2:転生勇者のニューライフ
かくして、突発的な事故で命を落とし、人生を終えるはずだった人間は思わぬ形で命をつなぎ、神を名乗る何者かによって異世界に転生するというあまりにも有名な珍体験の当事者になることとなった。
恐らくは徐々に人格データが新しい体の中で解凍されて定着する、その過程の感覚だったのだろう。
まどろむような感覚の中をずいぶんと長い時間漂って、ある日突然意識の焦点があったように思考と感覚がはっきりしだして、追いついてきた記憶に自分が置かれた状況をようやく受け入れ、理解する。
「ぁぅぁ……」
口をきこうとして自由にならない発声器官が実に赤ん坊らしき声を絞り出して、見知らぬ天井へと伸ばした両手の小ささに否応なく自分の現状を理解させられて、最後に前世での記憶と合わせて今の自分の状況への実感が追い付いてくる。
(――ああ、本当に死んで生まれ変わったのか……)
前世の自分が死んだのだというその事実をいまさらのように噛み締めて、天井を見上げて動けぬ赤子の体でしばし凹む。
あの神ならぬ存在と対話したときにはそこまで考える余裕はなかったが、今までの人生や生活環境、人間関係や、俗なことを言うなら所持品や財産など、前世の自身が死んだことによって失われたものはあまりにも多い。
無論、本来であれば命すら失っていたことを考えれば、こうして記憶を引きついだまま赤子からやり直せるという時点でずいぶんと恵まれた話なのだろうが、それでも人生やり直しの大商がそれまでの人生の喪失であることも客観的事実なのだ。
そんな事実を噛み締めて、けれど直後に、赤子の小さな手を握り締め、思い直して動き出す。
(いつまでもクヨクヨしてはいられない……。今の俺にはやらなくちゃいけないことがあるんだから……)
死んだあと異世界に転生するという、物語でならよくある事態を実際に体験することになったトーリヤだが、その転生は幸運によって掴んだものではなく、この世界を襲うという厄災に対する迎撃戦力となることを受け入れての交換条件によるものだ。
話していて感じた印象として、あの神ならざる存在には約束を履行しなかったからと言ってこちらに行動を強制する気ないようだったが、話を聞いた限りでは逃げられるモノでもなさそうだし、なにより恩を受けた以上はそれに報いたいという意思くらいはある。
いろいろと話があいまいで急だったため、騙された可能性を全く疑っていないわけではなかったが、少なくとも現状あの神様もどきの何者かは恩人なのだ。
そしてそうである以上、少なくとも今から請け負った仕事で最善を目指すべきだろう。
(まずは情報収集か……。今の自分の現状、どんな状態から魔王討伐を目指さなきゃいけないのか、まずは手札の確認から始めないと……)
無理やりに意識を切り替えて、そうしてトーリヤは新たな人生、その中で目指す魔王討伐へと向けて動き出す。
いや、トーリヤ本人は首も座っていない赤子であったため身動きなどはできず、あくまで意識の問題でしかなかったのだが、それでも。
――まず第一に、今生での自身の名前はどうやらトーリヤというらしい。
これは両親らしき男女がこちらに呼び掛ける際に口にしていた言葉なのでまず間違いはないだろう。
現状二人の口にしていた言葉は全く未知のもので、かろうじて名前だけは雰囲気から察することができたものの、それ以外は何を言っているのか全くと言っていいほどわからなかった。
(――まあ、そのあたりは普通に、それこそ赤ん坊が言葉を覚えるように少しづつ覚えていけばいいんだろうけど)
なお、両親は恐らく二十歳前後。前世のトーリヤよりも若いがこれについては特に不自然ということもないだろう。
部屋の内装を見るに文明レベルはそれこそ中世に近いレベルのようで、この辺りは物語に出てくる異世界のイメージと大体合致する。
さすがに貴族の家に生まれたわけではなさそうだが、極端に貧乏な家というわけでもないようなのでひとまず安堵することとなった。
ついでに言えば、どうやらこの家は海が近い場所にあるらしく、窓から吹き込む風にかすかに潮の香りが混じっている。
と、ここまでは特に問題はない。
いくら何でも生んでもらった直後の身で、親や家といった要素に文句など付けられるはずもないが、それでも極端に劣悪な家庭環境で、出生直後のスタートダッシュにすら難儀するような家庭環境でなかったのは十分すぎるほどの幸運だ。
ただし、一方で問題だったのが、今生での自分たるトーリヤが、まごうことなき生後一月ほどの女児だったという点である。
(――って女の子かよ……!!)
まだ使い慣れない発声器官で言葉にならない声を上げながら、思わずトーリヤは心の中だけでそう叫ぶ。
トーリヤの前世は、地球の日本で三十過ぎまで生きた立派な成人男性である。
当然、女として生きた経験などあろうはずがなく、ただでさえ転生によって全く別の人生を生きなくてはならなくなったこの状況で、前世との自分との間にさらなる差異が発覚してしまったのはなかなかにショックの大きい事態だった。
加えて、そうした前世との決定的な差に気づいてしまったのとほぼ同時に、そもそも根本的な部分に横たわる大問題にも気が付いてしまった。
(――あれ、魔王襲来まで十年じゃ、順当に成長してもその時の俺ってほんの子供じゃね……!?)
この世界に転生する際、あの神様もどきの存在に聞かされた情報として、魔王襲来までの時間はおよそ十年前後とのことだった。
無論前後ということは正確にぴったり十年という訳ではなく、ことによっては数か月、あるいは数年前後するのかもしれないが、問題なのはそうして期限が早まった場合はもちろんのこと、多少遅れたとしても、トーリヤはほとんど小学生程度の年齢でその魔王襲来の瞬間を迎えなければならないということだ。
(順当に成長しても十歳……。ああ、いや……ゼロ歳から数えて十年なら期限が来る頃俺は九歳か……。
嘘だろ……。マジかよ……。いや、まあ、魔王が襲来してから実際に戦うまでそんなすぐってことにはならないかもしれないけど……。国が率先して戦って、歯が立たなくて勇者に頼るっていうのは、むしろこの手の話では王道なのかもしれないけど……!!)
せっかく危機の襲来が事前に知らされているのに、このままでは肝心のトーリヤが初動対応で対処可能なタイミングに間に合わないかもしれない。
そんな事実を突きつけられて、さすがに焦りと共にトーリヤはベビーベットの上で愕然とする。
もちろん、あの神ならざる存在が言うにはトーリヤ以外にもこの世界に転生している勇者らしきものたちはいるそうなので、そちらがうまく対応してくれるという可能性もないわけではないのだが――。
(あの神様もどきが言っていたことをどう受け止めるべきかも問題だしな……)
『絶対に分かり合えないから気を付けて』というその言葉を、あの意識が消える寸前にあってなおトーリヤは聞き逃していない。
ここでいう『分かり合えない』という言葉の意味は不明で、その同じ勇者の立場にいる者たちが同じようにこの世界に転生して来ているのだとすれば共闘できないということはないはずだが、ことがことだけに見ず知らずの他人に頼り切ってしまう気はトーリヤにもなかった。
たとえ魔王の襲来時の年齢が十歳以下だったとしても、その魔王と戦うための力を持ち込んでいるトーリヤが、迅速に参戦できるに越したことはない。
少なくとも対抗する戦力が早い段階から参戦していれば犠牲者数とて格段に違ってくるだろうし、曲がりなりにも命の代償に請け負った仕事で、怠慢な態度で挑んで余計な犠牲を増やす事態になってしまうというのはトーリヤにとっても不本意だ。
(こうなってくると、肉体性能に依存しない能力でどこまでカバーできるかが重要になってくるな……)
幸いにして、この世界に魔法なる技能が存在していることは事前の話の中でチラリと出てきていたし、ほかならぬトーリヤ自身、母親が魔法らしき力で火を起こして灯りをともしているのをこの目で確認している。
(魔法があるなら、最悪肉体面で劣っていてもそっち方面の能力で補える……。特に俺の場合は、あの神様もどきがなにやら力を持たせてくれたみたいだし、な……)
そう考えながら、いよいよトーリヤは最も重要な問題に意識を向けることにする。
すなわち、あの神様まがいの存在がトーリヤという人間に付与してくれた、この手の物語における転生特典に位置するだろうなにか(・・・)の確認へと。
(――ああ、これは……。なんとなくだけど、わかるな)
あれこれと考えるうちに自然に知識が浮かび上がってくるような感覚に、トーリヤはその内容を吟味し、なるほどとあっさりその理由を納得する。
その知識によれば、付与された特典は主に三つ。
メインとなる能力が一つに、それを効果的に扱うための能力が二つ、という内訳らしい。
(――まあ、百聞は一見に如かずというし、まずは試してみるか)
両親が自分の元から離れた隙を見計らい、トーリヤは自身に与えられた特典能力、まるで手足を動かすように自然に扱えるそれを起動させて、自身の内から引き出した力を横たわる赤子ボディのすぐ横あたりに発現させる。
「ぉぉぁ」
舌足らず、というよりも、赤子特有の言葉にならぬ声で感嘆が漏れる。
体のすぐそば、赤子となった自分とほぼ同じか、それより少し細いくらいの姿が瞬く間に未知の粒子によって形成される。
そうして現れるのは、トーリヤにも見覚えのある一匹の猫の姿。
(――おお、懐かしいな、ニタマゴ)
前世の人生の中、およそ成人する前後位まで家で飼っていた懐かしの飼い猫が横たわる自身の横に座っているその光景に、トーリヤは思わず能力発動の感動と共に猫の姿そのものへの感傷も覚える。
かなり前に寿命を迎えて死に別れた相手だが、それでも目の前に現れたその猫は、餌を食べている後姿が卵のように見える、そうなる要因となった茶色い毛色の範囲から、短いしっぽの特徴まで寸分たがわず記憶にある猫と同じ姿だった。
とはいえ、目の前にいるその猫は、厳密にはかつて飼っていたニタマゴそのものというわけではない。
(――ああ、そうだ。こいつは死んだ飼い猫がよみがえったみたいな話じゃない)
思いながらトーリヤが赤子の体で手を差し出すと、目の前のニタマゴが同じように前足を差し出して、こちらの掌と肉球を合わせて柔らかい感触を与えてくる。
猫の肉球の感触、というだけではない。
ほかならぬトーリヤ自身の、猫の側から感じる赤子の手の感触も、二つ同時に、だ。
(そう……。こいつはニタマゴじゃない。こいつを動かしてるのも俺自身、この猫は俺が遠隔操作で動かしてる分身みたいなものだ)
自身が思い描いた生き物を具現化して分身として操る。それこそがトーリヤが転生特典としてあの神様もどきの存在から与えられた最大の能力だ。
転生に当たって、あの神を名乗らない謎の存在は三つの能力をトーリヤに付与しているが、中核となっているのはこの分身を作り出す能力で、他の二つは基本的にこの能力を運用・補助するためのものとなっている。
(名前を付けるなら、定めし【生体転写】ってところか……)
頭の中で自身の能力にそう名付けながら、トーリヤは人間の視点で生み出した猫の分身を眺めるのと同時に、猫の視点でも本体である人間の赤子をまじまじと見つめて考える。
(――へぇ、今生の俺ってこんな外見してるのか……。うーん、なんとも……。かわいらしい外見も自分の姿なのかと思うと複雑……)
猫の白黒に近い視界で己の顔を確認し、トーリヤは男の精神で美人に育ちそうな自分を見て複雑な感情を噛み締める。
金髪に碧の瞳、容姿にしたところで赤子であることを差し引いても悪くない。そんな容姿を持っている赤子の正体が自分であるというのは、改めてつくづくアイデンティティを揺さぶられる現実だった。
とはいえ、これについてはもはや慣れていくしかない話でもあるのだ。
少なくともこの先の人生において、トーリヤは三十過ぎの男ではなくこの金髪碧眼の新生女児であり、仮に美人に育たないことはあり得ても元の男に戻ることはない。
そう無理やりに割り切って、続けてトーリヤは猫の体で動き回って自由にならない赤子の体の代わりに室内の様子を確認していくことにする。
その過程で猫の体の動作確認も同時に行い、猫の視点でそれなりに高い場所から飛び降りたり、逆に飛び上がったりしながら問題なく動けることを確かめる。
(よく知ってる昔の飼い猫とはいえ、根本的に別の生き物の体なのに問題なく操れる……。
これもメインの能力を補助するために持たされたサブの能力のおかげか……?)
自身の思い描いた生物を遠隔操作可能な分身として生成することができるという便利かつ強力な第一の能力だが、この思い描くというのが曲者で、能力使用時に想起しなければならない生物の情報は単純な見た目だけのものではない。
能力使用時に必要になる情報は骨格や内臓、筋肉の配置など一つの生き物を構成する莫大な量のもので、これをまともに達成しようとしたら医者や獣医、生物学者でもなければわからないような深く専門的な知識と、それらを瞬間的に思い描ける人間離れした頭脳が必要になってしまう。
この能力を付与した神様もさすがにこれ単体では人間には使用不可能と判断したのだろう。
そうした知識不足や脳の処理能力不足の問題を解消するために付与されたのが、トーリヤが持つ第二の能力、名付けて【生体図鑑】だった。
(すごいな……。よく知ってるような生き物の身体構造の情報はもちろん、名前くらいしか知らなかったような生き物や、絶滅動物の情報まで引き出せる……)
脳内であれこれと思い浮かべた様々な生き物についての情報が、トーリヤが前世で名前くらいしか知らなかったはずの生き物についての知識が、次々と脳裏で展開されて閲覧できるその状況に、トーリヤは赤子として横たわったままある種の感動すら覚えて打ち震える。
(これ、マンモスとかティラノサウルスとかのアバター作ったら大抵の相手に勝てるんじゃないか……?)
無論この世界が火を吐くドラゴンのような存在がうようよしているような世界であればティラノサウルスでも危ないかもしれないが、それでも巨大生物のアバターを自在に生成できればそれだけで破格の強さを手に入れられるのもまた事実だ。
それだけであらゆる相手に勝てるかどうかはわからないものの、魔王と戦うために持たされた能力というだけあって強力な戦力になりそうなことは確かである。
(あとは、最後の三つ目……。っと、こっちもこっちで帰りつけたな)
赤子の視界の端、寝かされている大きめの籠の縁に先ほど作成したニタマゴが顔を出して、外に出て捕まえてきたと思しき蝶らしき虫を咥えた状態で差し出してくる。
その絵面を本体の目で見て、そういえば虫を口にくわえるなんて猫の体とはいえよく自分にできたなと驚きも覚えたが、ひとまずはそんな思考はわきに置いて猫の体で差し出された蝶の羽に赤子の手で触れてみる。
次の瞬間、脳裏に流れ込んできたのは先ほどニタマゴの体を作る際に脳内から引き出したのと似通った、けれど別の星の生き物ゆえに決してそうした記憶の中にない、この世界で初めて出会った蝶の身体構造、その情報。
厳密には、猫の体で捕まえた際に多少破損してしまったため完全な身体情報とは言えなかったものの、逆に言えばどこの部分がどう破損しているのか、そうしたある種の診察結果のような情報すらも正確に、そして一瞬のうちに把握できていた。
(これが第三の能力……。接触した生物の身体構造や状態を一瞬で把握できる――。名前を付けるなら、定めし【生体走査】といったところか……)
恐らくこちらの世界の生物の情報を新規で習得するための能力なのだろうが、これまた【生体転写】との相性が抜群に良い能力だった。
しかもこちらの能力の場合【生体転写】を用いるための運用以外にも、これ単体でもそれなりに活用方法が見いだせる。
以上三つが、トーリヤがこの世界にわたるにあたって持たされた三つの能力。
【生体転写】、【生体図鑑】、【生体走査】。
この三つの能力をもってして、トーリヤは十年後、この世界に襲来するという魔王なる存在に挑むことになる。
(――とりあえず、もらった能力がこの体で直接戦闘するタイプじゃない、強い分身を作ったうえでそれを操るタイプの能力だったのはありがたい限りだな……。
それとも、ここまで見越してこんな能力を持たせたのか……?)
出がけならぬ転生直前の様子から考えるとあまり深く考えてこの能力にしたという印象は抱かなかったが、なんにせよ十歳以下の幼女の体でもあまり不利にならない能力だったのは行幸だ。
あとは来る戦いのときに向けてこの力を磨いて、情勢によっては戦いに参列できるよう名を上げるか、あるいは逆に特殊能力の存在を隠してわが身に危険が降りかかるのを避けつつその時を待つか、自身の立ち回りをどこかの段階で判断しなければならない。
(なんにせよ、まずはこの力の研究だな……。とはいえ、さすがに赤ん坊の体だと体力的な限界も考えなきゃダメか)
そう考えて、トーリヤは赤子の体に襲い来る眠気に流されながら、ひとまずニタマゴの分身を消しつつ休息もかねて眠りに落ちる。
自身の能力についてまずは何を検証すべきか、そのアイデアを直前からの思考で意識が途切れるまで続けながら。
かくして、問題が全くないとは言えないものの、それでも順調といっていい滑り出しでトーリヤの第二の人生がスタートする。
無論赤子であるため大っぴらに検証や訓練は行えず、漁師であるらしい父親や母親がいない隙を狙ってそれらを行う必要はあったが、もらった能力については少しずつでも検証できたうえ、事前に聞いていた魔法の存在も確認できたことにより、そちらについても試行錯誤して訓練を重ねることは出来ていた。
さすがにすべてが順調というわけではなかったが、それでも。
順調、だったのだ。
少なくともこの五年、トーリヤが四歳になり、多少なりとも動き回れるくらいまで成長する、そのころまでは。
ある日突然、村でひそかに行われていた村長の不正にまつわるごたごた、その火種が燃え移る形で今生での両親が殺されて、その一人娘であるトーリヤが村長の手下たちによって捕らわれるその時までは。