第八話 ラ・リシェール
次の日、朝日が昇る浜辺で目を覚ましたぼくたちは、砂浜で眠ってしまったせいで、服のあちこちに砂がついていた。服の砂ははたけば、ぱらぱらと落ちたけど、髪の間に入り込んだ砂は上手く取れない。困っていると、お姉ちゃんが海の家へ走って言った。
海の家では、今日も営業のため、白髪のおじいさんが支度に追われていた。お姉ちゃんが「シャワーを貸して下さい」とお願いすると、おじいさんは怪訝そうにぼくたちを見た。だけど、おじいさんは仏頂面で「あっちだ、勝手に使え」と顎でシャワールームの方を差した。
四日ぶりのお風呂だった。シャワールームは、浜辺に建てられた簡易の更衣室の隅にあって、ぼくたちはそれぞれ更衣室に入ってシャワーを浴びた。水はとても冷たかったけど、久しぶりでとても気持ちが良かった。
シャワーを終えて、おじいさんにお礼を言うと、おじいさんは、また仏頂面で「ああ」とだけ答えてよこした。
ぼくとお姉ちゃんは、コンビニで朝ごはんを仕入れてから、それを片手に、小西さんのお店探しを再開した。
太陽はすっかり空の真上に昇り、今日もギラギラと真夏の日差しを、地上に降らせていた。暑くて汗が滴る。アブラ蝉の声が、こんなに煩いと思ったのは、生まれて初めてだった。
お昼近くになって、ぼくたちはクルーザーのハーバーにたどり着いていた。はしけが海に浮かび、道を作るハーバーには、真っ白な帆をかかげるヨットや、大きくてお金持ちのものと思われるクルーザーがたくさん停泊していた。ハーバーに入って、人を探していると、奥からオレンジ色のライフジャケットを着込んだ、大学生の人たちが二人やって来た。
すかさずお姉ちゃんは駆け寄ると、小西さんのお店を尋ねる。
「ラ・リシェール? なあ、聞いたことあるか?」
先頭を歩いてきたお兄さんが、隣にいた長髪のお兄さんに尋ねた。ぼくはぼんやりと辺りのヨットを眺めながら、また空振りなんだろうと、思っていた。すると、長髪のお兄さんの口から意外な答えが返ってきた。
「ああ、知ってるよ。昔、ヨット部の先輩に連れて行ってもらったことがある。フランス料理屋で、値段が安い割りに美味いんだ」
「あの、何処にあるか知ってますか?」
お姉ちゃんが聞くと、お兄さんは顎をさすりながら、記憶を辿った。
「二年前のことだからなあ。えっと、確か桜ヶ浜の団地の中にあったと思うよ。君たち、そこへご飯食べに行くの?」
「あ、いえそうじゃなくて、その」
お姉ちゃんが答えに窮していると、お兄さんはすこし笑ってから。
「いや、別にいいんだけどさ。何か書くもの持ってる? 道順書いてやるよ」と言った。
お姉ちゃんはポシェットからノートと鉛筆を取り出した。桜ヶ浜へ来るために、ヒッチハイクの時に使ったあのノートだ。
お兄さんは、ノートと鉛筆を受け取ると、すらすらと地図を書いた。
「はい、出来た。これから、歩いていくの? ちょっと遠いよ」
お兄さんはノートを返しながら、言った。お姉ちゃんはお礼を述べてノートを受け取ると、「大丈夫です」と言い切った。
お兄さんたちに見送られて、ハーバーを出ると、ぼくたちはお兄さんの書いてくれた地図を片手に「ラ・リシェール」を目指した。
お店があるのは、桜ヶ浜からすこし離れたところにある丘の、小さな団地だった。お兄さんが「ちょっと遠いよ」と言ったとおり、ぼくたちが団地に着いたときには、もう夕暮れ時になっていた。
丘を登りつめると、閑静な団地の隅に、眼下を見下ろせる小さな展望台があった。展望台に立つと、桜ヶ浜の全景が一望できる。桜ヶ浜は弓なりになった海岸で、浜一つ一つが、海水浴場として開いている。海のほうをみると、太平洋らしい島一つない大海原が広がっていて、遠く水平線が臨めた。
展望台で少し休憩を取ったぼくたちは、住宅街を抜けて目的の「ラ・リシェール」を目指した。地図によれば、お店は団地の丁度一番奥のところにある。
そして、ようやくの思いで、小西さんのお店にたどり着いたぼくたちは、予想もしなかった事態にしばらくうろたえて、身動きが取れなかった。
お店は、他の民家とあまり変わらない大きさで、白壁とレンガ造りの塀、赤い屋根が特徴的だった。おそらく、一階はお店で、二階は住居だと思う。一言で言えば、雑誌で良く見るような、洒落たレストランといった風合いだった。
ところが、まだ閉店時間には早いはずなのに、お店には電気が灯っておらず、レンガ塀の傍に植えられた、生垣はちっとも手入れされておらず、雑草が伸び放題だった。さらに、郵便受けには、たくさんの手紙や新聞が差し込まれていて、今にも全部吐き出してしまいそうになっていた。そして、ぼくたちがうろたえる決定打となったのは、お店に張られた一枚の紙だった。
「長い間ご愛顧いただきありがとうございました。当店は諸事情により、閉店いたしますことを、お詫びいたします」
とその紙には、店長「小西明」の名前で、記されていた。
事態が飲み込めなかったお姉ちゃんは、ぼくたちの後ろを通って行った、買い物帰りの小母さんを呼び止めて、事の次第を尋ねた。
小母さんは、まるで世間話でもするかのように、ぼくたちに色々と教えてくれた。
小西さんがお店を閉めたのは、半年ほど前だった。もともと脱サラして「ラ・リシェール」をはじめた小西さんは、商売の才能がなかったのかもしれない、と小母さんは言った。「ラ・リシェール」は団地の奥のほうにあって、この店のことを知っている人以外、立ち寄る人も少なかった。料理の味はそこそこだったけれど、わざわざここまで食べに来る必要のあるほどではなかったらしい。しかし、小西さんはお客が少ないからといって、お店の広告を出すといった、宣伝を一切行わなかった。閉店する一年前くらいから、店の経営は傾いてしまい、材料を調達するほどのお金もなかったらしい。そして、小西さんは怪しげな金融会社に融資を受けた。そういう会社から借りたお金は、雪だるま式にどんどん利子がかさんでいき、気がつくと借金は、当初借りた金額の何倍にも膨れ上がっていた。連日のように、取立てにくる乱暴な人たちに、ますます客足は遠のき、そして半年前、入り口に「閉店」の旨を知らせる紙を貼り付けて、小西さんは妻と娘をつれて夜逃げしたのだそうだ。
「だからね、あたしたちも小西さんが何処へ行ったのか分からないのよ。噂では、熱海で一家心中したとか、海外へ逃げたとか、何処から出てきたか分からないような話ばっかりでね」
笑いながら話す小母さんの話に、真実味はなかったけど、お店の光景を見れば、小母さんが嘘を言っているわけでないことくらい分かる。でも、それはぼくたちにとって大問題だった。お母さんの居場所を知っているかもしれない手がかりが、糸が切れてしまうように、ぶつりと途絶えてしまったのだから。
小母さんは、夕飯の支度があるからと言って、そそくさと家のほうへ帰っていった。ぼくたちは、取り残されたみたいに、ぼーっとお店の前に立って途方に暮れた。陽は沈み、夜の帳が街を覆う頃、お姉ちゃんが「とにかく、ここを離れよう」と言ったので、ぼくたちはとぼとぼと団地を後にすることにした。
住宅街、家と家に囲まれた坂道を下っていくと、どの家からもご飯の匂いがしてくる。おいしそうなカレーの匂い。すこし焦げ付いた焼き魚。別の家では、庭先で花火をしていた。色とりどりの光と家族の談笑が聞こえてくる。
ぼくとお姉ちゃんは、疲れきった足取りで、それでも早くこの住宅街を抜け出たかった。そうしないと、胸が痛くて仕方がなかった。
ほんの数週間前。お父さんはちゃんとぼくたちの傍にいてくれて、この住宅街のどの家ともそれほど変わらない、普通の暮らしをしていたのだ。でも、たった一瞬ですべてが壊れてしまった。もしもこのままお母さんが見つからなければ、叔母さんの家を逃げ出したぼくたちに、帰る場所はない。10歳と6歳に、おとなほどの経済力もなければ、生活力もない。吹けば飛ぶような、ちっぽけな子どもなんだ。生きていくには、誰かの助けなくしては、どうしようもなかった。
ぼくたちは、口を一文字に結び、一言も言葉を交わさないまま、団地を降りた。広い通りに出て、真っ直ぐ桜ヶ浜駅へとむかう。目的があったわけじゃない。むしろ、目指す場所を失ったぼくたちは、当面どうするべきかが思いつかず、駅へ向かっていたのだ。
やっぱり、団地から駅までは遠かった。加えて、足取りが重かったため、駅にたどり着いた時には、丁度市電の最終電車が駅を出発していた。駅の電気が消えて、駅前は静かになってしまう。昨日、千鳥さんとここで別れたときには、まだ希望があった。だけど、いまはぼくたちの目指す道が真っ暗で、何も見えない状態だった。
とにかく、寝床を確保しよう。と、駅の構内を歩いていると、待合室に並ぶ三列のプラスチック椅子が目に止まった。すでに、酔っ払って最終電車に乗り遅れた小父さんが、いびきをかいている。ぼくたちもそれに倣って、今日はここで眠ることにした。
ごつごつした椅子に寝そべると、小父さんのお酒の匂いがつんと、匂ってきた。
「明日のことは明日考えよう」
お姉ちゃんは元気なくそう言った。それだけ、ぼくたちの疲労感は重く全身にのしかかっていた。前日よりも、疲れていたぼくは、吸い込まれるように眠りについた。
その日から、ぼくは毎日「明日は今日よりいい日でありますように」と祈るようになった。誰のためでなく、ぼくとお姉ちゃんのために。
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