崩壊前2
学校に着いてから、
クラスが違うので栗田とは廊下で別れ、3Aの教室へ入った。
比較的よくつるむ級友と二言三言挨拶を交わしてから自分の席に座る。
なにか会話に加わろうかとも考えたが、よくつるむといってもそれほど仲が良いわけでもないし、なにより喫緊の課題があった。
ぼくは栗田から借りたプリントを自分のプリントに一生懸命写し始めた。
真面目なクラスメイトに見られないように、周囲にアンテナを張りながら慎重に素早く手を動かしていく。
しかし、ちゃちなぼくのアンテナは無暗に電波を拾う。
「CDHD知ってる?」
「ゾンビのやつだろ?」
近くの席で男子二人が話していた。
意識はプリントから逸れて、彼らの会話の方へ向けられる。
「そうそう。ほとんど映画の世界の話だよな。エグいわー」
「な。日本に入ってきたらどうするよ」
「そりゃあ戦うよ」
野球部の彼はいたく好戦的なようだった。
「じゃあおれがゾンビになったらどうする?」
「悲しけどおれが成仏させてやるから安心しろ」
「結局殺すのかよ」
ぼくは思った。
ぼくがゾンビになったとして――別に殺してくれても構わないが――悲しんでくれる人は何人いるだろうか。親と、多分栗田と、まあもう何人かは線香くらいはあげてくれるだろうけど。
……あとは?
――予鈴が鳴った。それ以上考えてはいけない、とでも告げるように。
あと数分経ったら朝礼が始まってしまう。
プリント写しは思いのほかはかどらない。
二問飛ばしで部分的に写していって、とりあえず全体的に手を付けた感を出す方向にシフトしようか迷っていると、
「古池くんおはよう」
薪井樹里が声を掛けてきた。
シャーペンを持つ手が止まった。
薪井はその日も美しかった。
もちろん見た目もだが、なにより内面が光り輝いていたのだ。
あの頃のぼくには見えないものが見えていた。運命の赤い糸とかも。
クラス替えのプリントが配られたとき、彼女と同じクラスで、しかも隣の席であるとわかったときは天にも昇るような心地がしたものだ。
そしてそれ以来、降りてこられてもいない。
「おはよう!」
自分から出たとは思えないほど明るい声だった。それから、挨拶だけで終わらせたくないと必死に考えて話を振った。
「あのさ、薪井はゾンビのニュース知ってる?」
明らかに話題のチョイスは間違っていたが、ほかになにも出てこなかったのだ。
「ちょうどさっきまで話してた。あれってひどいよね」
「ひどい?」
「ウイルスに感染したら、会話もできなくなっちゃうんでしょ。家族がそうなったら辛いなあって」
「ああ、なるほど。……だよね」
ぼくはうんうんと頷く。
薪井が男女両方から人気がある理由を再確認できた。やはりこの子はほかのクラスメイトとは違う。
ぼくは薪井に気に入られたくて、話を合わせることにした。
「ゾンビって言い方も良くないよね。相手は人間なのにさ」
「そうだよね。自分の家族がそんな風に呼ばれたらいやだもん」
「だよね。ふつうまずは家族の顔が浮かぶよ」
そんな軽薄な受け答えにさえ、薪井は頷いて、
「じゃあ、古池くんちはみんな仲良いの?」
と訊ねてきた。
「え?」
不意打ちに面食らった。まさかぼくのプライベートに話が及ぶとは思っていなかった。
「古池くんはいつも穏やかだからそうなのかなって思ったの」
「あ、えーと、……うん。仲は良いと思うよ。薪井は?」
頭は真っ白だったがどうにかラリーを返す。
「うん、うちもそう。だから早く収まるといいね。この病気」
と薪井はやさしく微笑んだ。
――きっかけはこの中学校に入学して、最初の月に行われた林間学校だった。
普段とは異なる環境に身を置き、知り合って間もないもの同士による共同作業。
そこで新しい人間関係を構築してほしいという狙いが学校側にはあったのだと思うが、ぼくはまったく環境に適応できず、非常に不安定な状態にあった。
そんな人間に人間関係の構築などできるはずもなく、だれとも会話もせず、ひたすら日程を耐え忍ぶだけの地獄のような時間が続いた。
元々ひどい人見知りだったし、なまじ受験をしたせいで同じ小学校出身の子が周りにいなかったから、本当に辛かった。しだいに周りの生徒同士は打ち解けていったようで、そのことがよけいに孤独感を煽った。
林間学校の二日目の晩、広場でキャンプファイヤーをした。まず火が焚かれて、午前中に練習した「今日の日はさようなら」を歌ったあと、フォークダンスが始まったのだがその段には我慢の限界がきていて、ぼくは無断でその場を抜け出したのだった。
脱走というやつだ。
なにか考えがあったわけではない。気がついたら広場から少し離れた場所にあった汚いベンチに座って、泣きじゃくっていた。薄暗い街灯がチラチラと明滅して、心細くぼくを照らした。ぼくに近寄るのは羽虫と蚊だけだった。
脱走はほとんど無意識下の行動だったのだが、それでも頭の隅でいくらか後先を考えていたようで、すぐにもどれる程度の距離には留まっていた。けれども、
「やってしまった……」
ぼくは途方にくれた。衝動的犯罪のあとお決まりの、まさか自分がこんなことをしでかすとは思わなかった、という驚きから始まり、見つかったら叱られる、という恐怖が次には押し寄せてきた。
「うっうっ……」
震えながら嗚咽を漏らしていたが、五分くらいすると早くも涙が枯れて、そうすると頭が冷えてきた。
しおりでは、キャンプファイヤーが終わるまでもうしばらくあったはずだ。騒ぎになる前にこそっと戻ってなかったことにしよう。そう開き直ってベンチから立ち上がろうとしたときだった。
「あのー?」
「――っ!」
ぼくは驚いてそのまま飛び上がってしまった。
「ごめんなさい、もうしません!」
「いや、わたし先生じゃないよ」
「え?」
恐る恐る振り返ると、ぼくとそんなに背丈の変わらない女の子が立っていた。
顔に覚えがないから同じクラスではないはずだが、学校指定の体操着を着ていたので同級生だとわかった。
「さっきこっちの方に出て行ったのが見えたから、一応探しに来たんだよ。その、すごい顔してたから」
「……」
ぼくは目まぐるしく頭をはたらかせた。こんなに親切な人がいるだろうか。まさか脱走者を刺激しないように先生に遣わされたネゴシエーターなのでは?
「体調大丈夫? 辛いなら先生に言って抜けたほうがいいよ」
その子は心配そうにぼくの顔を覗き込んだ。ぼくはのけぞった。
彼女が、あまりにも綺麗な瞳をしていたからだ。
「大丈夫。帰る」
どぎまぎしてカタコトな返事になった。暗闇に隠されてはいたが、顔は真っ赤になってしまっていて、そちらに血液を取られたせいか、頭がぼーとしてさっきの勘ぐりはすっかり霧消していた。
「ならよかった。そろそろダンス終わりそうだからね。いないって騒ぎになったら大変でしょ」
「き、き、きみは大丈夫なの?」
「トイレ行ってくるって言って抜けてきた。えっと、ごめん、なにくん?」
「こ、古池です」
「古池くんもトイレ行ってたってことにすればいいよ」
「わ、わかった」
大人に諭される幼稚園児みたいな気分だった。だが恥ずかしさよりも、ありがたさの方がはるかに勝っていた。
たとえ見て見ぬふりはできないという義務感からでも、彼女は自分のことを気にかけてくれた。本人にとっては無用なリスクを冒してまで。
おかげで、なにごともなかったかのように、ぼくはキャンプファイヤーにもどることができた。幸か不幸か、だれもぼくのことは気にしていなかったようだった。
そしてなにごともなかったかのように、それ以降の二年間は過ぎていった。
恩を返すでもなく、ただ廊下ですれ違った際に、たまに短い言葉を交わすといった程度のつき合いがあっただけ。
それだって彼女の親切心とコミュニケーション能力によってもたらされたものでしかなかった。
だけど、身の程知らずにも、ぼくはひそかに彼女に憧れていた。
宿題なんてどうでもよくなるくらいに。




