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第一部 邂逅の章
第一章 雨音は、平穏の終わりを告げる
かつて、世界が闇に覆われ、魔王の軍勢が大地を蹂躙した時代があった。
人々が絶望の淵に沈む暗黒の時代。
その闇を切り裂き、一条の光を灯したのが、聖剣に選ばれし勇者、エミールであった。
壮絶な旅の果てに、エミールは仲間たちと共に魔王を討ち滅ぼし、世界に光を取り戻した。
人々は勇者を讃え、その名は英雄譚として永遠に語り継がれることとなった。
――それから、十年。
「エミール、あなた。
また眉間に皺が寄っていますよ」
穏やかな陽光が差し込むダイニングで、妻のリリアが微笑む。
艶やかな栗色の髪を持つ彼女は、エミールにとって何よりも大切な、平和の象徴であった。
テーブルには焼きたてのパンと野菜のスープが並び、かつて魔物の血に塗れていたエミールの手には、温かい木製のマグカップが握られている。
「ああ、すまない。
少し考え事をしていた」
エミールは苦笑いを浮かべた。
彼の顔には十年という歳月が刻んだ深みと、戦いの痕跡である左目の上の傷跡が残っている。
しかし、その蒼い瞳に宿る光は、かつての鋭い闘志ではなく、穏やかな湖面のようだった。
「また昔のことですか?」
リリアは心配そうに覗き込む。
彼女は、エミールが時折、遠い目をして過去の戦いに心を囚われていることを知っていた。
****
その日の午後、空は一転して厚い雲に覆われ、大粒の雨が降り始めた。
「嫌な天気ね」
「ああ、嵐になるかもしれないな」
エミールは空を見上げ、眉をひそめた。
ただの嵐ではない。
大気に満ちる魔力の残滓が、僅かに肌をピリつかせる。
かつての勇者の血が警鐘を鳴らすが、十年という平和な歳月は彼の警戒心を鈍らせていた。
やがて、雨は激しい豪雨へと変わり、稲妻が空を走った。
二人は暖炉の前に座り、静かに嵐が過ぎ去るのを待っていた。
どれほどの時間が経っただろうか。
ドンッ、という鈍い音が、屋敷の玄関扉から響いた。
「……誰か、いるのか?」
エミールは慎重に玄関へと向かう。
覗き窓を覗くと、激しい雨でよく見えないが、扉のすぐ下に何か黒い塊がうずくまっているのが見て取れた。
「……何か、倒れている」
それが魔物や盗賊である可能性もよぎったが、彼の直感は、もっと無力で小さな何かだと告げていた。
彼は意を決し、リリアの制止も聞かず、勢いよく扉を開け放った。
吹き荒れる風雨の向こう、びしょ濡れのポーチの上に、小さな子供が倒れていた。
年の頃は六つか七つか。
泥と雨に汚れた服をまとい、痩せこけた体でぐったりとしている。
かろうじて上下する小さな胸だけが、彼がまだ生きていることを示していた。
「リリア! 暖炉の前に毛布を! お湯とタオルも頼む!」
エミールは子供を抱きかかえ、屋敷の中へ急いだ。
驚くほど軽く、氷のように冷たい。
暖炉の前に寝かせ、濡れた体を拭いてやると、その小さな体にはいくつもの擦り傷や痣があった。
温かい毛布で体を包み、口元を湿らせてやると、子供の眉が微かに動いた。
「……う……」
小さな呻き声が漏れる。
エミールが顔を近づけると、子供の瞼がゆっくりと持ち上がった。
現れたのは、夜の闇をそのまま溶かし込んだような、深く、吸い込まれそうなほど黒い瞳だった。
「大丈夫か? 名前は言えるかい?」
リリアが優しく問いかける。
子供の唇が、かさかさに乾いた音を立てて、わずかに開いた。
「……ウオ……」
それが、彼の名前らしかった。
「ウオ、だな。
わかった。
私の名前はエミールだ。
ここは私の家だから、もう安心しなさい」
エミールは穏やかに語りかけたが、ウオと名乗った少年は、それ以上何も答えず、再び固く瞳を閉ざした。
翌朝、少年は熱も下がり、意識も回復していた。
「どこから来たんだ? ご両親は?」
リリアが温かいミルクを差し出しながら尋ねた。
その言葉を聞いた瞬間、ウオの瞳が大きく揺らぎ、やがて小さく首を横に振った。
「……わからない」
絞り出すような、か細い声だった。
「……僕の名前は、ウオ。
……それだけ、わかる。
……でも、これは、僕が自分で呼んでる名前。
……お父さんと、お母さんがつけてくれた名前は……わからないんだ」
その言葉は、エミールとリリアの胸に重く突き刺さった。
彼は自分の出自に関する一切の記憶を失っていた。
その日から、ウオはエミールの家で保護されることになった。
ウオは驚くほど物静かな子供だったが、エミールとリリアの愛情に触れ、少しずつその表情に生気が戻り始めていた。
数日後、リリアはエミールに今後のことを尋ねた。
「あなた、この子をどうするつもり? 役場に届けて、王都の孤児院に……」
「孤児院、か……」
エミールの脳裏に、子供たちの生気の無い目が並ぶ、王都の孤児院の光景が浮かんだ。
あの場所に、心を閉ざしたウオを送ることが、本当に彼のためになるのだろうか。
「リリア。
俺は勇者と呼ばれ、世界を救ったことになっている。
だが、実際は違う。
多くの仲間が俺を助けてくれ、そして、多くの人々が犠牲になった。
俺は、その屍の上に立って、今の平和を享受しているに過ぎない」
彼の声には、深い自責の念が込められていた。
「俺は、もう誰も見捨てたくないんだ。
目の前で助けを求めている、か細い命を見て見ぬふりなんてできない」
それは、彼の魂からの叫びだった。
リリアは夫の揺るぎない決意を前に、何も言えなくなった。
彼女は知っていた。
そんな彼の不器用なまでの優しさを、誰よりも愛しているのだった。
「……わかったわ。
あなたがそこまで言うのなら」
翌日、エミールはウオに告げた。
「君の記憶が戻るまで、あるいは、君の家族が見つかるまで、ここで一緒に暮らさないか?」
ウオは何も答えなかった。
ただ、その大きな黒い瞳から、ぽろり、ぽろりと大粒の涙が零れ落ちた。
それは悲しみの涙ではなく、安堵と、そして生まれて初めて感じる温かい感情に、心が追いつかずに溢れ出た涙だった。
エミールは何も言わず、その小さな体を優しく抱きしめた。
こうして、元勇者エミールとその妻リリア、そして記憶を失った謎の少年ウオとの、奇妙な共同生活が始まった。
ウオが来て一月が過ぎた頃には、彼はすっかり村の生活に馴染んでいた。
最初は怯えた小動物のようだった少年も、今では村の子供たちと元気に駆け回り、エミールから木の剣で剣術を習うまでになっていた。
その日、ウオは一人で村はずれの森に来ていた。
エミールに教わった素振りを繰り返していると、森の奥から聞き慣れない声が聞こえてきた。
それは、女の子の泣き声と、数人の男の子たちの嘲るような笑い声だった。
(誰か、いじめられてる……?)
ウオが恐る恐る声のする方へ近づくと、そこには村のガキ大将たちが、一人の女の子を取り囲んでいる光景があった。
女の子は亜麻色の髪を二つに結んだ、そばかすのある少女、ミカ・レシアだった。
彼女は村でも少し内気で、いつも一人で本を読んだり絵を描いたりしている子だ。
ガキ大将の一人が、彼女の大事にしているスケッチブックを取り上げ、高々と掲げている。
「なんだよこのヘタクソな絵! こんなの、破ってやろうぜ!」
「やだ! 返して!」
レシアは泣きながら手を伸ばすが、背の低い彼女の手は届かない。
その光景を見た瞬間、ウオの胸の奥で何かが燃え上がった。
怖い。
年上の彼らは、いつも威張っていて、ウオも苦手だった。
でも、嵐の夜に倒れていた自分を助けてくれたエミールとリリアの顔が浮かんだ。
あの時の自分と、今泣いているレシアの姿が重なった。
「……やめろよ」
気づけば、ウオはそう呟き、木の剣を握りしめて少年たちの前に立ちはだかっていた。
「なんだぁ、ウオか。
勇者様のところで拾われた、得体の知れない奴がでしゃばるなよ!」
ガキ大将はウオを突き飛ばした。
ウオは無様に尻餅をつく。
「女の子一人を大勢でいじめるなんて、卑怯だぞ!」
ウオは震える声で叫んだ。
それは、エミールが読んでくれた冒険譚に出てくる勇者のセリフだった。
「生意気な!」
少年たちが一斉にウオに殴りかかってくる。
ウオは為す術もなく殴られ、蹴られた。
だが、彼は必死にレシアのスケッチブックだけは胸に抱きしめ、決して手放さなかった。
ボロボロになりながらも抵抗するウオの姿に、さすがのガキ大将たちも気味が悪くなったのか、「気色悪い奴だ」と悪態をつきながら去っていった。
後に残されたのは、泥だらけで倒れているウオと、呆然と立ち尽くすレシアだけだった。
「……大丈夫?」
レシアがおずおずと声をかける。
「……うん。
これ、君の……」
ウオは痛む体を起こし、少し皺になってしまったスケッチブックを彼女に差し出した。
レシアはそれを受け取ると、ありがとう、と小さな声で言った。
彼女の大きな翠色の瞳が、キラキラと涙で濡れながら、まっすぐにウオを見つめていた。
その瞳の輝きを、ウオはなぜか忘れることができなかった。
第二章 預言は、覚悟を問いかける
三人の穏やかな生活は、ある日の午後、一人の老人の来訪によって破られる。
その男は、かつてエミールの旅を幾度となく助けた伝説の大預言者、レイザーだった。
「久しいな、勇者エミールよ」
レイザーはリビングに通されると、リリアの後ろに隠れるウオを、全てを見透かすような鋭い視線で射抜いた。
ウオは本能的な恐怖に体を震わせる。
エミールと二人きりになったレイザーは、単刀直入に切り出した。
「エミールよ。
お前は、あの子供を孤児院に預けたほうが良い」
そのあまりに唐突で残酷な言葉に、エミールは絶句する。
「どういう意味ですか! 彼は記憶を失って倒れていたんです。
俺たちが保護しなければ、死んでいたかもしれない!」
「情に流されるな、エミール。
あの子供を信じるな。
あの子は、お前の、そしてこの世界の平穏を喰らい尽くす、災厄の種だ」
その会話を、ウオは扉の隙間から聞いてしまっていた。
(やっぱり、僕は……ここにいちゃいけないんだ)
捨てられる。
また一人になる。
その恐怖に足が震える。
だが、彼は逃げ出さなかった。
エミールがどう答えるのか、聞かなければならなかった。
「やめてください!」エミールの叫びが聞こえた。
「ウオは、そんな子じゃない! ただの、記憶を失った無力な子供だ!」
エミールが自分のために怒ってくれている。
その事実に、ウオの胸が締め付けられるように痛んだ。
「本当にそうか?」レイザーの冷たい声が続く。
「お前には、あの子の瞳の奥に巣食う、底なしの闇が見えぬのか?」
闇。
その言葉に、ウオは自分の中に存在する、何か黒くて冷たい塊を自覚させられる。
もう駄目だ。
エミールも、この人の言葉を信じてしまうに違いない。
だが、エミールの口から発せられたのは、彼の予想を完全に裏切る言葉だった。
「レイザーさん。
あんたの助言がなければ、俺は魔王を倒すことなどできなかった。
……だが! それとこれとは話が別だ。
俺は、あんたの言うことだけを信じて、あの子を手放したりはしない」
エミールの毅然とした声が響き渡る。
「愚かで結構! 俺は、あの子供を信じます。
なぜなら……!」
エミールは一度言葉を切り、震える拳を強く握りしめた。
「ウオは……俺にできた、初めての子供なんです」
その言葉は、扉の向こうのウオの心に、雷鳴のように突き刺さった。
堰を切ったように、涙が溢れ出した。
それは絶望の涙ではなかった。
今まで感じたことのない、温かくて、胸が張り裂けそうになるほどの、歓喜の涙だった。
(信じて、くれてる……!)
この人の子供でいたい。
この人のために、何かをしたい。
ウオの小さな胸の中に、生まれて初めて、誰かを守りたいという強い感情が、確かな光となって灯った。
エミールの決意を聞いたレイザーは、深いため息をついた。
「……覚悟は、出来ているんだな? これから起こる全てに対する……覚悟は」
「出来ている」エミールは即答した。
「ウオがどんな子であろうと、俺はこの手で彼を守り抜く」
レイザーはそれ以上何も言わず、去り際に不吉な言葉だけを残していった。
「……大魔王には気をつけろ、とな」
その夜、ウオは固く誓っていた。
(僕が、エミールを守る)
不吉な預言の影が、静かに、しかし確実に、元勇者とその家族の未来を覆い始めていた。
第三章 日常の終わり、そして旅立ち
レイザーが去ってから、一ヶ月。
家族三人の生活は、幸福そのものだった。
ウオは日に日に明るくなり、エミールとの剣の稽古にも熱が入っていた。
「エミールとリリアを守るんだ」その一途な想いが、彼の剣筋を子供とは思えぬほど鋭くさせていた。
この幸せが永遠に続けばいい。
誰もがそう願っていた。
だが、その奇跡の時間は、唐突に終わりを告げる。
その日の朝、遥か東の王都の方角の空が、薄気味悪い紫色に染まっていた。
その瞬間、ゴゴゴゴゴゴ……ッ!! 突き上げるような激しい揺れが襲った。
遠くから、世界そのものが引き裂かれるような轟音が響き、東の空には天を突くほどの巨大な黒い柱が立ち昇っていた。
「嘘だ……あんな魔力……十年前の魔王ですら、ここまでの規模ではなかったぞ……!」
エミールは絶望に目を見開いた。
数時間後、王都から命からがら逃げてきた騎士が、悪夢の如き事実を伝えた。
「ま、魔王が……! 魔王が、復活した……ッ!!」
騎士の口から語られたのは、魔王が復活と同時に王都を一瞬で壊滅させ、十万もの民を虐殺したという、信じがたい報せだった。
十年前の魔王とは、格が違う。
あれは、レイザーの言っていた『大魔王』なのだ。
エミールは本能でそれを理解した。
「勇者様、どうか、我々をお救いください!」
村人たちの懇願の声が、波のようにエミールに押し寄せる。
彼には、もう選択肢はなかった。
旅立ちの準備は、静かに進められた。
夜が明ける頃、エミールは旅の装束に身を包み、玄関の前に立った。
「必ず、帰ってきてくださいね。
ここは、あなたの帰る場所なのですから」
リリアは気丈に微笑んでいたが、その目には大粒の涙が浮かんでいた。
「ああ、必ず帰る。
君とウオのいるこの場所に。
……約束だ」
エミールはリリアを強く抱きしめた。
次に、彼はウオの前に跪いた。
「ウオ。
父さんは、少し悪い奴を懲らしめに行ってくる。
俺が帰ってくるまで、リリアのこと、そしてこの家を頼んだぞ。
お前は、この家の男だ」
「……うん。
僕が、リリアを守る。
この家も、守る。
だから……だから、死なないで……!」
嗚咽混じりの叫びに、エミールは微笑むと、二人をまとめて力強く抱きしめた。
「愛している」




