崩壊前1
あの頃、ぼくは人生について悩んでいた。
もちろん、物心ついてこの方、悩んでいない期間なんて存在しないのだが、
それでも質と量は変動していく。
あの頃の悩みはそう、いまよりもう少しだけたわいないものだった。
――あの日の朝、ぼくはバス停のベンチに座って、頭を抱えていた。
日差しが全身を貫き、体はずっしり重く感じられた。
時は五月八日。
いつまでも続くかと思われた連休はあっけなく終わってしまった。
前評判では、無限にあるような口ぶりだったのに。
気が付くと、未着手の宿題だけが手元に残り、時間は尽きていた。
どう言い訳するかについて頭を巡らせていると、
「古池、おはよう」
後ろから肩をポンと叩かれた。
振り返ると、栗田守が立っていた。
ぼくは私立の中学校に通っていたのだが、栗田はそこの同級生で、家も近かった。
「おはよう」
ぼくは声を絞り出す。
「なんだよ。休み明けから暗いなあ」
ぼくの暗澹たる様子を見て栗田は笑った。
栗田は快活な性格で、ぼくとは正反対だったが、だからこそ釣り合いが取れていたのかもしれない。
「宿題が終わってないんだよ。テスト勉強もしてない」
「おいおい、あんだけ休みがあったのになにしてたんだよ」
「わからん。気付いたら今日になってた」
「ばかだなあ」
「そうだね。それにもさっき気付いたよ」
と、たわいもない会話をしてから、宿題を写させてもらう約束を取りつけた。
持つべきものは友達だ。
「――そういやニュース見たか? あれやばいだろ」
栗田は突然話題を変えた。
お前の宿題なんてどうでもいい。早く話したくて仕方がないといった感じだった。
「え、なんのニュース?」
「だからゾンビだよ。ゾンビ」
「ごめん、知らない」
栗田は、話が通じないなあ、というように肩をすくめて、
「海外で病気が流行ってるんだって。なんでもそれに罹ると人間がゾンビみたいになるんだと」
「なにそれ?」
ぼくは鼻で笑った。人間がゾンビみたいになる? なに馬鹿なことを言っているんだ。
しかし栗田は真顔で続ける。
「本当に知らないのかよ。昨日からずっとニュースでやってただろ」
「ぼくニュースは見ないんだよ。テレビも」
テレビは観ていないし、スマホもゲーム機としてしか使っていなかった。
情報化社会では常に取捨選択を行う必要があり、ぼくにとって世間の出来事は残念ながら捨の方に入っていた。
「現代人かよほんとに」
栗田は本当に驚いているようだった。ちょっと引いてもいた。
「調べてみるよ」
信じてはいなかったけれど、栗田があまりにも真剣なので、軽く辺りを確認してからスマホを鞄から取り出した。
校則では「通学中及び学校内において、家族への連絡以外での携帯電話の使用を禁止とする」とされていた。
だれが見ているかわからない。
家族への連絡を装いつつ、「ゾンビ ニュース」で検索すると、検索結果の上部に「CDHD、中国全土でさらに拡大の恐れ」とか「隠ぺい体質と遅すぎる対策に非難の声」とかいうトピックがいくつも表示された。
「これ?」
画面を見せると栗田は頷いた。
「それだよ、それ」
「ちょっと説明してよ」
ぼくは鼻息を荒くする。
これが本当の話だとしたらとんでもないことだ。
「待って、バスが来た」
定刻通りにバスがやってきた。
乗車リーダーに通学用の定期をかざして乗り込む。
少しだけ混んでいるが座れないほどではない。後ろの方の二人用シートに陣取って、ニュースの解説をさせた。
どうやら栗田もちゃんと理解しているわけではないようだったが、スマホで得た情報と合わせて概要は掴めた。
・中国で新種の奇病が発見された。だが中国はその事実をしばらく隠ぺいしていた。
・血液を介して感染は広まり、感染すると潜伏期間を経た後発症する。
・感染者は欲求や攻撃的な衝動を抑えられなくなり、周囲の生き物を襲い摂食しようとする。
・感染は中国周辺のアジア諸国やアメリカでも確認されている。
・治療法は見つかっていない。
「……これゾンビだね」
「だからそう言ったじゃん!」
新聞社や出版社などが発信元のネットニュースでは「ゾンビ」という単語は慎まれているようだったが、
まとめサイトやSNSでは多く見受けられた。
ぼくはなにも考えずにその言葉を受け入れ、そして使っていた。
映画やゲームとは違って現実に被害者が大勢いて、しかも自分の世界と地続きであるということを理解できていなかったのだ。
新しく作られたゾンビのテーマパークにでも入園したような気分でいた。
ゾンビが人間のテーマパークに入園したといった方が実情に近かったのだけれど。




