終幕後2
足音を殺して奇襲を……、という思考はできなかった。
なにも考えず駆け下りた。
ぼくはたった一つにして最大の優位性を投げ捨ててしまう。
だがその行為を咎められることはなく、
階段の中ほどで、さけちゃとぶつかった。
さけちゃは賢明にも敵から逃げようと階段を上ってきていたのだ。
「うわぁ!」
「オオォ!」
さけちゃがバランスを崩して後ろ向きに倒れる。
次の瞬間、さけちゃの背後から別の悲鳴が上がった。
――大きな物音。
さけちゃを追っていた相手が、さけちゃの下敷きになって階段から転げ落ちたのだとわかった。
「さけちゃ!」
ぼくはさけちゃのところまで駆け寄る。
「オオ……!」
情けない声ではあったが、さけちゃはぼくの顔を見て返事をした。
腕を掴んで立たせる。とりあえず大きな怪我はなさそうだ。
さけちゃの下敷きになってのびている男がクッションになったのだろう。
逆にその男は完全に気を失っているようだった。
手に太い警棒を握っていたから、警邏でもしていて見かけた不審者を追いかけたのだとわかった。
アパートの上階から、ドアが開く音と人の声が聞こえてきた。
いまの物音を聞きつけて出てきたのだろう。
アパートの外にはほかにだれもいない様子だったので、ぼくたちは急いでその場を退散することにした。
気絶した男も仲間に介抱してもらえるはずだ。
ある程度離れた場所で、物陰に姿を隠して、ぼくたちは息を整える。
「さけちゃ大丈夫か?」
「オオォ……!」
「わかった」
周りに気付かれないか心配になるくらいの声量だったので大丈夫そうだ。
さすがにアパートまで声は聞こえないだろうが、ここは敵の陣地内。どこに人が隠れているかわからない。
薪井のときみたいに、あちこちから追手がやってくることを警戒していたが、辺りは再び静かな夜に還っていく。
野良の感染者が暴れただけだと思われたのか、気絶した男が階段から足をすべらせただけだと勘違いされたのか。
いずれにせよ、拍子抜けするほどになにも起こりそうにない。
「寒い……」
じっとしていると寒さを感じずにはいられなかった。周囲を塀に守られて風はしのげるが、それでも地面から冷えが這い上がってきていた。
激しい眠気がやってくる。
どこに行けばいいかわかっている内はよかったが、ここからは自分で探さないといけない。それも敵に見つからないように。
その困難を考えると、頭に靄がかかったようになって、ぼうっとしてしまう。
「さけちゃ……」
「……」
返事がない。
小さくいびきをかいている。
眠っているのだ。
「眠っちゃだめだ、起きてよ」
揺さぶるが、反応はない。
まるで雪山で遭難したみたいだと思った。
実際に遭難したことがあるわけではないが、眠ったら死ぬぞといって仲間を揺さぶるシチュエーションは何度となく見聞きしたことがある。
そのようなシチュエーションと自分の状況がオーバーラップする。
なのになぜか危機感を感じない。多分危機感を眠気が上回っているせいだろう。
眠ったら死ぬのだろうか?
わからないが、かなりまずいことになるのは間違いない。
だが仮に死んでしまうとして、これほど強い眠気がやってくると、もうそれでもいいかなんて思えてくる。
こんな風にぐだぐだ考えている時点で、もうそちらに傾いている証拠だろう。
さけちゃの身体は温かい。
感染者はゾンビだなんて呼ばれているけど、ちゃんと血が通っている。
なんなら非感染者より体温は高い。
カイロみたいだなと思ったところで、ぼくの意識は途切れた。
〇
数時間は横になっていたはずだが、その半分も眠れてはいなかったと思う。
アスファルトと隙間風に苛まれ、何度も意識が戻っては途切れた。
起きなくてはならないことはわかっているのに、金縛りにあったみたいに体が動かない。
周囲が明るくなり始めてから、ようやく上体を起こすことができた。
睡眠が取れたとは言い難かったが、それでも現状把握ができるくらいには思考力が戻った。
戻る前からわかっていたが、状況は最悪だ。
空の白み具合から見て、もう共同体が活動を開始していてもおかしくない時間だろう。
たくさんの人目がある中で、みんなを探すのは難しい。
さけちゃは隣でまだいびきをかいている。
暗い内は物陰であることしかわからなかったが、ここは工場の駐車場らしい。
トタン塀によって遮蔽された角の部分にぼくたちは寝ていたようだった。
停まっている車は窓が割れていたり、錆びついていたり、ひどく汚れているから単なる廃車置き場なのかもしれない。
普段から使用されているであろう軽トラやバンなどの車は、大抵道路の端に直接止めてあった。
ならばここは敵陣において死角となっている個所なのではないだろうか。
ぼくたちの村にもそういった場所は無数にあった。
いまや全世界が過疎地域。空地だらけなのだ。
さけちゃの横にもう一度寝そべって、夜まで休息を取ろうかと考えた。
実際こんな最低の寝床でさえ、魅力的に思えるほどに疲れてはいた。
だけど、おそらくもう時間は残されていない。
井須さんが教えてくれた場所に千路くんたちの姿はなかったし、薪井も捕まってから二日以上経っている。
この状態で夜まで待っていたら手遅れになってしまうと思った。
焦りは禁物だ。焦ってぼくまで捕まったら元も子もなくなる。
言うは易いが、それで焦らずにいられるような判断力はぼくにはなかった。
「さけちゃ」
ぼくはさけちゃの身体を揺さぶる。
「ウウー」
跳ねのけられるぼくの右手。
「起きろ!」
なかなかさけちゃは起きようとしない。
それなら。
ぼくは一人立ち上がった。
さけちゃはここに寝かせておいて、一人で探索を行おう。
日中に二人行動は目立つ。
さけちゃを残していくのは少し不安だが、いまはそんなこと言ってられない。
ぼくは駐車場の塀から少し顔を出して辺りを確認する。
アパートの方で人の動きがあるのが見えた。
数人が連れだってどこかへ移動しようとしている。
彼らが曲がり角を折れて姿を消したのを確認してから、ぼくは駐車場を出た。
塀や建物の壁に張り付くようにしてコソコソと進む。
どうにか、昨晩のアパートの前まで行ったところで、上から話し声が聞こえた。
「昨日騒がしかったよな」
「ああ、ゾンビが入ってきてたみたいだぞ」
「またかよ。うちのやつか?」
「わからん。ケンジはそいつに階段から突き落とされたって言ってるんだが、他のやつらで探しても姿がなかったとか」
「本当にいたのか」
「声は聞こえたらしいんだが」
ぼくらのことを言っている!
話し声がだんだん階段を下りてきている。
ぼくはアパートの庭に姿を隠す。
そのせいで話の内容が聞こえなくなったが、さけちゃが野良の感染者だと認識されていることを知ってほっとする。
結構騒がしくしてたのに、案外気付かれないものだ。
さっきの話ぶりからしても、感染者が入り込んでしまうことは初めてではないようだった。
きっと兵隊として使っている感染者のことを言っていたのだろう。結構管理が杜撰なのかもしれない。
話し声は遠ざかったが、そのあとにも階段を下りてくる男たちがいた。
ちょうど起床時間だったのだろうか。
こんなところに隠れていて見つからなければいいが……。
しかしその心配は杞憂だったようで、そのあと一組だけ出て行ったきり辺りは静かになった。
グループの人間が起きてきたことから考えても、千路くんたちがアパートの中の別の階にいるというわけではないだろう。
少し考えてから、ぼくはさっき出て行った男たちのあとを追うことにした。
どこに行っていたのかしらないが、もし朝の集会かなにかに出かけたのならこのグループの現状を把握するにはちょうどいいはずだ。
ぼくはアパートを離れ、そして貯油施設の敷地の方へ向かう。
グループの男たちが正門から入っていくのが見えた。
井須さんが言うには、この貯油施設には正門のほかに、いくつか出入り口があるということだった。
広い敷地だから忍び込むことはできるはずだと。
ぼくは柵の周囲をぐるっと歩いて回る。広い道路で見晴らしはいいが、人の往来はまったくない。
しばらくして、柵の途切れている個所に行き当たった。
錆びた門扉が地面に横倒しになっていた。
青いネットで補修というか、塞がれてはいたが、重しになっているブロックをどければ簡単に隙間から入ることができた。
おそらく感染者に対して侵入させないようにしていただけだろう。特に警備の人間もいない。
入ってすぐの所に、事務所として使われていたのだろうか、三階建ての建物があった。
ぼくはハッとする。
ここの可能性はないか。
この拠点の要となっているのがこの貯油施設なら、その敷地内に千路くんたちが囚われていてもおかしくない。
なんらかの理由で前の場所から移されたのだろう。
都合よく考えながらぼくは建物に近づいていく。
だけど――
拠点内でのこうした潜入捜査は結局無意味だった。
遅かった。
すべてはもう終わっていたのだ。
ほかならぬ薪井の手によって。




