4:夜明けの宣誓
この世界に転生して五年、自身の能力の検証・訓練や、存在が発覚した魔法の独学での習得を隠れて着々と行っていたトーリヤではあるが、実のところ村の中での内情、主に人間関係や政治体制といった問題についてはほとんど着手していなかった。
というよりも、どれだけ精神や記憶が大人のものであろうとも、表向きにはまだ四歳という幼すぎる年齢ゆえにその手の話には関われなかったというのが実情として近い。
無論トーリヤ自身【生体転写】という特殊能力を有していたため情報収集の手段についていえば一応のやりようはあったのかもしれないが、明確に調べる必要がある問題について知っていたならいざ知らず、前世のプライバシー意識を引きずっていたことも相まって、村中に盗み聞き用のアバターをばらまいてまで人々の生活を調べ上げる必要性を感じていなかったのである。
加えて言うなら、そもそもこの世界の人間が使う言葉を覚えるのに、年齢相応の時間がかかったというのも要因としてはある。
だが今こうなった要因について聞いてみれば、前世の記憶と知識を持つトーリヤはもっと身近な人間関係にも目を向けておくべきだったのかもしれない。
話を聞きだしたレイフトがまだ十にも満たない少年で、彼自身親の話を聞いての断片的な知識しかなかったためはっきりしたことはわからなかったが、トーリヤのいた村の村長であるという男は不正で私腹を肥やす結構な暴君であったらしい。
自身この地方の領主におさめるべき税金の一部を着服しながら、それによって生まれる損失を村人に借金という形で押し付け、自身に逆らうものを着服した金で雇ったゴロツキのようなものたちを差し向ける形で黙らせる支配体制を敷いていたらしく、今回レイフトやトーリヤの両親が殺されたその発端も、この村長の不正を両家の親たちが領主に告発しようとしてそれを事前に防がれてしまったことが原因だったらしい。
また、エルセとシルファの二人に関していえば村長の汚職とは関係なかったものの、この二人に対して行われていたのは言ってしまえば児童労働に絡む虐待だ。
一応、児童労働についていうならそもそもこの世界の価値観、文明レベルの点でそもそも子供も働くのが当然という考え方が一般的で、トーリヤ自身あと数年もすれば自分も労働力としての活躍を期待されるようになることは予想していたのだが、問題なのは同じ村の中に労働力としかみなされず、役に立たなくなったら子供を捨ててしまうような親が複数存在していたという点だ。
否、厳密にいうならば。
彼ないし彼女らには、恐らくこの二人にとっての親であるという認識すらなかったのだろう。
聞けばエルセとシルファの二人はともに親を亡くしている孤児であり、エルセは叔父夫婦のもとで、シルファは孤児院とは名ばかりの、子供を農作業の労働力として使う村はずれの施設に引き取られ、そこで酷使される生活を送っていたらしい。
ところが、エルセの方はつい先日、付近の山中から迷い込んだ獣に襲われて右腕を負傷。
シルファの方は理由は不明ながら、何やらほかの子供のような満足な働きができなかったらしく足手まといとみなされてしまい、今回村長が子供を『生贄』として追い出すに際して、ついでとばかりに二人もこの船の中に乗せてしまった、というのがこの話の実態であ用だった。
(その生贄の話にしても……。半ば廃れかけていた因習を、体よく子供四人を始末するために使ったってのが実情で、本当の目的は村長が自分に逆らった家がどうなるかを示すための見せしめの意味合いが強いんだろうな……)
途中で子供二人が追加されてしまったためその意味合いは薄れてしまったところがあったが、究極的には村内の不穏分子や足手まといを始末できればそれでよかったのだろう。
あるいは、幼い子供二人を直接殺すことは外聞が悪いと考える程度の価値観はあったのかもしれないが、結局こうして二人どころか四人の子供を死に追いやろうとしているのだから、そんなものは良心と呼ぶにはあまりにも薄弱な良識だ。
「――ああ、クソ……。何やってんだ俺は……!!」
夜を迎え、暗い海の中心で唯一の光源である、恐ろしくきれいな星空を眺めながら思わずぼやく。
外見通りの子供の皮をかぶり、埋没することに執心して、結局それによってトーリヤは肝心なことを見逃した。
今回の件とて、畑の中に家屋が点在する広い村とはいえ、トーリヤが分身を使って村内の様子にもっと目を配っていれば、村長の普段の態度やひどい扱いを受ける子供がいることくらいには気づけたはずだ。
無論気づければすべてを解決できたと思うほど思い上がってはいないが、それでもなにか一つでも気づいていれば、少なくともすべてが手遅れになった後に事態に気づくような、そんな状態にはさすがにならなかったはずである。
(生まれ変わったってのに何も変わってない……。周りにおもねるばかりで自分を押し殺して、挙句手遅れになってからもっと向き合っておくべきだった、なんて……)
とはいえ、いつまでもクヨクヨしてもいられない。
いろいろと反省すべき点は多いものの、未だトーリヤ達は命脅かす危機の真っただ中にいるのだ。
ゆえに、今トーリヤが考えるべきはいつまでも過去について思い悩むことではなくこれからどうするべきかということだ。
トーリヤと同じように、生贄という名目で船に乗せられ、どことも知れぬ場所へと流されている三人の子供に対して、今のトーリヤに果たして何ができるのか。
(船に関しては――、現状操縦とかはできないけどこれについては一応どうにでもなる。問題は陸地の方向がわからないことと、あとは生贄って名目か……)
レイフトから聞いた話では、村長たちが名目にしていた生贄の風習については、この近辺の海、その沖合にいるという神様に船に乗せた生贄を送るという話が実際に古来からあったとのことだった。
ただ、この『神様』なる存在がいつのころからか信仰すべきではない【魔物】の一種と判断されたことからその風習は廃れ、今ではいたずらをした子供への脅しとして生贄の話をもとにした脅しが語られるだけになっているのみという話だった。
(【魔物】ね……、こっちの世界にはそれらしいのがいるとは聞いていたけど、具体的にどういう存在なのかはいまいちわからなかった奴だな……)
こちらの世界に来てからの情報収集でかろうじて聞けていた名前ではあったモノの、トーリヤの中でこの魔物という存在についてはあまりはっきりとした情報は多くない。
というよりも、この世界の住人たちも漠然といたずらに恐れられているだけで、その存在について学術的、あるいは具体的に語れる人間がやけに少ない印象なのだ。
教育レベルが低く、識字率すらそれほど高くないため仕方のない話なのかもしれないが、正直そうした点が村人からの情報収集の必要性を下げてしまった点も否めない。
(なんにせよ、何らかの危険があるというなら、まずはどこか安全な陸地にたどり着かないと――)
そう思いながら、トーリヤは先ほど周囲一帯に放った多数の鳥たち、ご丁寧に夜でもモノが見えるよう夜行性のものを選んで放ったそれらの視覚を通じて、周囲に陸地がないかその捜索を続行する。
他にも、周囲の状況を探るべくいくつか手を打って、他の子どもたち三人が疲れて寝ているその間に、せめて次の行動の指針くらいは発見しておきたいとそんなことを考えて――。
(――あ?)
直後、分身の一体から送られてきたその感覚情報に、トーリヤは思わず身を震わせ、信じがたいという思いに呆然とする羽目になった。
(――なんだこれ、いや、状況的に何かはわかる――。わかるが――、けどこんなもの、いくら何でも――)
混乱する思考をよそに、それでも進行する状況が目のまえにも表れ始め、慌ててトーリヤは船内でぐったりと眠っている三人にのもとへと走り寄る。
「おい、全員起きりょ――!! ひとまず船内から出て――、っ――」
「――ぅんン? ――おおわッ!?」
「――ひっ」
「――ぅァッ、く――」
呼びかけたその瞬間、船の浮かぶ大海原、波打ちながらも比較的穏やかだった海面が突如として盛り上がり、その上に浮かんでいた船が斜めに傾いて、乗っていた四人全員が船上を転がり船のヘリや船室の壁へと容赦なく叩きつけられる。
同時に、ただ一人船上でそれを見ていたトーリヤの視界に映るのは、そうして盛り上がった海面を突き破り、姿を現す巨大な生物の姿。
「バカな……!! シロナガスクジラだぞ……!!」
姿を見せるのは全長三十メートル超、体重にして百トンを軽く超えてその倍にも迫ろうかという、かつてトーリヤがいた地球上においては最大クラスの巨大生物。
そしてそんな巨大生物が、真下から襲ってきた、見える部分だけでも明らかにシロナガスクジラよりはるかに大きい巨大な顎によって齧り付かれ、おなじく海中から現れた、まるで高層ビルのような巨大な首によって空中へと持ち上げられる、そんな信じがたいスケールの光景だった。
(ありえない……!! なんだこの大きさ――。こんな生物――、いくら海洋生物でも自重を支え切れるわけがない……)
自身の目の前に聳え立つ巨大で細長い蛇身、あるいは海竜とでも呼ぶべきその姿に、トーリヤは思考を言葉にすることもできずに斜めになった船の柱にしがみ付いたまま立ち尽くす。
そのさなか、シロナガスクジラに食らいつき持ち上げていた巨竜が、その顎に力を込めて、鯨の腹部を深々と食いちぎって胴体部分を半ば真っ二つにする。
直後、海上へと落下する鯨の残骸がみるみる砂に代わるように溶けだして、巨竜の口内に残っていた肉や血液諸共虚空に解けて、シロナガスクジラの姿をしたトーリヤの分身が跡形もなく空や海へと消失していく。
もともと先ほどのシロナガスクジラは、トーリヤが流される船の護衛兼運搬役として【生体転写】を用いて生成しておいた分身だ。
現状陸地の位置がわからないために運搬役の方はまだ着手していなかったが、その巨体で近海にいるかもしれない神を名乗る巨大生物をけん制し、いざというときには体を張って船を守る戦力とするべく、トーリヤの知る中でも最大の海洋生物を船の真下、その海中へと潜ませ、泳がせていた。
ついでに、鯨の用いるエコーロケーションという感覚器官で水中からも陸地などを探していたわけだが、その探査範囲に恐るべき速度で近づく巨大な影が現れ、それによってトーリヤ本体が危険を察知したというのが先ほどからの流れになる。
正直思いもしなかった。
地球史上最大、異論はあれどもその最有力候補に数えられているような巨大生物に対して、その超重量を海上に高々と持ち上げたうえでその腹を食い破り、真っ二つにできるような生き物が存在していようとは。
「――海神、だ……」
思うさなか、船室から年少の二人を連れて現れたレイフトが空を見上げて呆然とした様子でそう呟く。
声こそ出せていなかったが、同じように空を見上げていたエルセやシルファについても思い至った結論は同じものだったことだろう。
ここまで巨大で圧倒的スケールの生き物など、人間の尺度ではそれこそ神以外にふさわしい呼称を用意しようがない。
実際には魔物の一種だという正式な分類があるにせよ、これだけの存在が神と呼称されたのはある種必然的な帰結のように思えた。
「――ッ、掴まれ……!!」
一瞬は早くトーリヤが気付いて、右腕を負傷するエルセを優先する形でその体に飛びついた次の瞬間、斜めの坂になったような海面を滑り落ちていた船が荒れる海の別の波にぶつかって大きく揺れる。
(づ、ぅ――!!)
「――うわァッ――!!」
とっさにシルファを抱えて船体にしがみついていたレイフトが、その衝撃と破壊にたまらず悲鳴を上げる。
小さな木造船、その決して頑丈とは言えない船体の一部が衝撃によって砕けて、そんな破壊音と悲鳴が、そのちっぽけさを表すようにより大きな波音に飲み込まれながら消えていく。
それでも、どれだけ広大な海の中でトーリヤ達四人がちっぽけな存在だったとしても、そもそも人間ではなく、未知の感覚器すら備えているかもしれない海竜にとっては、その存在を感知するのにそれは十分な情報量だった。
「――あ」
空へと伸びた首が動いて、その視線が海上にいるトーリヤ達の方へとむけられる。
あまりにも巨大で生物の頂点にいるようなその生き物は、海面を漂うちっぽけな生き物を相手に徒に吼え、威嚇するような真似はしなかった。
ただその巨体からくる威圧感だけでトーリヤ達を圧倒して、槍の穂先のような頭部で小さな的を狙うように首の角度を調整して、どこか機械的にも見えるその視線で波間に揺れる船へと狙いを定めている。
狙われていると自覚して、明確な危機にトーリヤが思わず身を振るわせようとして、しかし――。
「ぅ、ぁ――」
「――ッ、ぅ……」
「――く……」
船から投げ出されないよう一塊になってしがみつき、そばで身を寄せ合う形となっていた他の三人のかすかな声を耳にとらえて、その絶望的な表情を目の当たりにして、ふとトーリヤは我に返った。
庇護する親もすでになく、生贄として船に乗せられ、今まさに死を前にしている、転生した人間であるトーリヤとは違う、本当の意味での年端もいかぬ子供たち。
(――ああ、まったく……!! 俺はいったい、何をやってるんだ……?)
思うそのさなか、上空で鎌首をもたげていた海竜が勢いよくその首を海上にいるトーリヤ達めがけて発射して、しかしその寸前、海中から飛び出してきたもう一体の鯨の分身の体当たりを喰らってトーリヤ達のいる船から若干離れた海面を巨体に見合わぬ恐るべき勢いで突き破る。
「うわぁアッ――!!」
激しい軋みを上げ、ところどころ砕けながら大きく乱高下する戦場で、とっさにエルセとシルファを抱えたレイフトがたまらず悲鳴を上げる。
(――いい年まで生きた大人のくせに、たかだか生まれ変わったくらいで心まで幼女になりやがって……!!)
とはいえ相手がこちらを船ごと食い殺すつもりでいたことを考えれば、トーリヤが【生体転写】を用いて鯨の分身を生成し、寸前で攻撃の軌道をそらせただけまだましな状況だった。
厄介なことにこの能力、巨大な生物を出力しようとするほど発動に時間がかかるらしく、一体目の鯨が狙われた事態を受けて出力を始めたにもかかわらず、実際に鯨の分身を水中に生み出すことに成功したのはつい先ほどのことだった。
加えて、そうして生み出した鯨の分身もこの海竜相手にそれほど長く渡り合えるわけではない。
【生体転写】で生み出した分身は人間からどれだけかけ離れた生き物であっても最低限の体の扱いはできるものの、逆に言えば使い慣れない体の場合最低限以上の働きは期待できない。
生物としての格という点で相手が圧倒的に勝っており、しかもこちらの分身はあまり外敵と戦うような身体構造になっていないのだ。
恐らくこの鯨をどれだけぶつけたところで時間稼ぎにしかならず、しかもそうして稼げる時間もそう長くない。
そう時間稼ぎの計算を行いながら、同時にトーリヤが思うのは、他ならぬ自身と目の前にいる三人のこと。
瀬戸際にいる三人の子供を前にして、体こそ子供でも、それでも前世を持つトーリヤが大人としてすべきことは何なのか、その思考を巡らせてたどり着いた答え、それは――。
「――俺さ、実は前世の記憶があるんだ」
海竜とクジラ、巨大生物同士がぶつかり、徐々にこちらに迫ってくるのを呆然と見つめる三人の、その視線を遮るように前に出る。
己の秘密を、転生してこのかた、生みの親にさえ語れず仕舞いになってしまった告白を、今。
「俺には前世の記憶がありゅ。前世の俺はいい大人で、男で――、それこそお前らくりゃいの子供がいてもおかしくない、そんな人間だった……!!」
肉体の幼さゆえに回らない舌をもどかしく思いながら、それでもトーリヤは目のまえの三人と、そして何より自分に対してそう突きつける。
転生者であるとか、強い力を持っているとかそれ以前に。
お前は目のまえの子供らとは違う、むしろ子供らを守る立場に立つべき、責務と同義を求められる立場の大人だろうと。
「――だからッ!! 勝手ながら今日から俺が、お前らの親の代わりになろう……!!
お前りゃを守り、生かして、その先へと導くそんな親に……!!」
身勝手も勢い任せも承知の上で、それでもトーリヤは暴れまわる波の音に負けないように声の限りに空へと叫ぶ。
空が白んで、顔を出した朝日のその光に負けないように。
自らが絶望の淵にいる子らが見つける、希望の光になるように。
「喜べガキども、今日から俺が――、お前らの父ちゃんだ……!!」
その瞬間、巨大な海竜に体ごとぶつかっていたクジラがいよいよその腹を海竜の牙によって貫かれ、暴れる尾鰭が海面を叩いて引き起こされた大波が海上で揺らぐ小舟にいよいよとどめを刺しに来る
もとより鯨の巨体がチリと化せば、そのあとすぐにあの海竜がトーリヤ達に狙いを定めるのは想像に難くない。
ゆえに――。
「全員、海に飛び込め――!!」
船が転覆するその寸前、三人の内右腕を負傷しているエルセにその右側を支えるように飛びつきながら、トーリヤは三人全員に向けてそう指示を出す。
「二人一組だ。相手のことを絶対離すなっ……!! あとのことはこっちで何とかする……!!」
「――ッ」
強く宣言したことが功を奏したのか、明らかに危険なその呼びかけに、しかし三人は何も言うことなく従ってくれた。
もとより船にしがみついていても諸共沈められるのはわかっていたのかもしれないが、なんにせよトーリヤを含めた四人全員が転覆寸前に力の限りに船を蹴り、かろうじてひっくり返る船体に巻き込まれる事態だけは回避して、決して温かいとは言い難い海の中へと退避する。
「――ッ、あ――」
右腕の負傷に海水が触ったのか、左手を回して掴んでいたエルセが悲鳴に近い声を漏らして、しかしその声も水中に没してすぐに途絶える。
いかに海に近い村に住んでいたとは言っても、年少の少年少女が着衣のままで足のつかない海で泳げるはずもない。
それは他ならぬトーリヤ自身も同じで、腕をまともに使えないエルセをつかんでいることも相まって、二人の体は荒れ狂う海にあっさりと飲まれてそのまま海中へと沈んでいく。
このままいけば、四人は全員浮き上がることすらままならずに溺死するか、あるいはその前に海竜の餌食になってその命を終えることになっただろう。
(【生体転写】――!!)
そうなる前に、トーリヤが水中に生成したイルカ型の分身、その背にすくい上げるような形で拾われていなければ。
「――ぷはっ」
星と月だけがわずかに輝く夜の中、その闇を貫くように陽光が水平線のかなたから差し込んで、同時に輝き始めた水面を突き破る形でトーリヤ達四人が水上へと現れる。
二人一組で二頭のイルカの背にしがみ付き、猛スピードで泳ぐその体に引っ張られるように。
「全員、この生き物から離れるな――!! もう一人と二人組で、絶対に振り落とされないように……!!」
言いながら、トーリヤ自身も左手をエルセの胴に回して服をしっかりとつかみ、右手をイルカのひれに引っ掛けるようにしてどうにかしがみついて着水と同時に水中を走り出す。
もう一体のイルカの分身の方へと意識をやれば、どうやらレイフトとシルファの方もとっさにその背にしがみつくことに成功したらしい。
無論、イルカにしがみ付いて、その遊泳速度を殺さぬ形で逃れるとなれば、トーリヤ達三人はほとんど水中にもぐった状態でひたすらその体にしがみ付かねばならないわけだが、逆に言えば四人の人間がその身でやるべきことは極論そのしがみ付くだけでいい。
唯一この場で、他にやることがある人間がいるとすれば、それはほかならぬトーリヤであり、彼女が作る分身たちだ。
(【生体転写】――!!)
二体目の鯨をバラバラにかみ砕きながらもその身の消失によってまんまとその肉を食い損ね、しかしその事実にいらだった様子を見せることなく、次なる獲物を探してトーリヤ達へとその三眼を向けた海竜が,しかし直後に海中へと矛先を向けなおしてそこに別の生き物を見つけ出す。
そこにいたのは、イルカに続けて鯨がやられるまでのわずかな時間でトーリヤが生成しておいた巨大ザメの分身。
その絵面の凶悪さゆえに近年はサメ映画などでもモチーフにされる古代に存在した巨大ザメ、かの有名なメガロドンを、さらに【生体図鑑】に収録されていた情報より大きい、二十メートルという破格のサイズで出力した、今のトーリヤが用意できる最大の攻撃力を持った分身だ。
そんな凶悪な生き物が突如として現れて胴体に食らいつき、その巨体からの少なくない出血で海を真っ赤に染めながら、けれど当の海竜は激痛に叫ぶこともしなければ怒りの声を上げることもしなかった。
ただ淡々と、その頭部を矢のような勢いで射出して、胴体にかみつく巨大ザメの胴体にこちらもまた容赦なく食らいつく。
(――クソ、相手のサイズが大きすぎてこのレベルの生き物でも致命傷を与えられない……。けど――!!)
先ほどからの攻防でわかった。
圧倒的な巨体と不可解なほどの食いつきの速度、水上に頭を出しても自重を支えられるなど不可解な点の多いこの生き物だが、その行動原理自体は驚くほどにシンプルだ。
自身の付近の、とにかく一番大きな獲物に食らいつくという、ただそれだけ。
単純にトーリヤ達が小さすぎて獲物としての魅力が低いからというのも理由としては考えられたが、それ以上に先ほどからこの生き物の行動はひどく機械的で、ただ食いでのある生き物だけを積極的に狙って餌食にしようとしているだけという印象が強くある。
この海竜が最初に襲ってきたのも、恐らくはトーリヤが船のそばに泳がせていた巨大な鯨を食いでのあるごちそうと見做したからだったのだろう。
無論、鯨という極大のデコイがなければ船の方が狙われていたためその点についてはむしろ幸運だったのだろうが、なんにせよあの巨大な海竜が大きさだけを基準に機械的に標的を定めているのは明らかだ。
そしてどれだけ巨大で驚異的な生物だったとしても、ここまでわかりやすい行動原理をしているのならトーリヤの側にもやりようはある。
(いいぜ――、腹にはたまらないが食いでのありそうな疑似餌ならいくらでも用意してやる……。
さあなにがいい……? 有名どころでダイオウイカか? 首長竜の類か? 何なら各種クジラのフルコースだってくれてやれるぞ……!!)
力の弱い本体と、けがで弱ったエルセが泳ぐイルカの背から引きはがされぬよう、大蛇の分身を生成してロープ代わりに縛り付けるようなことまで行いながら、トーリヤはその心中でできるだけ不敵にほくそ笑む。
無論、実際のところ話はそこまで簡単ではない。
いかにトーリヤが巨大生物の分身をいくらでも生成できるとは言っても、一定以上の巨大生物を出力するにはそれなりに時間がかかるし、先に召喚した分身がやられるまでの間に次の分身が生成できなければ、その時狙われるのは恐らく今逃げ続けているトーリヤ達の方だ。
加えて、最大の遊泳速度で泳ぐイルカの背にしがみ付くような荒業を、負傷者すらいる幼い子供の集団がいつまでも続けられるはずもない。
一応生身の人間が息継ぎするために定期的に海上に浮上してはいるものの、体力的な問題を考えれば限界はそう遠くないうちに訪れることになり、そしてそうなるまでの時間は恐らくそう遠いものではないはずだ。
(けどそれは、そうなる前にたどり着けるなら問題にはならない……)
水中で目など空けていられないトーリヤだったが、当然周囲の様子が何一つ見えていないわけではない。
生み出した多数の分身と、トーリヤはその感覚情報を共有しており、たとえ本体の五感が封じられていたとしても多数の分身たちから送られてくる感覚で周辺の情報を把握可能だ。
そして当然、そうして得られる情報の中には、早い段階から探していた陸地の位置情報も含まれる。
(見つけたぜ、陸地……!!)
海竜に襲われる前に生成して四方八方にばらまいていた鳥のアバター、そのうちの一羽が捉えたその場所へとむけて、トーリヤは四人を乗せて泳ぐイルカの行く先を定める。
夜行性のものを選んだとはいえ、暗い中で陸地を探すというのは思いのほか困難だったが、夜明けを迎えて光が差したことでかろうじてではあるが目指すべき陸地を発見できた。
そして、ここまで状況が整ってしまえばもはややることはシンプルだ。
本体は他の三人と共に生成したイルカの分身にしがみ付き、その遊泳によって見つけた陸地へ向けて一直線に泳ぎ向かう。
同時に、背後の海竜に対してはできるだけ体の大きな分身を断続的に生成。
相手にダメージを与えることよりもできるだけ長く生き残ることを優先し、一体がやられる前に次の一体を生成できるペース配分で次々とおとりになる分身をぶつけながら、本体を含む人間四人が逃げ切るまでの時間を稼げばいい。
無論能力の連続行使、フルスピードで泳ぐイルカにしがみ付き続けるというのは、体が幼児のものでしかないトーリヤ自身きついものはあったが――。
「このまま陸まで行く……!! なんとしてでもそれまで耐えろ……!!」
息継ぎのためにいるかが海から飛び出したその瞬間、他の三人へとむけてそう呼びかけて、トーリヤは海へと、そして闘争のための戦いの中へと再び潜る。
現状を打開するために唯一見出したその戦い方に己が全神経を集中させて、込めて、注いで、そして――。
「――ゼぇ……、はぁ、はぁ、はぁ……」
頭を内側から殴られているような頭痛がする。
体が重く、まだ幼い肉体がイルカの背からずり落ちかけているが、それでもトーリヤは自身がつかんだエルセの服から手を離さない。
もう一体のイルカから感じられる、レイフトとシルファの二人の様子もひどく疲弊しているようだがそれでもしっかり分身にしがみ付いている。
そのことに安堵しながら、すでに自分たちが足がつくほどの浅瀬にたどり着いていることを自覚して、背後の海においてきた分身たちが軒並みその役目を果たして消滅したのを知覚しながら、最後の力を振り絞るようにトーリヤは自身の能力を行使する。
「【生体、転写】……」
自身のそばにそれが現れるのを知覚して、そこまでがさすがにトーリヤにとっても限界だった。
薄れゆく意識の中、最後に耳にするのはある意味では懐かしいとさえいえる人間の声。
「おつかれ。ま、あとのことは俺に任せろ」