなかった。
僕の存在そのものが曖昧で不確かで、そして罪深い何かとしか思えなかった。
肉体的な苦痛が精神的な苦痛と完全にリンクする。
腹の傷がズキリと痛むたびに、それは僕が父さんを刺した罪の痛みとして感じられた。
自分の傷口から血が流れ出すたびに、それは僕が父さんの命をこの手で奪っているように感じられた。
「う……おえぇぇ……っ」
僕は激しく嘔吐した。
胃の中にはもう何もない。
ただ苦い胃液だけが口から溢れ出す。
涙はとうに枯れ果てていた。
代わりに僕の瞳から流れ出ていたのは、絶望という名の乾いた砂だったのかもしれない。
僕の精神はもう限界だった。
罪の濁流に飲み込まれ、僕は完全に溺れていた。
第一部最終章 愛してるぜ、相棒
僕が罪悪感の底なし沼でもがき苦しんでいるその一部始終を、父さんはただ黙って見つめていた。
その薄れゆく意識の中で、彼は何を思っていたのだろうか。
自分の死の恐怖か。
妻への憎しみか。
世界の未来への憂いか。
いや、違う。
彼のその最期の瞳に宿っていたのは、ただ一つ。
息子である僕への深く、そして無限の愛情だけだった。
僕が完全に壊れてしまうその寸前だった。
「……ウオ」
父さんが僕の名を呼んだ。
その声は驚くほど穏やかで、そして力強かった。
まるで死を目前にした人間とは思えないほどの静かな威厳に満ちていた。
僕はハッとして顔を上げた。
父さんが立ち上がろうとしていた。
僕と父さんの体を貫き合っている剣と刃。
それがお互いの体をさらに深く抉る。
激痛が走るはずだった。
だが父さんの顔に苦痛の色は一切浮かんでいなかった。
彼は歯を食いしばり、その凄まじい痛みに耐えながら、ゆっくりと、しかし確実にその身を起こしていく。
それはまるで最初からそうするつもりだったかのようだった。
全ての覚悟を決めた男の動きだった。
やがて父さんは完全に立ち上がった。
満身創痍のその体。
しかしその姿は僕が今まで見てきたどの時の父さんよりも大きく、そして英雄的に見えた。
彼は僕を見下ろした。
その目に浮かんでいたのは、僕を罪の淵から救い出そうとする絶対的な決意の光だった。
「ありがとうな」
父さんはそう言って笑った。
血に塗れたその笑顔は、僕が知っているいつもの不器用で優しい父さんの笑顔だった。
「お前と一緒に旅ができて、本当に楽しかったぜ」
ありがとう?
楽しい?
何を言っているんだ父さん。
僕は父さんを殺した張本人なのに。
「愛してるぜ」
父さんは続けた。
その真っ直ぐな言葉が僕の凍てついた心を貫いた。
「相棒」
彼は僕の肩にぽんと手を置いた。
「……そして俺のたった一人の息子、『ウオ』」
涙が再び僕の頬を伝った。
枯れ果てたはずの涙がとめどなく溢れ出してくる。
それは罪悪感の涙ではなかった。
父さんのあまりにも大きく、そして深い愛に触れた魂の涙だった。
そして父さんは僕を罪悪感から完全に解放するための最後の言葉を告げた。
「安心しろ」
父さんは僕の目を真っ直ぐに見つめて言った。
「俺はお前には殺されねえよ。お前はどうか俺以外の大切な人を見つけて、結婚とかもして幸せになってくれ。だからそのためにお前はたくさん人に恋をしてくれ。父さんからの願いだ」
その言葉の意味を僕が理解した時にはもう遅かった。
父さんは僕の腹を貫いていた聖剣アスカロンを自らの手で引き抜いた。
そしてその勢いのまま反転させると、その切っ先を自らの胸――心臓へと向けた。
「やめ……」
僕の制止の声は間に合わなかった。
父さんは何の躊躇いもなく、その聖剣を自らの胸に深々と突き立てた。
ザシュッ。
という鈍い音。
僕の目の前で、父さんの体が大きく跳ねた。
時間が永遠に引き伸ばされたかのようにスローモーションで全てが見えた。
父さんの胸から噴き出す鮮血。
その驚愕の光景に息を飲む僕の顔。
そしてゆっくりと崩れ落ちていく父さんの体。
その最後の表情は苦痛に歪んではいなかった。
むしろ彼は笑っていた。
全ての役目を終え、愛する息子を罪の呪縛から解き放つことができた安堵と満足に満ちた穏やかな笑みを浮かべていた。
ドサリという重い音を立てて父さんの体が僕の足元に崩れ落ちる。
「……あ……ああ……」
僕はその場にへたり込んだ。
自分の腹の傷の痛みも忘れて、ただ目の前で動かなくなった父さんの亡骸を見つめていた。
静まり返った広場に、僕の慟哭だけがいつまでもいつまでも虚しく響き渡っていた。
父さんは死んだ。
僕に「父親殺し」という最も重い十字架を背負わせないために、自らその命を絶ったのだ。
その究極の愛の前で、僕にできることなどもう何一つ残されてはいなかった。
ただ空っぽの虚無感だけが僕の心を支配していた。




