離別後1
腕を封じられなかったのは幸いだった。
固い結び目を苦戦しながらもどうにか解いて、ぼくは自由を取り戻す。
すると思い出したかのように体がガクガクと震え始めた。霜の降りた冷たいアスファルトに転がっていたせいで、芯から凍えていた。
――どこでもいい。屋内に入らなければ。
北風はどんどん勢いを増して、ぼくの命ごと吹き飛ばしてしまいそうだった。
荷物を置いてきた仮宿には日が昇ってから戻ることにして、とにかく手近な家屋に避難しなければならない。
そのとき、この感染者をどうしようかと思い至った。
他人のことを気にしている場合ではなかったが、置き去りにされたもの同士だからだろうか、無視しようとは思えなかった。
「ほら、行こう。こんなとこにいたら死んでしまうよ」
ぼくは彼にそう声を掛けるが、彼は意に介さず往復運動を続けるだけだ。そうやって体を温めているのだろうか。
「行かないの?」
もう一度訊いてみる。
無視される。
「じゃあもう行くからね!」
これ以上寒さに耐えられそうになかった。
ぼくは二階建ての住宅の窓を、庭に置いてあった植木鉢で破って、慎重に錠を解く。
ガラスで手でも切ろうものならそれは致命傷になり得る。
意外に冷静である自分に気が付いた。ぼくはまだ先のことを考えられている。
サッシを乗り越えて中に入り、風に吹かれずすむことにほっとする。
室内の空気ももちろん冷たかったが、それでも風がないだけでずいぶんと違った。
貴重な電池を惜しげなく使いながら、ぼくはずいずいと進んでいく。
もはや中に感染者が残っていようと関係なかった。
体を温めないとどの道生きられないのだから。
隣室に布団がそのまま敷いてあり、その布団の中に転がり込んだ。羽毛布団に包まれ、しばらくするとようやく自らの体温を感じることができるようになった。
そうすると、さきほどのことを考える余裕が戻ってくる。
あいつら薪井のことを知っている様子だったけど、わざわざ脱走者を連れ戻しにきたのだろうか。
わざわざ連れて帰ったということは、いますぐに殺されはしないだろうけれど……。
問題は山積みの上にさらに山のように積み重なり、もはや倒壊寸前だった。
だがそれよりも喫緊の問題がある。
ぼくは布団を被ったまま、のそのそ移動して玄関から外へ出る。
彼はまだそこにいて、闇夜を迷宮のようにさ迷っていた。
ぼくなんかよりよっぽど生命力は強いのだろうが、それでも氷点下近い外気に晒され続けてなんともないわけがない。
「ねえ、これ」
ぼくが毛布を手渡そうとすると、彼はぼくの手を跳ねのけようと腕をぶんと振った。威嚇するように歯まで剥き出しにして。相当気が立っているようだ。
「なんなんだよ。とにかく渡すからね!」
ぼくは毛布を放り投げる。
「きみが死んだら薪井も悲しむから」
なにげなくそう言うと、彼は薪井という単語に反応したかのように体の動きを止めた。
「アアア……」
彼が初めてぼくを見た……気がした。
ぼくはもう一度呼びかけてみる。
「そうだよ。薪井だよ。薪井を助けに行くんでしょ」
その反応に誘われる形でこんな言葉が口をついて出る。
「明日一緒に行こう。元々ぼくも用があるんだ。あっちには」
「ウウ……」
わかっているのか、それともわかっていないのか。
そんなことはどちらでもいい。
ぼくは地面に落ちた毛布を拾い上げ、彼にもう一度差し出す。
彼はそれを受取ろうとはしないが、ぼくの顔をじっと眺めている。
「行こう」
結局毛布を受取ってはもらえなかったが、彼はぼくの後をついて歩きだした。
まだなにも決めていないうちから、言葉に出てしまった。
千路くんたちは見捨てたくせに、薪井だとすぐに追うのか。
なんて浅薄な人間なのだろう。どこからかそんな言葉が聞こえた気がした。
だけどそれでもなお、気持ちは軽くなる。
都合の良い後付けストーリーにすぎないとしても、少なくとも罪悪感や後悔は和らいだ。
たとえ助けられなくても行くのだ。
自分自身のために。
そう固く決意した夜だったが、寝て起きると、その決意は雪花のように儚く溶けて消えてしまっていた。
いつものことだ。
だがともかくは歩いて行くことに決めた。
決意なんてなくとも歩くことはできるのだから。
宿を出る前に、ざっと家探ししてから、有用そうな道具を拝借する。
子供の勉強机の中から、小学校の授業で使うような方位磁石を見つけることができた。これで大きく道を見失うことはないだろう。
これまで方位磁石なんて、ぐるぐる回したり、磁石を近づけて遊ぶ玩具にすぎなかったが、本来これは人類の偉大な発明品なのである。
もし生きて帰ることができたら、本屋にでも行ってみよう。生きていくために人類の遺産を使い潰さなければならないのだ。
あれこれととりとめのない考えを抱きながら、住宅街を進んでいく。
「アアア……」
彼が唸った。お前はさっきからなにをしているんだと非難するみたいに。
彼がそう思うのも無理はない。
荷物を置いてきてしまった先日の仮宿を、勘だけを頼りに探していたのだが、早速迷ってしまっていたからだ。
方位磁石はグーグルマップではないのだから仕方がない。
彼はそれを理解してくれず、いらいらとしているようだった。
まあ、単に腹が減っていただけかもしれないが、どっちにしても彼の要望に応えるためには荷物を見つけるのが先決なのだ。
敵のアジトがどれほど遠いのかわからない以上、食料なしでこの先を進んでいくのは無謀というものだ。ただでさえ無謀なのだから、これ以上無謀を重ねたくはない。
幸いなことに、ほどなくして、目的地が見つかった。窓ガラスが派手に割れていたからそれが目印になった。
先日、侵入する際に薪井がそこらにあったコンクリートブロックを使ってサッシが歪むほど入念に殴ったのだ。ストレスが溜まっていたのかもしれない。
荷物はそのまま残っていたので、まずは食事を取ることにした。
たくさんあると思っていた食料もわずか二日で半分以下にまで減ってしまっていた。二人でいくつか缶詰を開けて、エネルギーを補給する。彼も満足げに唸っている。
いつまでも「きみ」と呼び続けるわけにもいかないので、ぼくは彼に名前をつけることにした。
「じゃあ、さけちゃって呼ぶね」
「オオオ……」
ずっと気にはなっていたのだが、彼がフリースの下に着ているシャツに「鮭茶漬け」という文字が大きくプリントされていたのだ。
どういう経緯でこれを着る羽目になったのかはわからないが、ファッションセンスはぼくと互角といったところだろう。
「さけちゃ、そろそろ行こうか」
気に入らないのか、さけちゃはぼくの呼びかけには全然答えなかったが、部屋を出ていこうとするととりあえずついてきてはくれた。
いまいち信用ならないが、薪井の知り合いだから一応ついていってやるか、という態度だった。
それで十分だ。旅は道連れ世は情け。一人よりは二人の方がいい。




