崩壊前12
「――それ隠して!」
気がつくとぼくは短くそう叫んでいた。
「え?」
母は目を丸くする。
ぼくはジャージの裾を元にもどさせた。
「きっと前からあった傷だよ。人に誤解されるから」
ぼくはそう諭した。自分自身を説得するみたいに。
仮に噛まれていたとして、さっきの鼠がCDHDの変異種に感染していたという証拠はない。
たとえ感染していたとしても、それが人へ感染するとは判明していない。
そういう話だったじゃないか。
「でも、お医者さんに診てもらわないと」
「診せたら隔離されるんじゃない?」
「それは、そうかもしれないけど、放っておくわけにもいかないでしょう」
母は呑気にもそんなことを言った。
「とにかくそれはあとで考えよう」
ずっとこそこそと話していてはまずい。
母の言う通りかもしれないし、そうではないのかもしれない。どちらが正解なのかぼくにもわからなかった。ただたしかにぼくが感じていたことは、一人になりたくないということだった。
治るならいますぐ医者に診せたいけど、治らないならきっとぼくと母とは引き離される。そんなのはいやだった。
キィーンと耳を突き刺すようなノイズがした。
ノイズは公民館に備えつけられたスピーカーから発せられた音だった。
ノイズのあとに、放送の始まりを告げる短い音声が流れた。
公民館から離れていることもあって音量は十分とは言い難かったが、水を打ったように喧騒が止み、その場のだれもがそちらへと耳を傾けた。
「――流湖市の職員です」
若い女性の声だった。少し声が震えているのがわかった。
「――流湖公民館に避難されているみなさん、大変ご迷惑をおかけしております」
一拍おいてからアナウンスは続く。
「――現在現場に待機している市の職員や自衛隊の方の数が少なく、事態を把握し切れておりません。現在館内の様子は落ち着いております
ですがいまだ発生した鼠をすべて駆除できてはおりませんので、まだ館内には戻らないようお願いいたします」
あちこちでブーイングが上がった。避難所に対する不満が堰を切って溢れだしたのかもしれなかった。
「うるさい! アナスンスが聞こえない!」
だれがが怒鳴ったが、その怒鳴り声に対してだれかが怒鳴り返して際限がなくなった。
ぼくは耳をそばだててアナウンスの音声に集中した。
「――さきほど、市の対策本部と自衛隊に応援の要請をいたしました。もうしばらくいたしましたら、医療チームや救急車が到着する予定ですので、落ち着いてその場で待機するようお願いいたします。
到着いたしましたら追って連絡させていただきます。ご協力よろしくお願いいたします」
そこで放送は終わった。
「ひとまずここで待機ですね」
米田のおじさんが言った。
「そうですね。ところで全員ここにいますよね」
町内会長は町内のメンバーの点呼をとる。
それも済むと、仲のよい人同士で集まってめいめい時間潰しに雑談をしていた。
「五月とはいえ夜は冷えるね」
「世の中どうなるんだろう」
「一杯飲みたいなあ」
いつもなら母もこの輪の中に加わるのだが、このときは顔色が悪くその場に座り込むほどだった。周りから「大丈夫ですか」と気遣いの声がかかる。
母はこのときも父に電話をかけようとしていたが、やはり繋がらないようだ。
ぼくはどうしていいのか見当もつかず、母の隣に座った。
「大丈夫?」
と聞いても「大丈夫よ」と力のない相槌が返ってくるだけだった。
一〇分経ってもニ〇分経っても新しい放送はなく、
潮目が変わったのはそれからさらに一〇分ほどしてからで、その変化を告げたのは救急車のサイレンや行政からの放送ではなく、遠くから聞こえてきた悲鳴だった。
ぼくたち一様に身体を硬直させた。
悲鳴が多すぎる夜だった。
みんな顔を見合わせて、
「ここにいてはまずいんじゃないか」
というようなことを話し始めた。
「――すみません、ちょっと」
近くのグループから人のよさそうな青年がこちらへ小走りでやってきた。。
「さっきの悲鳴なんですけど、公民館の方で男の人が泡吹いて倒れて意識がなくなったらしいんです」
青年は一度言葉を切ってから、
「しかもその倒れた人というのがですね。さっきの鼠に噛まれていたようで……」
どうやらグループからグループへと伝言ゲームのようにして、情報が伝わっているようだった。
「それじゃあぼくはほかの人たちにも伝えてきます!」
青年はそれだけ言うと、またほかのグループへと走っていった。
「そんな、ではやはり鼠から感染するのか……」
だれからともなく嘆息が漏れた。
「一応訊いておきますが、この中で噛まれた人はいますか」
町内会長が、促すように小さく手を挙げる真似をした。
次の瞬間、ぼくは目を剥いた。
横で母が手を挙げていたからだ。
「母さん!」
ぼくは大きな声を出したが、
「道夫、嘘ついても仕方がないでしょ」
母は状況をわかっているのか、そうでないのか、ぼくをたしなめた。普段と変わらないいつもの母だった。
周りはどよめいたが、町内会長は冷静に、
「傷を見せてもらえますか」
と言った。
母はジャージの裾を上げて、さきほどの傷を見せた。
「小さい傷ですね。これはたしかに噛まれた傷なんですか?」
「ええ……。公民館の中で一度足が痛んで、そのときは興奮していたからあまり感じなかったんですけど、あとで見てみたらこんな傷ができていて……」
「体調に異常はありますか?」
「少し頭痛がしますけど、わたしは元々頭痛持ちなので……」
「うーむ、助けが来たらすぐに診てもらわないとですね」
そんな益体もないやり取りの間、ぼくはずっと腹を立てていた。
なんで本当のことを言ったんだ。そう怒鳴りつけたかった。頭ではぼくが間違っているのはわかっていたが、感情は矛盾していて怒りを抑えることができなかった。
町内会にこれだけの人数がいてなんでよりによって母だけが噛まれたのか、その理不尽さにも納得がいかなかった。
そして多分ぼくが一番怒っていたのはぼく自身に対してだった。
ぼくが落ち着いて母の手を引いて逃げていたら母は噛まれずにすんだかもしれない!
そこまで考えたとき、ぼくははたと気がついた。
――母が噛まれたのは本当にぜんぶぼくのせいだったのかもしれない。
周りにぼくが見当たらなかった場合、母はぼくを置いて逃げようとはしなかったはずだ。
きっとその場に留まってぼくを探そうとしたに違いない。
ぼくを探していて、逃げ遅れ、それでも見つからず町内会の人たちに半ば強制的に外に連れ出されたのではないだろうか。
数秒前まで頭にのぼっていた血がスゥーと引いた。
ぼくは母の顔を見た。目が合って、
「大丈夫だから」
と母は言った。




