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「……そろそろ、最後の仕上げといきましょうか」
僕の精神が、崩壊と再生の境界線上で、危うく揺れ動いているのを見計らったかのように、母はゆっくりと立ち上がった。
そして、彼女は両腕を天に掲げた。
「さあ、お聞きなさい。世界の理よ」
彼女が詠唱を始めた。
それは、僕がこれまで聞いたこともない古代の失われた言語だった。
一つ一つの言葉が、空間を震わせ、大気を歪ませていく。
「光あるところに、影は生まれ、影あるところに、光は差す。表裏一体の、二つの貌。今こそ、その仮面を剥がし、真実の姿を、現す時」
詠唱が進むにつれて、周囲の景色が、ぐにゃりと歪み始めた。
空の色が、紫とオレンジの毒々しいマーブル模様に、変わっていく。
地面は、まるで呼吸をしているかのように、隆起と沈降を、繰り返している。
ここは、もう僕の知っている、王都の広場ではなかった。
世界の法則そのものが、書き換えられていく、混沌の中心だった。
「聖は、魔に。
秩序は、混沌に。
愛は、憎悪に。
そして、勇者は――」
母の詠唱が、クライマックスに達しようとしていた。
僕は、動けなかった。
その……おぞましくも、荘厳な光景から、目を、離すことができなかった。
これから、何が起きるのか。
僕は、それを見届けなければならないと、魂が叫んでいた。
詠唱が、終わる。
母が掲げていた腕を、ゆっくりと下ろす。
歪んでいた世界の景色が、元に戻っていく。
静寂。
嵐が過ぎ去ったかのような、完全な静寂。
その静寂を破ったのは、一つの呻き声だった。
「……う……ぅ……」
僕のすぐ足元。
そこに転がっていた父が、身じろぎをしたのだ。
そして、父はゆっくりと、その身を起こした。
「父さん……!!」
僕は思わず、叫んでいた。
父が正気に戻ったのだ。
あの恐ろしい女――母から、僕を助けに来てくれたんだ。
全ての混乱も、葛藤も、その瞬間、僕の頭から、吹き飛んだ。
希望。
そうだ。
父さんさえ、いれば。
この悪夢のような状況から、抜け出せる。
「父さん!!」
僕は泣きながら、父の元へと、駆け寄った。
そして、そのたくましい胸に飛び込もうと、両腕を広げた。
しかし。
僕と父との間に、母が静かに、割り込んだ。
そして、彼女は、立ち上がった父を、まるで、初めて見る珍しい生き物でも観察するかのように、見つめて、言った。
その声は、淡々としていて、感情が読めない。
「悪の権化、『勇者ルーミエ』……」
ルーミエ?
何を、言っているんだ?
父さんの名前は、エミールだ。
「……大魔王ダイマ・オウ様に、試練を与えてくれるのね?」
試練?
大魔王?
母の意味不明な言葉に、僕の足がもつれた。
駆け寄る勢いが、鈍る。
そして、僕は、見てしまった。
立ち上がった、父の、その、瞳を。
そこには、もう僕の知っている優しい父の面影は、どこにもなかった。
その瞳に、宿っていたのは、光ではなかった。
全ての、生命に対する、底なしの、憎悪と、破壊衝動だけを、映し出す、絶対的な、闇。
それは、僕がファイナルタワーで、レイザーと戦った時の、自分自身の瞳に似ていた。
いや、それ以上に深く、そして、救いようのない闇だった。
父は、ゆっくりと顔を上げた。
そして、僕と母を交互に見ると、その唇から、低い獣のような唸り声を、漏らした。
「………殺す」
その一言は。
かつて、父があれほど僕に、言ってほしくないと願った、言葉。
「……どいつも、こいつも」
父は、床に転がっていた自らの愛剣を、拾い上げた。
聖剣アスカロン。
歴代の勇者の魂が宿る、光の象徴。
しかし、今の彼の手に握られた、の剣は、禍々しい、紫色のオーラを、放っていた。
もはや、それは聖剣ではなかった。
ただ、純粋な破壊のためだけに存在する、呪われた魔剣だった。
僕の足が、完全に止まる。
希望が、絶望へと、再び反転する。
父と僕の距離は、あと、数歩。
抱きしめられるはずだった、その距離。
僕は、父の……その変わり果てた姿を見て、金縛りにあったように、動けなくなった。
そして。
父――いや、『勇者ルーミエ』と呼ばれた、その化け物は。
駆け寄ってきた息子の僕に向かって。
何の、躊躇いもなく。
その愛用していたはずの、剣を。
水平に、突き出した。
ザシュッ。
その音とともに現れる……
生々しくて残酷な生温かい感触。
僕の視界が、ぐらりと揺れた。
何が起きたのか、すぐには理解できなかった。
ただ、お腹のあたりに、焼けるような激痛が走った。
ゆっくりと、視線を下げる。
僕の、腹には。
大きな穴が、空いていた。
その穴から、見慣れた剣の切っ先が、突き出ている。
父さんが、いつも手入れをしていた、聖剣アスカロン。
その剣が、今、僕の体を、貫いていた。
「……あ……」
僕の口から、血の泡と共に、空気が漏れた。
信じられないという、感情すら、湧いてこない。
ただ、空白。
僕の頭の中は、真っ白だった。
抱きしめて、くれるはずだった。
助けて、くれるはずだった。
父さんの、腕の中で。
剣を貫かれたまま、僕の体は、前のめりに、倒れ込む。
そして、父の胸に、もたれかかった。
父の冷たい、鎧の感触。
血の、鉄臭い匂い。
僕は、薄れゆく意識の中で、父の顔を、見上げた。
その瞳は、相変わらず、空っぽの、闇だった。
息子を貫いたというのに、その表情には、何の変化もない。
そして、僕の視界の端で。
母が、その光景を。
父親が息子を貫くという、この地獄の光景を。
満足げに、微笑みながら、見つめていた。
ああ、そうか。
これが、試練。
これが、僕が、大魔王として、生まれ変わるための、儀式。
僕の愛した、世界が。
僕の愛した、父と、母の……手によって。
完全に、破壊されていく。
意識が、闇に、沈んでいく。
その最後の、瞬間に。
僕の耳の……奥で。
知らないはずの、声が響いた。
――よくやった、我が息子よ。そして、我が妻よ。
――これで、ようやく、本当の、お前が、目覚める。
その声が、誰のものだったのか。
それを、確認する前に。
僕の世界は、完全に、終わった。
第一部第十一章 愛している
焼けるような、激痛。
僕の腹を貫いた父の剣。それが、僕の体の中で、まるで灼熱の鉄塊と化して、内臓を、骨を、魂そのものを、無慈悲にかき混ぜていく。
熱い。痛い。苦しい。
視界が、赤と黒のノイズで、明滅している。
父の、冷たい鎧の感触。
僕自身の、生暖かい血が、その鎧を伝って、石畳へと滴り落ちていく音。
遠ざかっていく、母の、満足げな微笑み。
ああ、死ぬのか。
僕は、そう、思った。
父さんに、殺されるのか。
母さんに、見捨てられて。
これが、僕の、ウオという、少年の、人生の、終わりなのか。
意識が、闇の底へと、ゆっくりと沈んでいく。
体の感覚が、なくなっていく。
痛みすらも、遠のいていく。
これで、楽になれる。
もう、何も考えなくていい。
僕が誰なのかなんて、苦しい問いに、答えを探さなくてもいい。
そう思った、瞬間だった。
僕の魂の、最も、深い、深い、底。
僕自身ですら、今まで、一度も、触れたことのなかった、その場所で。
何かが、 弾け飛んだ。
激痛が、引き金だった。
死の、淵に立ったことが、鍵だった。
閉ざされていた、記憶の、水門が、轟音と共に、破壊された。
そして、僕の、矮小な、器には、到底、収まりきらないほどの、膨大な、情報の濁流が、僕の、精神世界へと、雪崩れ込んできたのだ。
――それは、光景だった。
今の僕が見ている、この青い空とは、違う。
紫色の、双子の月が浮かぶ、血のように赤い空。
ガラスの破片のような、鋭利な岩山が、大地から、無数に突き出している、荒廃した世界。
――それは、音だった。
人々の、悲鳴。
建物の、崩れる音。
そして、それらを、蹂躙する、禍々しい、オーラを纏った、異形の者たちの、雄叫び。
――そして、それは、感情だった。
怒り。
純粋で、神聖なまでの、怒り。
弱き者を、虐げる、不条理な『悪』に対する、断罪の、意志。
この、歪んだ世界を、正すのだという、絶対的な、使命感。
その、記憶の中心に、僕は、いた。
いや、それは、僕ではなかった。
今の、この、小さな、ウオという、少年ではない。
もっと、遥かに巨大で。
遥かに、荘厳で。
遥かに、力強い、何か。
漆黒の、黒曜石を削り出したかのような、美しい鎧を、その身にまとい。
背には夜空そのものを、切り取ったかのような、六対の、翼を生やし。
その手には、宇宙の、闇よりも、深い、漆黒の、大剣を、握りしめている。
その姿は、紛れもなく、『大魔王』と、呼ばれるに、相応しいものだった。
だが、その大魔王は、破壊の限りを、尽くしてはいなかった。
彼は、泣き叫ぶ人々を、その巨大な翼で、庇い。
異形の者たち――その額に、歪んだ聖印を刻んだ、『悪の勇者』たちに、敢然と、立ち向かっていたのだ。
『我が名は、ダイマ・オウ』
僕の、頭の中に、直接、その声が、響き渡る。
それは、僕自身の声でありながら、僕のものではない、重く、威厳に満ちた声だった。
『この世界の、調停者にして、悪を裁く、正義の執行者なり』
記憶の中の、ダイマ・オウは、悪の勇者たちを、次々と、その漆黒の大剣で、屠っていく。
その剣技は、苛烈で、無慈悲。
しかし、その瞳には、深い、悲しみの色が、浮かんでいた。
『何故、お前たちは、その力を、民を虐げるために、使うのか』
『勇者とは、光とは、弱き者を、守るためのものではなかったのか』
その光景は、母リリアが語った、「悪虐の限りを尽くした大魔王」とは、全く、正反対の姿だった。
彼は、紛れもなく、『正義の味方』として、戦っていたのだ。
そして、その、記憶の中の、光景と。
目の前の、現実が、重なり合った。
闇の、オーラを、その身にまとい。
虚ろな、瞳で、僕を、見下ろす、この男。
『勇者ルーミエ』と、呼ばれた、僕の、父。
その姿は、記憶の中の、ダイマ・オウが、斬り伏せてきた、『悪の勇者』たちと、寸分、違わなかった。
瞬間。
僕の、意識は、まだ、闇の、底にあった。
だが、僕の、体は、魂に、刻み込まれた、本能によって、動いた。
目の前の、『悪』を、排除せよ。
僕の、腹を、貫いている、聖剣。
その、冷たい、鉄の感触。
それを、握りしめている、父の、腕。
その、腕を、掴んだ。
そして、僕の、もう片方の、自由な手から、黒い、光が、溢れ出した。
その光は、瞬時に、鋭利な、闇の、刃へと、形を変える。
それは、思考よりも、速い、反射だった。
魂が、下した、無意識の、裁きだった。
ザクリ。
という、鈍い、手応え。
僕の、闇の刃が。
僕を、抱きかかえるような形で、密着していた、父の、腹部を。
深々と、貫いていた。
自分の、手が、父の、体を、貫いた、その、生々しい、感触。
それが、引き金となって、僕の意識は、濁流のような、記憶の奔流から、現実へと、引き戻された。
フラッシュバックが、消える。
紫の月も、荒廃した大地も、悪の勇者も、全てが、霧のように、晴れていく。
そして、僕の目に、再び、映し出されたのは。
絶望的な、現実だった。
僕の腹には、父の剣が。
父の腹には、僕の、闇の刃が。
互いの、体を、互いの、武器が、貫き合っているという、あまりにも、グロテスクで、悲劇的な、光景。
「あ……」
目の前にいるのは、記憶の中の、憎むべき、『悪の勇-者』ではない。
「……あ……あ……」
僕の、大好きな、父さんだ。
不器用で、優しくて、僕の、たった一人の、英雄。
「父さん……!!!!!」
僕の、喉から、絶叫が、迸った。
何て、ことを。
僕は、何て、ことを、してしまったんだ。
僕が、父さんを。
この、手で。
刺した?
血に濡れた、自分の、右手を見下ろす。
そこから、まだ、黒い、オーラが、陽炎のように、立ち上っていた。
父の、温かい、血の、感触が、べっとりと、こびりついている。
「あああああああああああああああ!!!!!!」
僕は、再び、絶叫した。
腹を、貫かれた、痛みなど、もう、どこかへ、吹き飛んでいた。
それよりも、遥かに痛い、心の、痛みが、僕の、全身を、苛んでいた。
自己嫌悪。
後悔。
そして、絶対的な、恐怖。
父さんが、死んでしまう。
僕の、せいで。
パニックに、陥った、僕の脳裏に、一つの、記憶が、閃光のように、蘇った。
ファイナル-タワーでの、光景。
レイザーに、致命傷を、負わされた、父さんが、金色の光に、包まれて、一瞬で、その傷を、治してしまった、あの、奇跡。
自己治癒魔法。
そうだ。
あれが、ある。
あれさえ、あれば、父さんは、助かる。
この程度の、傷、なんて。
僕は、父の、鎧に、必死に、しがみついた。
「父さん!!! 早く、直せよ!!!」
僕は、泣き叫んでいた。
まるで、駄々をこねる、幼子のように。
「この程度の、傷!!! 父さんなら、数秒で、直せるんだろ!!!?」
だが、父は、答えない。
その瞳は、相変わらず、虚ろな、闇を、映しているだけだった。
僕のことなど、見えていないかのように。
腹を、貫かれた、痛みすら、感じていないかのように。
「なんでだよ!!! なんで、直さないんだよ!!!」
僕は、父の体を、がくがくと揺さぶった。
涙と、鼻水と、そして、僕自身の、腹から流れ出る血で、ぐちゃぐちゃになりながら。
「早くしろよ!!! このままじゃ、父さんが、死んじゃうだろ!!!」
懇願は、やがて、命令じみた、叫びへと変わる。
それは、まるで、壊れた、レコードのようだった。
同じ、言葉を、何度も、何度も、意味もなく、ただ、繰り返す。
「直せよ……早く、直せよ……父さん……お願いだから……死なないでくれ……」
僕の声は、徐々に、力を失っていく。
大量の、出血が、僕の体温と意識を、奪っていく。
目の前が、霞んでいく。
父さんの、顔が、ぼやけていく。
ああ、駄目だ。
僕も、もう、終わりだ。
父さんと、一緒に、ここで、死ぬんだ。
僕が殺した、父さんと、一緒に。
その絶望が、僕の、心を、完全に、黒く、塗りつぶそうとした、その、最後の、瞬間に。
僕の、心の、奥底から。
最後の、最後の、本音が、言葉となって、溢れ出した。
それは、懇願でも、命令でも、絶叫でもなかった。
ただ純粋な、魂の告白だった。
「…………父さん」
僕は、残った、全ての力を、その言葉に、込めて。
父の、冷たい、頬に、自分の、頬を、すり寄せた。
「愛してる……!!」




