崩壊前3
その感染症は、「ゾンビ病」とは呼ばれなかった。
適切に「CDHD(Consciousness Deficit Hypoactivity Disorder)」もしくは、「感染型脳炎」という病名で報道がなされたからだ。
やがて「CDHD」の方で定着し、
四文字のアルファベットが、街を侵食していった。
――厳格な交通遮断がなされた中国の汚染地域。
車通りの絶えたその自動車道路を、CDHD感染者たちがあてどなく徘徊している映像が、繰り返しテレビニュースで流された。
封じ込めにあった市民が、市内の窮状を国内ネットに配信し、
その録画を海外の記者が持ち帰ったことで、拡散を抑え込めなくなったというのがこの動画の来歴だという。
これまでの数年間も、俗にいうコロナウイルスに世界は脅かされていたが、
病状の回復がないという点で、CDHDは既存の感染症とは深刻さが大きく異なった。
WHOからは異例の速さで「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態」が宣言され、
日本でも速やかに対策本部が立ち上げられた。
この感染症が五月の連休に掛かったことが災いし、海外旅行からの帰省した人々などによる国内感染の兆しがみられたからだろう。
もっとも、速やかに立ち上げられた対策本部の、対策そのものはけっして速やかではなかったようだが……。
ぼくは毎日食い入るようにそれらのニュースを追った。
愚かにも、世界を変えるなにかを求めていたからだ。
そして初報から一〇日目の夜。
ぼくはこのころにはもう現実と、娯楽としてのゾンビを明確に区別していた。
この現実の感染症の悲惨さはぼくが求めているエンタメ的な黙示録とはまったく噛み合わない。
それだけは理解できたから。
外国のCDHD患者家族へのインタビューはとても痛ましかった。
「息子が感染してしまいました。政府に連絡すると役人がやってきて、息子はどこかへ連れ去られました。息子を返してください」
「妻が感染しました。感染した妻に襲われてわたしは子供たちを失いました。これからどうやって生きていけばいいかわかりません」
見ていて気が滅入った。早くこの感染症が終息してくれることを心から祈った。
とはいえ心の弱いぼくは、世界中の悲劇と個人的な鬱屈した感情からの現実逃避を兼ねて、その晩もテレビゲームをしていた。
自堕落な習慣には理由がある。
弱い人間には苦しみから目を逸らすためのなにかが必要なのだ。
そんな言い訳をしながら、ベッドテーブルにスナック菓子と炭酸飲料を準備して、コントーラーをガチャガチャやっていると、いきなり大きな警報音がした。
数秒間放心したのち、慌てて警報音の発信源を探した。
床で充電しているスマホの画面が明るく光り、振動しながら叫び続けていた。
ぼくはリモコンで照明を点けて、スマホに手を伸ばした。
画面に表示されていたのは、キャリアから送られてきた緊急速報メール。
「重大な感染症が発生しています。重大な感染症が発生しています。戸締りをして絶対に外出しないように、屋外にいる方はすみやかに近くの建物の中に避難するように 対象地域――」
という内容で、Jアラートと付記されていた。対象地域には関東一円が指定されている。
「うそだろ?」
文面にはCDHDの文字はなかったけれど、このタイミングで感染症といえばCDHDのことを指しているのは間違いない。
ドアを乱暴にノックする音がした。
「道夫、起きてる?」
母の声だった。
「起きてるよ」
ぼくが鍵を開けると、カチャリとドアが開いて隙間から寝間着姿の母が現れた。
母はすっかり怯えた様子だった。
「いまので飛び起きたわよ。この辺りなのかしら」
「そこまでは書いてなかった。うちは戸締りは大丈夫だよね?」
夜だから玄関や勝手口には鍵をかけてあるはずだ。
「大丈夫だと思うけど……」
母は小声で答える。
「確認してくるよ」
ぼくが行こうとすると母もついてきた。一緒に一階に下りて鍵の確認をする。
少し安心してリビングに入ってテレビを点ける。ぼくたちはソファーに腰かけた。
「やっぱりニュースになってるね」
どのチャンネルに変えてもCDHDに関する緊急特番が放送されていた。
実際に街に人を襲う患者が現れたのはまだ都内だけのようだ。関東全域に警報が出されたのは用心と感染拡大を防ぐためとキャスターは説明している。
しきりに母がスマートフォンを触っていた。
「お父さん大丈夫かなあ。電話しても出ないのよ」
「大丈夫だよ。会社でしょ? またそのうち連絡あるよ」
と励ます。父は自動車部品を作る工場に二交代制で働いていて、ちょうど夜勤の週だったのだ。
仕事中に連絡を入れても返事が来ないことは母もぼくも知っていた。けれども心配性の母はそうせずにはいられなかったのだろう。
「そうよねえ。会社の人たちだって居るんだし」
そのとき家の電話が鳴った。母が急いでそれを取る。
「いえいえ、とんでもないです。ええ、びっくりしましたよねえ……」
会話の内容から察するに近所の人からの電話のようだった。
ぼくが自分の部屋に戻ろうとして立ち上がると、急に窓の外からスピーカーで拡大された声が聞こえてきた。
「田露市からのお報せです。近隣の地域でCDHDに感染した方が確認されました。みなさんは各自戸締りをして自宅に留まってください」
こんな放送初めてだ。ぼくは部屋に戻るとカーテンの隙間に頭を入れて窓から外を眺めた。
遠くに広報車が見えた。ああやって市内を回っているのだろう。
近所の家の窓には次々と明かりが灯っていく。もういい時間だ。この放送で目覚めた人もいたのだろう。
家から出るなと言われているのに、何人もの住人が軒先へ出て顔を合わせていた。
中には避難のためなのか車を出している人までいた。
「田露市からのお報せです。近隣の地域でCDHDに感染した方が確認されました。みなさんは各自戸締りをして自宅に留まってください」
繰り返しアナウンスがなされる。
ぼくは布団を頭まで被った。
そして、学校は休みになるだろうか。と調子はずれなことを考えた。
「明日休みかな?」
栗田にLINEを送ってみた。
すぐに、
「だろうな。家の近所やばいことになってる。そっちも気をつけろよ」
と返事がきた。
大変なことになったなぁ、というコウペンちゃんのスタンプも添えられていた。
家の外では少し遠ざかったものの、なおも広報車からの放送は続く。
大音量を聞いているとだんだんと不安が大きくなっていった。
こんなときに友達多いやつはいいんだろうな。
思考があちこちをさ迷い、ぼくは自分という人間が嫌になってきていた。不安から始まった連想ゲームは自己嫌悪を引き起こしぼくは暗闇の中でもだえた。
「道夫、二階にいるのー?」
階下から母の呼ぶ声がした。
無視した。
すると階段を駆け上る音が聞こえてきたので、
「いるよ!」
と怒鳴った。
「いるならいるって、返事しなさいよね」
と聞こえた。
たちまち自己嫌悪が膨れ上がった。量を間違えた増えるわかめのように僕の心は暗黒に染まっていく……。
だが大きな声を出したせいか、身体の緊張が緩んで眠たくなってきた。
そしてそのまま暗闇の中に溶け込んだ。
CDHDの名称は、
ティモシー・ヴァースタイネン、ブラッドリー・ヴォイテック『ゾンビでわかる神経科学』(鬼澤忍訳、太田出版)
から借用しています。




