表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/60

11

「……そろそろ、最後の仕上げといきましょうか」

 僕の精神が、崩壊と再生の境界線上で、危うく揺れ動いているのを見計らったかのように、母はゆっくりと立ち上がった。

 そして、彼女は両腕を天に掲げた。

「さあ、お聞きなさい。世界の理よ」

 彼女が詠唱を始めた。

 それは、僕がこれまで聞いたこともない古代の失われた言語だった。

 一つ一つの言葉が、空間を震わせ、大気を歪ませていく。

「光あるところに、影は生まれ、影あるところに、光は差す。表裏一体の、二つの貌。今こそ、その仮面を剥がし、真実の姿を、現す時」

 詠唱が進むにつれて、周囲の景色が、ぐにゃりと歪み始めた。

 空の色が、紫とオレンジの毒々しいマーブル模様に、変わっていく。

 地面は、まるで呼吸をしているかのように、隆起と沈降を、繰り返している。

 ここは、もう僕の知っている、王都の広場ではなかった。

 世界の法則そのものが、書き換えられていく、混沌の中心だった。

「聖は、魔に。

 秩序は、混沌に。

 愛は、憎悪に。

 そして、勇者は――」

 母の詠唱が、クライマックスに達しようとしていた。

 僕は、動けなかった。

 その……おぞましくも、荘厳な光景から、目を、離すことができなかった。

 これから、何が起きるのか。

 僕は、それを見届けなければならないと、魂が叫んでいた。

 詠唱が、終わる。

 母が掲げていた腕を、ゆっくりと下ろす。

 歪んでいた世界の景色が、元に戻っていく。

 静寂。

 嵐が過ぎ去ったかのような、完全な静寂。

 その静寂を破ったのは、一つの呻き声だった。

「……う……ぅ……」

 僕のすぐ足元。

 そこに転がっていた父が、身じろぎをしたのだ。

 そして、父はゆっくりと、その身を起こした。

「父さん……!!」

 僕は思わず、叫んでいた。

 父が正気に戻ったのだ。

 あの恐ろしい女――母から、僕を助けに来てくれたんだ。

 全ての混乱も、葛藤も、その瞬間、僕の頭から、吹き飛んだ。

 希望。

 そうだ。

 父さんさえ、いれば。

 この悪夢のような状況から、抜け出せる。

「父さん!!」

 僕は泣きながら、父の元へと、駆け寄った。

 そして、そのたくましい胸に飛び込もうと、両腕を広げた。

 しかし。

 僕と父との間に、母が静かに、割り込んだ。

 そして、彼女は、立ち上がった父を、まるで、初めて見る珍しい生き物でも観察するかのように、見つめて、言った。

 その声は、淡々としていて、感情が読めない。

「悪の権化、『勇者ルーミエ』……」

 ルーミエ?

 何を、言っているんだ?

 父さんの名前は、エミールだ。

「……大魔王ダイマ・オウ様に、試練を与えてくれるのね?」

 試練?

 大魔王?

 母の意味不明な言葉に、僕の足がもつれた。

 駆け寄る勢いが、鈍る。

 そして、僕は、見てしまった。

 立ち上がった、父の、その、瞳を。

 そこには、もう僕の知っている優しい父の面影は、どこにもなかった。

 その瞳に、宿っていたのは、光ではなかった。

 全ての、生命に対する、底なしの、憎悪と、破壊衝動だけを、映し出す、絶対的な、闇。

 それは、僕がファイナルタワーで、レイザーと戦った時の、自分自身の瞳に似ていた。

 いや、それ以上に深く、そして、救いようのない闇だった。

 父は、ゆっくりと顔を上げた。

 そして、僕と母を交互に見ると、その唇から、低い獣のような唸り声を、漏らした。

「………殺す」

 その一言は。

 かつて、父があれほど僕に、言ってほしくないと願った、言葉。

「……どいつも、こいつも」

 父は、床に転がっていた自らの愛剣を、拾い上げた。

 聖剣アスカロン。

 歴代の勇者の魂が宿る、光の象徴。

 しかし、今の彼の手に握られた、の剣は、禍々しい、紫色のオーラを、放っていた。

 もはや、それは聖剣ではなかった。

 ただ、純粋な破壊のためだけに存在する、呪われた魔剣だった。

 僕の足が、完全に止まる。

 希望が、絶望へと、再び反転する。

 父と僕の距離は、あと、数歩。

 抱きしめられるはずだった、その距離。

 僕は、父の……その変わり果てた姿を見て、金縛りにあったように、動けなくなった。

 そして。

 父――いや、『勇者ルーミエ』と呼ばれた、その化け物は。

 駆け寄ってきた息子の僕に向かって。

 何の、躊躇いもなく。

 その愛用していたはずの、剣を。

 水平に、突き出した。

 ザシュッ。

 その音とともに現れる……

 生々しくて残酷な生温かい感触。

 僕の視界が、ぐらりと揺れた。

 何が起きたのか、すぐには理解できなかった。

 ただ、お腹のあたりに、焼けるような激痛が走った。

 ゆっくりと、視線を下げる。

 僕の、腹には。

 大きな穴が、空いていた。

 その穴から、見慣れた剣の切っ先が、突き出ている。

 父さんが、いつも手入れをしていた、聖剣アスカロン。

 その剣が、今、僕の体を、貫いていた。

「……あ……」

 僕の口から、血の泡と共に、空気が漏れた。

 信じられないという、感情すら、湧いてこない。

 ただ、空白。

 僕の頭の中は、真っ白だった。

 抱きしめて、くれるはずだった。

 助けて、くれるはずだった。

 父さんの、腕の中で。

 剣を貫かれたまま、僕の体は、前のめりに、倒れ込む。

 そして、父の胸に、もたれかかった。

 父の冷たい、鎧の感触。

 血の、鉄臭い匂い。

 僕は、薄れゆく意識の中で、父の顔を、見上げた。

 その瞳は、相変わらず、空っぽの、闇だった。

 息子を貫いたというのに、その表情には、何の変化もない。

 そして、僕の視界の端で。

 母が、その光景を。

 父親が息子を貫くという、この地獄の光景を。

 満足げに、微笑みながら、見つめていた。

 ああ、そうか。

 これが、試練。

 これが、僕が、大魔王として、生まれ変わるための、儀式。

 僕の愛した、世界が。

 僕の愛した、父と、母の……手によって。

 完全に、破壊されていく。

 意識が、闇に、沈んでいく。

 その最後の、瞬間に。

 僕の耳の……奥で。

 知らないはずの、声が響いた。

 ――よくやった、我が息子よ。そして、我が妻よ。

 ――これで、ようやく、本当の、お前が、目覚める。

 その声が、誰のものだったのか。

 それを、確認する前に。

 僕の世界は、完全に、終わった。




 第一部第十一章 愛している

 焼けるような、激痛。

 僕の腹を貫いた父の剣。それが、僕の体の中で、まるで灼熱の鉄塊と化して、内臓を、骨を、魂そのものを、無慈悲にかき混ぜていく。

 熱い。痛い。苦しい。

 視界が、赤と黒のノイズで、明滅している。

 父の、冷たい鎧の感触。

 僕自身の、生暖かい血が、その鎧を伝って、石畳へと滴り落ちていく音。

 遠ざかっていく、母の、満足げな微笑み。

 ああ、死ぬのか。

 僕は、そう、思った。

 父さんに、殺されるのか。

 母さんに、見捨てられて。

 これが、僕の、ウオという、少年の、人生の、終わりなのか。

 意識が、闇の底へと、ゆっくりと沈んでいく。

 体の感覚が、なくなっていく。

 痛みすらも、遠のいていく。

 これで、楽になれる。

 もう、何も考えなくていい。

 僕が誰なのかなんて、苦しい問いに、答えを探さなくてもいい。

 そう思った、瞬間だった。

 僕の魂の、最も、深い、深い、底。

 僕自身ですら、今まで、一度も、触れたことのなかった、その場所で。

 何かが、 弾け飛んだ。

 激痛が、引き金だった。

 死の、淵に立ったことが、鍵だった。

 閉ざされていた、記憶の、水門が、轟音と共に、破壊された。

 そして、僕の、矮小な、器には、到底、収まりきらないほどの、膨大な、情報の濁流が、僕の、精神世界へと、雪崩れ込んできたのだ。

 ――それは、光景だった。

 今の僕が見ている、この青い空とは、違う。

 紫色の、双子の月が浮かぶ、血のように赤い空。

 ガラスの破片のような、鋭利な岩山が、大地から、無数に突き出している、荒廃した世界。

 ――それは、音だった。

 人々の、悲鳴。

 建物の、崩れる音。

 そして、それらを、蹂躙する、禍々しい、オーラを纏った、異形の者たちの、雄叫び。

 ――そして、それは、感情だった。

 怒り。

 純粋で、神聖なまでの、怒り。

 弱き者を、虐げる、不条理な『悪』に対する、断罪の、意志。

 この、歪んだ世界を、正すのだという、絶対的な、使命感。

 その、記憶の中心に、僕は、いた。

 いや、それは、僕ではなかった。

 今の、この、小さな、ウオという、少年ではない。

 もっと、遥かに巨大で。

 遥かに、荘厳で。

 遥かに、力強い、何か。

 漆黒の、黒曜石を削り出したかのような、美しい鎧を、その身にまとい。

 背には夜空そのものを、切り取ったかのような、六対の、翼を生やし。

 その手には、宇宙の、闇よりも、深い、漆黒の、大剣を、握りしめている。

 その姿は、紛れもなく、『大魔王』と、呼ばれるに、相応しいものだった。

 だが、その大魔王は、破壊の限りを、尽くしてはいなかった。

 彼は、泣き叫ぶ人々を、その巨大な翼で、庇い。

 異形の者たち――その額に、歪んだ聖印を刻んだ、『悪の勇者』たちに、敢然と、立ち向かっていたのだ。

『我が名は、ダイマ・オウ』

 僕の、頭の中に、直接、その声が、響き渡る。

 それは、僕自身の声でありながら、僕のものではない、重く、威厳に満ちた声だった。

『この世界の、調停者にして、悪を裁く、正義の執行者なり』

 記憶の中の、ダイマ・オウは、悪の勇者たちを、次々と、その漆黒の大剣で、屠っていく。

 その剣技は、苛烈で、無慈悲。

 しかし、その瞳には、深い、悲しみの色が、浮かんでいた。

『何故、お前たちは、その力を、民を虐げるために、使うのか』

『勇者とは、光とは、弱き者を、守るためのものではなかったのか』

 その光景は、母リリアが語った、「悪虐の限りを尽くした大魔王」とは、全く、正反対の姿だった。

 彼は、紛れもなく、『正義の味方』として、戦っていたのだ。

 そして、その、記憶の中の、光景と。

 目の前の、現実が、重なり合った。

 闇の、オーラを、その身にまとい。

 虚ろな、瞳で、僕を、見下ろす、この男。

『勇者ルーミエ』と、呼ばれた、僕の、父。

 その姿は、記憶の中の、ダイマ・オウが、斬り伏せてきた、『悪の勇者』たちと、寸分、違わなかった。

 瞬間。

 僕の、意識は、まだ、闇の、底にあった。

 だが、僕の、体は、魂に、刻み込まれた、本能によって、動いた。

 目の前の、『悪』を、排除せよ。

 僕の、腹を、貫いている、聖剣。

 その、冷たい、鉄の感触。

 それを、握りしめている、父の、腕。

 その、腕を、掴んだ。

 そして、僕の、もう片方の、自由な手から、黒い、光が、溢れ出した。

 その光は、瞬時に、鋭利な、闇の、刃へと、形を変える。

 それは、思考よりも、速い、反射だった。

 魂が、下した、無意識の、裁きだった。

 ザクリ。

 という、鈍い、手応え。

 僕の、闇の刃が。

 僕を、抱きかかえるような形で、密着していた、父の、腹部を。

 深々と、貫いていた。


 自分の、手が、父の、体を、貫いた、その、生々しい、感触。

 それが、引き金となって、僕の意識は、濁流のような、記憶の奔流から、現実へと、引き戻された。

 フラッシュバックが、消える。

 紫の月も、荒廃した大地も、悪の勇者も、全てが、霧のように、晴れていく。

 そして、僕の目に、再び、映し出されたのは。

 絶望的な、現実だった。

 僕の腹には、父の剣が。

 父の腹には、僕の、闇の刃が。

 互いの、体を、互いの、武器が、貫き合っているという、あまりにも、グロテスクで、悲劇的な、光景。

「あ……」

 目の前にいるのは、記憶の中の、憎むべき、『悪の勇-者』ではない。

「……あ……あ……」

 僕の、大好きな、父さんだ。

 不器用で、優しくて、僕の、たった一人の、英雄。

「父さん……!!!!!」

 僕の、喉から、絶叫が、迸った。

 何て、ことを。

 僕は、何て、ことを、してしまったんだ。

 僕が、父さんを。

 この、手で。

 刺した?

 血に濡れた、自分の、右手を見下ろす。

 そこから、まだ、黒い、オーラが、陽炎のように、立ち上っていた。

 父の、温かい、血の、感触が、べっとりと、こびりついている。

「あああああああああああああああ!!!!!!」

 僕は、再び、絶叫した。

 腹を、貫かれた、痛みなど、もう、どこかへ、吹き飛んでいた。

 それよりも、遥かに痛い、心の、痛みが、僕の、全身を、苛んでいた。

 自己嫌悪。

 後悔。

 そして、絶対的な、恐怖。

 父さんが、死んでしまう。

 僕の、せいで。

 パニックに、陥った、僕の脳裏に、一つの、記憶が、閃光のように、蘇った。

 ファイナル-タワーでの、光景。

 レイザーに、致命傷を、負わされた、父さんが、金色の光に、包まれて、一瞬で、その傷を、治してしまった、あの、奇跡。

 自己治癒魔法。

 そうだ。

 あれが、ある。

 あれさえ、あれば、父さんは、助かる。

 この程度の、傷、なんて。

 僕は、父の、鎧に、必死に、しがみついた。

「父さん!!! 早く、直せよ!!!」

 僕は、泣き叫んでいた。

 まるで、駄々をこねる、幼子のように。

「この程度の、傷!!! 父さんなら、数秒で、直せるんだろ!!!?」

 だが、父は、答えない。

 その瞳は、相変わらず、虚ろな、闇を、映しているだけだった。

 僕のことなど、見えていないかのように。

 腹を、貫かれた、痛みすら、感じていないかのように。

「なんでだよ!!! なんで、直さないんだよ!!!」

 僕は、父の体を、がくがくと揺さぶった。

 涙と、鼻水と、そして、僕自身の、腹から流れ出る血で、ぐちゃぐちゃになりながら。

「早くしろよ!!! このままじゃ、父さんが、死んじゃうだろ!!!」

 懇願は、やがて、命令じみた、叫びへと変わる。

 それは、まるで、壊れた、レコードのようだった。

 同じ、言葉を、何度も、何度も、意味もなく、ただ、繰り返す。

「直せよ……早く、直せよ……父さん……お願いだから……死なないでくれ……」

 僕の声は、徐々に、力を失っていく。

 大量の、出血が、僕の体温と意識を、奪っていく。

 目の前が、霞んでいく。

 父さんの、顔が、ぼやけていく。

 ああ、駄目だ。

 僕も、もう、終わりだ。

 父さんと、一緒に、ここで、死ぬんだ。

 僕が殺した、父さんと、一緒に。

 その絶望が、僕の、心を、完全に、黒く、塗りつぶそうとした、その、最後の、瞬間に。

 僕の、心の、奥底から。

 最後の、最後の、本音が、言葉となって、溢れ出した。

 それは、懇願でも、命令でも、絶叫でもなかった。

 ただ純粋な、魂の告白だった。

「…………父さん」

 僕は、残った、全ての力を、その言葉に、込めて。

 父の、冷たい、頬に、自分の、頬を、すり寄せた。

「愛してる……!!」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ