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一杯のラーメン

作者: イチジク

街の片隅に、古びた赤い看板を掲げた小さなラーメン屋があった。冬の夕暮れ、通りを刺す風は冷たく、行き交う人々の肩を押していく。店のガラス越しに見えるカウンターには、いつもの席が一つ、ぽつんと空いている。男はコートの襟を立て、足早にその席に腰を下ろした。

店主は中年の男で、長年の勘と手つきで鍋を操る。彼の背中を見ていると、音もなく積み重ねた日々の景色が湯気とともに立ち上るようだ。男は財布から小銭を取り出し、無言で「らーめん」とだけ呟いた。返ってきたのは、蒸気が揺れる湯気と、鍋に触れる木の柄の小さな音だけだった。

程なく、目の前に丼が差し出される。湯気が立ちのぼり、ふわりと鼻腔を撫でる。黄金色のスープが細かく光り、白い丼の縁からは小さな湯気の輪が幾重にも連なっていた。麺は芯が残るほどの歯ごたえを保ち、チャーシューは縁に薄く脂の輝きをたたえている。青菜の緑が、冬の灰色を一瞬だけ忘れさせた。

男は箸を取り、自然と口の中に唾液が滲むのを感じた。湯気の熱とスープの香りが、体の内側から反射を引き起こす。唾液が口に溜まり、ほんの少しだけ喉が鳴る。彼はそれを飲み込み、ゆっくりと麺を引き上げた。

一口目の熱さは容赦ない。スープが舌の上に広がると、瞬間的に口内が熱で満たされ、思わず顔をしかめる。その反応は自然で生理的だ。熱は痛みではなく、舌を目覚めさせる号砲のようなものだった。唾液がドバリと溢れ、口の中で温度と旨味が混ざり合う。彼は咄嗟に小さく息を吐き、二度目の口へと向かう。

二口目は、舌が既に準備を整えている。熱さに対する反応は柔らかくなり、代わりにスープの深い旨味が押し寄せる。骨の髄から抽出したような濃度、香味油のほのかな甘み、塩の輪郭が舌に残る。麺は熱を帯びて、噛むたびに小気味よい弾力を返す。チャーシューの脂身は溶け、口内でさっと景色を変える。

店内の空気は静かだ。テレビもなく、時計の針の音が時折聞こえるだけ。隣の客が箸を滑らせる音、店主が鍋を返す軽い金属音、湯気がガラスを撫でる音。そんな些細な音が、男の中の忙しさをゆっくりと削り落していく。ラーメンの蒸気が彼の頬を温め、冷えてこわばった肩の筋がほどけていく感覚があった。

食べ進めるにつれて、彼の記憶の断片がスープの中で溶け出す。学生時代の深夜、友人と笑い合いながら分け合った一杯。母が風邪の夜にこしらえてくれた、にんにくの香る即席の慰め。別離のあとに一人でつついた安酒と醤油の記憶。すべてが、この一杯の味に混ざり、彼の中で柔らかく結びついていく。

途中、箸を休めて丼の縁に顔を近づける。湯気が鼻をくすぐり、呼吸のたびに甘い塩味の残り香が肺の奥へと消えていく。唾液はまだ口に残り、時折込み上げる熱の余韻に合わせて、彼は無意識のうちに唇を湿らせる。

隣の常連らしい老人が小声で店主に話しかける。言葉の内容は聞き取れないが、そのやり取りの温度が食卓を包む。会話は断片的で、生活の重みを帯びている。男の目はそのやり取りに一瞬だけ留まり、やがてまた自分の丼に戻る。

ラーメンは静かに減っていき、麺がほとんど消えた頃、彼は丼を両手で包むように持った。丼の外側はまだほんのりと温かく、掌に伝わる余熱が心地よい。最後の一口を吸い込むと、スープの最後の層が舌に纏わりつき、余韻が胸に広がった。飲み干すというよりも、そっとすくい取るようにして、彼はスープを終えた。

「ごちそうさま」

低く、それでいて確かな声。店主が短く頷く。言葉は少ないが、そこに含まれる敬意は大きい。男は立ち上がり、コートを整えながら外へと出る。夜の空気は冷たいが、胸の中には温度が残っている。唇の端に微かに残る塩気を指でなぞり、彼は歩き出した。

彼は歩みを止め、少し立ち尽くした。通りの向こうにはコンビニの明かりと、誰かの急ぎ足の影。街は相変わらず忙しなく動いている。だが彼の内側では、さっきの湯気がゆっくりと輪を描き、日常のざわめきを遠ざけた。彼は自分でも不思議に思った——こんなにも些細なもので、心が満たされるのかと。

喉の奥に残る塩味が少しずつ心の隙間を埋める。休みなく流れる時間の中で、人はしばしば小さな安堵を見落とす。真冬の風景に溶け込む一杯は、そうした見落としの一つを引き戻してくれる。思えば、ラーメンは手早い食事であると同時に、手の込んだ慰めでもある。鍋の中で香味が折り重なり、火の調節ひとつで日々の気分が変わる。店主の掌に宿った経験が、どれだけの夜を救ってきたことだろう。

彼はふと店の入り口を振り返る。ガラス越しに見える店内には、もう一人、若い女性がひとりで座っていた。彼女は小さなメモ帳を開き、箸を休めることなくスープに向かっていた。彼女の眉間には集中の皺があり、時折視線を下ろしては何かを書き留める。創作に耽る孤独な姿――彼もまた、どこかで似たような夜を過ごしてきたのだろう。共有されぬ孤独が、知らぬ間に隣り合って居場所を作る。

彼は自分のポケットを探り、小さな硬貨を一枚取り出した。店にはチップの習慣などないが、何か感謝を形にしたかったのだ。だが結局、彼はそれを戻して外へ出た。言葉と瞳のやり取りで十分に伝わると、どこかで思っていたのだ。

帰り道、彼は自分の足音に耳を澄ます。リズムは規則正しく、まるで麺をすするような小刻みな音に聞こえる瞬間がある。人は自分の物語を日々少しずつ織り成し、それが知らぬうちに性格を形作る。今夜の一杯はその織り目の一つ。重ねられた時間の中で、いつかふと思い出されるだろう。

家に戻ると、彼は風呂を沸かし、いつもより熱めの湯に浸かった。体の奥に残るラーメンの余韻が、湯気となって額の汗と混じる。彼はふと笑った。熱さに唾液が溢れた瞬間の自分を思い出し、その自然な反応に対して少し気恥ずかしさを感じる。だがその恥ずかしさが逆に人らしさを肯定してくれる。完璧であろうとする努力の合間に、どうしようもなく生理的な反応が顔を出す。そういう瞬間が、人生を少し豊かにする。

翌朝、目覚めた彼は昨日の夜とは違う軽さを感じていた。世界は相変わらず冷たいが、心にささやかな余熱が残っている。その余熱はやがて、些細な勇気へと変わるかもしれない。メールに返事をひとつ送る。面倒だった家の小さな用事に手をつける。ラーメンの余韻は、行為へと変換される。

思えば、日々は小さな決断の連続だ。ラーメン屋に入るか、通り過ぎるか。箸をゆっくり取るか、一気にすすり込むか。唾液が溢れる瞬間を恥じるか、むしろその自然さを愛でるか。彼は前者ではなく後者を選ぶことにした。小さな選択の積み重ねが、自分を形作る。湯気に包まれて、彼はそう思った。空はまだ灰色だが、彼の足取りは少しだけ軽くなっていた。唇の塩気が彼の記憶を呼ぶ。そしてまた、夜はやってくる。

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