第1話:目覚めと蔵書の匂い
異世界の朝は、想像以上に冷たく、静かだった。
美園織音――いや、今の私は織音ではない、貴族令嬢ロールとしての名を持つ少女――は、古い屋敷の大広間で目を覚ました。
「……ここは……?」
額にかすかな痛みを覚えながら、見慣れぬ天井を見上げる。豪奢だが埃をかぶったシャンデリア。壁には古いタペストリー、そして何より、無数の本棚が目に入った。
本の匂い。紙と革、古書特有の甘く、少し酸っぱい香りが鼻をくすぐる。それだけで、前世の記憶が鮮明に蘇る。
大学での薬学の講義、実験室のにおい、あの机の上で書いた論文――あの知識を、ここで生かせる。
「これは……もしかして、私の図書館?」
記憶が確かなら、この世界では書物が極めて希少で、知識そのものが力になるという。
そして、この没落貴族の屋敷に残る蔵書は、まさに宝――いや、武器だ。
目の前に広がる書架の列を眺めながら、織音は自然に指を動かしていた。薬学の知識を駆使して、ただ読むだけではなく、書物そのものを“生かす”ことができる。調合した薬を封入した書物、読むことで知識と効果を同時に得られる処方書――考えるだけで胸が高鳴る。
しかし、現実は甘くはない。屋敷の主だった家族は、ほとんどが外界に影響を失った没落貴族。使用人も最小限、町との交流は絶たれている。
自分一人で、この屋敷と蔵書を守り、世界に価値ある知識を広めなければならないのだ。
「まずは、庭にある薬草から……」
決意を固め、織音は大広間を抜け、屋敷の裏庭へ向かう。
まだ肌寒い朝露に濡れた草を踏みしめながら、手先を器用に動かす感覚は、前世の私そのものだ。
小さな薬草の苗を一つずつ確認し、どれをどう組み合わせれば薬として活かせるか――頭の中でシミュレーションが始まる。
庭の一角で、織音は静かに呟いた。
「本は、薬になる――そして、薬は、本になる。」
そう、ここから私の異世界生活が始まるのだ。
書物と薬で世界を変える少女――いや、令嬢としての冒険が、今まさに動き出した。