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第一部第十章 違う
僕の時間は、完全に停止していた。
目の前に立つ、女。
魔王を、指先一つの戯れで、塵芥へと変えた、絶対的な強者。
その顔は、僕の、母だった。
僕が、この世で最も愛し、そして、僕を最も愛してくれていると信じていた、たった一人の母親、リリア。
彼女は今、僕の知る、どんな表情とも違う、見たこともないような、冷たい、氷のような微笑みを浮かべていた。
「久しぶりだね。ウオ……そして、私の夫、『エミール』」
その声は、かつて、子守唄を歌ってくれた優しい声ではなかった。熱を出した僕の額を撫でてくれた、温かい響きでもなかった。
まるで、遠い星の出来事でも語るかのような、何の感情も、温度も感じられない、無機質な音の羅列だった。
僕の背後で、父が、か細く、震える声で、その名を呼んだ。
「……サラ……なぜ……どうして、お前が、ここに……」
それは、勇者の声ではなかった。ただ、愛する妻の、信じがたい裏切りに、打ちのめされた、一人の男の、悲痛な呻きだった。
父は、震える足で、一歩、前に踏み出そうとした。満身創痍の体を引きずり、それでも、夫として、目の前の妻に、問いただそうとしたのだ。その、あまりにも痛々しい姿に、僕は、思わず父の服の裾を掴んでいた。
だが、父のその、英雄としての、そして、夫としての、最後の気概は、母――リリアの、あまりにも無慈悲な一言によって、粉々に打ち砕かれた。
「遅い」
その言葉が、僕の耳に届いた時には、もう、全てが終わっていた。
母の姿が、陽炎のように揺らめいた。そう、認識した瞬間には、彼女は、既に父の懐、ゼロ距離に、踏み込んでいたのだ。
速い。
あの魔王との戦いですら、霞んで見えるほどの、神速。
父の目が、驚愕に見開かれる。彼もまた、母の動きを、全く捉えられていなかった。
そして、母の、白魚のように美しい手が、まるで、愛しい者の頬を撫でるかのような、優しい軌道で、振り上げられた。
トン。
という、あまりにも、軽い音。
母の手刀が、父の首筋に、そっと、触れただけ。
まるで、戯れに、小突いたかのように。
それだけだった。
しかし、次の瞬間、父の巨体から、全ての力が、抜け落ちた。
その瞳から光が消え、膝が、がくり、と折れる。そして、まるで、糸の切れた操り人形のように、その場に、崩れ落ちた。
気絶したのだ。
勇者エミールが。
この世界の、希望の光が。
僕の、たった一人の、父親が。
あまりにも、あっけなく。
子供の遊びのように、無力化された。
僕は、その光景を、声も出せずに、ただ、見つめていた。
父の体が、石畳の上に、ぴくりとも動かずに横たわっている。
「さて」
母は、まるで、床の埃でも払ったかのような、気軽な仕草で、自分の手を、パン、と叩いた。
そして、その氷のような視線を、広場の隅で、この異常な事態を、恐怖に顔を引き攣らせながら見つめていた、逃げ遅れた民衆へと向けた。
「少し、舞台が、騒がしいわね」
彼女が、そう呟いたかと思うと、その姿が、再び、掻き消えた。
いや、消えたのではない。
僕の、父の戦いを見続けて進化したはずの動体視力ですら、もはや、残像すら捉えることができない速度で、彼女は、広場を、駆け巡っていたのだ。
トン。トン。トン。トン。トン。
軽い音が、広場のあちこちで、連続して響き渡る。
その音が、一つ、響くたびに、一人の人間が、悲鳴を上げる間もなく、その場に、崩れ落ちていく。
数秒。
本当に、瞬きをするほどの、わずかな時間だった。
その間に、広場に残っていた、数十人の人間、その全てが、父と、全く同じように、首の裏に手刀を打ち込まれ、意識を失っていた。
広場は、再び、完全な静寂に包まれた。
後に残されたのは、意識のない人々の骸が、無数に転がる、悪夢のような光景と。
そして、その中心に立つ、母と、僕、だけだった。
「これで、邪魔者はいなくなったわね」
母は、満足げに、頷いた。
そして、ゆっくりと、僕の方へと、向き直る。
僕は、後ずさった。
目の前にいるのは、僕の知っている、母親ではない。
それは、人の皮を被った、何か、別の、恐ろしい生き物だった。
「ウオ」
彼女は、僕の名を呼んだ。
その声は、相変わらず、冷たい。
「………いや」
そして、彼女は、その言葉を、訂正した。
まるで、これから、この世で最も重要な、真実を告げるかのように、その声に、僅かな、しかし、確かな、儀式的な響きを込めて。
「本名は……『マイダ・ウオ』様」
マイダ・ウオ。
その、聞き覚えのない名前に、僕は、眉をひそめた。
何を、言っているんだ、この人は。
僕の名前は、ウオだ。ただの、ウオだ。
「……何故、僕の、本名を知っている?」
僕は、震える声で、問い返していた。
自分でも、なぜ、そんなことを口走ったのか、わからなかった。
その名前は、知らないはずなのに。
僕の、本名などでは、ないはずなのに。
それなのに、僕の口は、まるで、それが当然の事実であるかのように、言葉を紡いでしまったのだ。
母は、僕のその問いに、深く、そして、恍惚とした笑みを浮かべた。
「それは、勿論」
彼女は、その場で、優雅に、片膝をついた。
まるで、王に、傅く、騎士のように。
「貴方様が、私達、魔族の、主君であらせられるからですわ」
主君?
魔族の?
僕が?
母の言葉は、意味不明な、単語の羅列にしか聞こえなかった。
僕の頭は、完全に、混乱の渦に飲み込まれていた。
父の敗北、母の裏切り、そして、この突拍子もない告白。
現実が、僕の理解できる速度を、遥かに超えて、暴走している。
「……どういう……ことだ……」
僕は、かろうじて、それだけを、絞り出した。
母は、膝をついたまま、その顔を、ゆっくりと上げた。
その瞳は、狂信的なまでの、輝きに満ちていた。
「貴方様は、今までは、ご自分が『大魔王』であることを、お忘れになられていました」
大魔王。
その言葉が、雷鳴のように、僕の頭蓋に響き渡った。
「悪虐の限りを尽くす、破壊の化身。それが、記憶を失う前の、貴方様の、お姿。ですが、それも、もう終わりです」
違う。
違う違う違う違う違う!!!
僕は、大魔王なんかじゃない!
僕は、ウオだ!
勇者エミールの、息子だ!
人々を守るために、父さんと一緒に、ここまで来たんだ!
そう、心の中で、必死に叫ぶ。
だが、声にはならなかった。
母の放つ、圧倒的な存在感が、僕の喉を、見えない力で、締め付けているかのようだった。
「私の、この『反転魔法』によって、善悪の立場が逆転した、これからの、新しい世界では、違うのです」
母は、まるで、美しい詩でも詠むかのように、うっとりと、続けた。
「……は?」
僕の口から、間抜けな声が漏れた。
「つまり、こういうことですわ、マイダ・ウオ様。貴方様は、今、記憶をなくしておられる。ですが、この世界の善悪の立場が、完全に反転した時……貴方様は、『正義の味方』である、大魔王としての、本当の記憶を、取り戻されるはずなのです」
正義の、味方?
大魔王が?
「そして、貴方様の、今の、仮初の名も、反転する。ウオ、という名前は、反転し、貴方様の、真の名前である、『ダイマ・オウ』を、取り戻されるのですよ」
ダイマ・オウ。
その響きが、僕の魂の、最も深い部分を、激しく、揺さぶった。
知らないはずの名前。
聞いたことも、ないはずの名前。
なのに、なぜ。
その名前は、まるで、ずっと昔に失くしてしまった、自分自身の、半身を、見つけ出したかのような、恐ろしいほどの、懐かしさと、親密さを、伴って、僕の心に、染み込んでくる。
「あああああああああああああああああああああああっ!!!!」
僕は、ついに、絶叫していた。
両手で、自分の頭を、かきむしる。
やめろ。
やめてくれ。
そんな、馬鹿な話があるか。
僕が、大魔王?
僕が、ダイマ・オウ?
僕が、今まで、悪虐の限りを尽くしてきた?
嘘だ。
全部、嘘だ。
この女は、狂っている。
僕の頭を、おかしくさせるために、デタラメを、並べ立てているだけだ。
そうだ。
そうに、決まっている。
なのに。
なのに、なぜだ。
僕の脳裏に、見たこともないはずの、光景が、次々と、フラッシュバックしてくるのは。
燃え盛る、街。
天を突く、黒い城。
無数の、魔物たちに、傅かれる、巨大な、影。
その影は、紛れもなく、僕自身だった。
僕が、天から、炎の雨を降らせている。
僕が、大地を割り、山を砕いている。
僕が、人々の悲鳴を、歓喜の歌のように、聞いている。
幻覚だ。
これは、幻覚だ。
母の、魔法か何かに、かかっているんだ。
「違う……僕は、ウオだ……父さんの、息子で……村で、母さんと、三人で……」
僕は、必死に、自分の記憶を、たぐり寄せた。
自分の、アイデンティティを、繋ぎとめるために。
村での、穏やかな日々。
父さんが、剣を教えてくれた、森。
母さんが、作ってくれた、温かいシチューの味。
友達と、川で、魚を捕った、夏の日の思い出。
それらは、全て、確かに、僕が経験してきた、僕自身の、記憶のはずだ。
だが、その、温かい記憶の、さらに奥底。
魂の、もっと、深い場所から、別の、記憶が、濁流のように、溢れ出してくるのを、止められない。
破壊。
殺戮。
絶望。
恐怖。
そして、それらを、支配する、至上の、快感。
「やめろ……やめてくれ……っ!」
僕は、その場に、うずくまった。
二つの、全く相容れない記憶が、僕の中で、互いを喰らい合い、僕という、存在そのものを、引き裂こうとしていた。
僕は、誰だ?
僕は、一体、何なんだ?
僕が、ウオであるという、確信が、急速に、薄れていく。
足元が、崩れ、奈落の底へと、落ちていくような、感覚。
そんな、葛藤の極致にある僕を、母は、冷たい……しかし、どこか慈愛に満ちた(ように見えてしまう)瞳で、見下ろしていた。
「何故、大魔王が、『悪』だと、お決めになるのですか?」
彼女は、静かに、問いかけた。
「それは、人間側が、自分たちの価値観で、勝手に、作り上げた、解釈に過ぎないのではなくて?」
その言葉は、悪魔の囁きだった。
それは、僕の、最後の、抵抗を、打ち砕く、あまりにも、強力な、一撃だった。
王都で、見た光景が、再び、僕の脳裏に、鮮明に、蘇る。
魔王を『救世主』だと、崇め奉っていた、人間たちの、あの熱狂的な瞳。
彼らにとって、魔王は、確かに、『善』だった。
そして、勇者である、父と僕は、『悪』だった。
正義とは、何だ?
悪とは、何だ?
父さんの、教え。
『人々を守るのが、勇者の正義だ』
その言葉が、今や、ひどく、空虚で、独り善がりな、偽善のように、聞こえてしまう。
守るべき、人々が、その守護を、望んでいないとしたら?
勇者がもたらす平和が、彼らにとっての、不幸だとしたら?
その正義は、一体、誰のためのものなんだ?
わからない。
もう、何もわからない。
父さんが、教えてくれた世界。
母さんが、語りかける世界。
どちらが、本当で。
どちらが、嘘で。
僕が、信じるべき道は、どちらで。
僕は、僕という名の、空っぽの器の中で、ただ、泣き叫ぶことしか、できなかった。
悪の権化
僕の悲痛な葛藤を、母は、静かに、見守っていた。
その瞳は、まるで、孵化の時を待つ雛鳥を見守る、親鳥のようだった。
あるいは、新しい蝶が、蛹から生まれ出るのを、待っているかのようだった。
彼女は、待っているのだ。
古い、『ウオ』という殻を、僕が自ら、打ち破り。
新しい『ダイマ・オウ』として、生まれ変わるのを。




