第四話 吉村さん
次の日の朝は、快晴だった。目を覚ますと、太陽が山の裾から少し顔を出し始めているころで、始発の電車がやってくる30分前だった。ベンチから起き上がると、背中がこったみたいに痛い。昨夜聞こえた虫の音の代わりに、小鳥のさえずりが聞こえてくる。
お姉ちゃんは? と思って隣のベンチを見ると、お姉ちゃんの姿は見当たらなかった。まさか、置いていかれたのかもしれない、と思ったぼくはベンチから飛び降りて、待合室を飛び出した。すると、お姉ちゃんはホームで「うーん」と伸びをしていた。
ほっとして、ぼくはお姉ちゃんに近付く。
「おはよう、お姉ちゃん」
「おはよう。背中が痛いね。拓海も顔を洗ってきなよ」
お姉ちゃんはニコニコしながら言った。指差す方向には、小さなトイレがある。トイレは、汲み取り式なのか、すこし厭な臭いがする。備え付けの手洗いはすこし黄ばんでいたけど、蛇口をひねると冷たい水が飛び出してきた。それで顔を洗うと、すぐに目が覚める。
顔を洗い終えると、しっかり蛇口を閉めてからトイレを出て、お姉ちゃんのところへ駆け寄った。
「拓海、寝癖がついてるじゃない」
お姉ちゃんはポシェットから小さなピンク色のクシを取り出すと、ぼくの寝癖を撫で付けた。さて、これからどうしようか、と思っていると、次第にホームには人が集まり始めていた。始発で仕事へ向かう会社員の人たちだ。
ぼくたちは駅を出て、吉村さんの家へ向かうことにした。住所の書いてある封筒はお姉ちゃんが持っていたし、ぼくにはまだ難しい漢字は読めなかったから、ぼくはお姉ちゃんに手を引かれて付いていくしかなかった。
両方を田んぼと畦道にかこまれた、田園の一本道を歩いていく。さわさわと、青い稲が風に揺れて、道の端に植えられた木からは、ミンミン蝉の鳴く声が響く。周囲は民家もなくて、ひどく閑散としていたけど、空気はとても澄んでいて、青空を見上げながら胸いっぱい吸い込むと、とても美味しい。
不意にお姉ちゃんが振向いて。
「お腹すいてない?」と尋ねてきた。
確かに、ぼくたちは昨日の夜から何も食べてない。それに喉も渇いていた。
「うん、お腹すいた」
「じゃあ、あそこで何か買っていこうよ。お金なら、お小遣いの貯金全部持ってきたから」
お姉ちゃんの視線の先に、コンビニが見えた。あたりには、ほかに建物らしきものもないのに、田んぼの真ん中にぽつんとコンビニが建っている。
コンビニに入ると、冷房の涼しい風と一緒に、やる気のないアルバイトのお兄さんが「いらっしゃいませ」と、面倒くさそうに言った。お兄さんは、入ってきた客が二人の子どもであることに気がついて、すこし目を丸くした。制服を着た小学生の姉弟が、早朝にコンビニで朝ごはんを買う、という光景は大人の目から見れば、とても奇異に見えたのかもしれない。
ぼくとお姉ちゃんは、パンとジュースを買うと、お兄さんはレジからおつりを出しながら、ぼくたちを頭のてっぺんからつま先まで、品定めをするようにジロジロと見ていた。
お姉ちゃんは、そんな視線全然気にする様子もなく、おつりを受け取ると「行くよ」とぼくに声をかけて、コンビニを出て行った。慌ててぼくも、お姉ちゃんの後を追って、コンビニを後にした。
外は少しずつ気温が上がって、夏らしい空気に変わっていた。
「吉村さん家まで、歩いていくの?」
コンビニを出て、また田んぼの真ん中の道を歩いていきながら、お姉ちゃんに尋ねた。アスファルトの二車線道路なのに、車の往来は全くない。お姉ちゃんは、コンビニの袋をカシャカシャ言わせながら。
「ううん、バスに乗っていくの」
と、ぼくに言った。しばらく歩くと、看板と青いベンチだけの小さなバス停にたどり着いた。お姉ちゃんが時刻表を確かめると、バスが来るまで少し時間があった。
ベンチに座って、コンビニの袋からパンを取り出す。ぼくのパンは甘いイチゴのジャムが入ったやつだ。お姉ちゃんは、クリームパンだった。
「拓海は、ジャムパン大好きだね」
「うん。ぼく甘いもの好き。でも、歯ブラシ持ってきてないね」
「歯磨き嫌いなくせに」
と言って、お姉ちゃんは笑い出した。お姉ちゃんが声を立てて笑うのは、久しぶりに聞いた気がした。
ぼくは、歯磨きが大嫌いだった。面倒くさいし、歯磨き粉のミントが辛くて大嫌いだった。お父さんに甘い歯磨き粉を買って欲しいとねだったことがある。するとお父さんは笑って、「良薬口に苦し。ちゃんと歯を磨きたかったら、辛いのを我慢するんだ」と言われた。意味が全然分からなかった。お姉ちゃんに、どうしてお父さんはいつも辛いミントの歯磨き粉を使うのか、と尋ねると「あれはお父さんのこだわり。私だって甘い歯磨き粉買ってもらえなかったんだから、我慢しな」と言われてしまった。幼稚園のお泊り会で、ぼくだけ大人用の歯磨き粉を持ってきて、恥ずかしいような悔しいような想いがしたのを憶えている。
「お母さんのところへ行ったら、厭っていうくらい歯磨きしてやる」
と言いながら、お姉ちゃんはクリームパンを頬張った。ぼくは「歯磨き」の話題を出すんじゃなかったと、赤いジャムを見ながら、すこし後悔した。
ぼくたちが朝食を終える頃、遠く道が陽炎に霞むあたりから、バスがやってくる。それを見つけたお姉ちゃんは、手を上げてバスを止めた。フロントに「ワンマン」と書かれたバスは、ぼくたちのところまでやってくると、ブレーキ音をさせながら止まった。
バスの中には、腰の曲がったお婆ちゃんが一人乗っているだけで、ほかに乗客は誰もいなかった。運転手さんは、さっきのコンビニのお兄さんとは違い、ぼくたちを不思議そうに見ることもなく、無表情だった。ぼくたちが手ごろな席に腰掛けると、愛想のない声で「しゅっぱーつ」と言って、バスを走らせ始めた。
このバスは、乗客のお婆ちゃんくらい、お年寄りみたいで、走り始めるとエンジンの音が大きくて、がたがたと揺れるし、空調は壊れているのかとても暑かった。ぼくが、信号で止まったのを見計らって、窓を開けると、木々の匂いと一緒に車内へ風がそよそよと迷い込んできた。
バスは田園を駆け抜け、山へ入っていく。いつの間にか、お婆ちゃんと入れ替わりに、何人かの乗客が乗っていた。話し声をバックミュージックに、ぼくは車窓から外を眺めていた。蝉の鳴き声は、さっきよりもっと騒がしくなっていて、ときおり小鳥のさえずりと、小川の流れる音が聞こえてくる。
緑が青空に映える森を抜け、山を越えると、バスは人里へ入っていった。ぼくたちが住んでいた街よりも、高い建物はないし、田舎であることに変わりはなかったけど、家々の瓦が夏の日差しにぎらぎらと光っていた。バスが目的のバス停に無事到着して、ぼくとお姉ちゃんはお金を払ってバスを降りた。
バスがぼくたちを降ろして、またうるさいエンジンの音を立てながら、走り去っていった。
街は、どの家も白い土壁の塀に囲まれていて、普通の民家よりも、古い大きな日本家屋が立ち並んでいた。ぼくたちは、土塀で造られた日陰を選びながら、吉村さんの家を目指した。
汗をかきながら歩くこと10分。お姉ちゃんが近所の人たちに尋ねながら、ぼくたちはようやく、吉村さんの家にたどり着いた。
吉村さんの家は、丁度街の中心にあって、辺りの家々と同じような、土塀の日本家屋だった。広い庭には盆栽やら松ノ木やらが植えられ、その奥に鶏小屋があって、鶏の忙しない鳴き声が時々聞こえてくる。
「おや、どちらさんかな?」
小さな石造りの門扉をくぐって、敷地に入ったところで、庭にいた小父さんに声をかけられた。盆威の手入れをするためしゃがんでいたから、気がつかなかった。
「あの、私、遠野春香っていいます。寛子さん、いらっしゃいますか?」
「ああ、妻なら居間にいると思うよ。妻に何の用だい?」
吉村の小父さんは、珍客に不思議そうな顔を向けながらも、優しい口調で言った。お姉ちゃんが、簡単に事情を説明すると、小父さんはぼくたちを家に上げてくれた。
家の中は広くて、ぼくの家とは比べ物にならなかった。吉村の小母さんは、年齢よりも若く見える美人で、突然やって来たぼくたちを温かく迎えてくれて、冷たい麦茶を出してくれた。小母さんにもお姉ちゃんが事情を説明すると、お姉ちゃんと小母さんは奥の部屋へと行ってしまい、居間にはぼくと小父さんが残された。
お母さんと友達だったのは、小母さんのほうで、高校生からの付き合いだと言う。お母さんは大学を出て、お父さんと知り合って結婚した。一方小母さんは、一度離婚を経験して、吉村さんと結婚したのだそうだ。小父さんと小母さんには子どもがいなかったけど、幼いぼくの目から見ても二人はとても仲良が良く見えた。
吉村の小父さんは、農家をやっていて、ごつごつした手をしていた。今に残されたぼくに小父さんはお代わりの麦茶を注いでくれながら。
「お姉さんと二人で、ずいぶん遠くから来たんだね。疲れただろう?」
と、ぼくに言った。
「ううん。疲れてないよ。お姉ちゃんと一緒だから」
「そうか。まあ、ゆっくりしていきなさい。幸い家には僕と寛子しかいないからね」
小父さんはそう言うと、ぼくの頭をくしゃくしゃと撫でた。小父さんは笑うと、タバコで黄色くなった歯がのぞく。
「拓海くんは何か好きなこととかあるのかい?」
「本を読むのが好き。お父さんが買ってくれた、童話の本。お姉ちゃんは『子どもっぽい』って言うけど、面白いんだよ。小父さんは何が好き?」
「僕かい? そうだな、色々と好きなものがあるな。盆栽も好きだし、鶏も好きだし、小母さんのことも大好きだ。あと、野球も好きだな。これでも、高校球児で甲子園に行ったことがあるんだ。初戦敗退だったけどね」
小父さんが、椅子に腰掛けたまま、バットを振る真似をする。
「甲子園。お父さんも行ったことあるって言ってた」
「ほお、それは奇遇だな。是非、お父さんと話がしたいものだ」
そう言って小父さんは、ぼくがしょんぼりしているのに気がついた。それから、はっとなる。お父さんが死んだことは、お姉ちゃんがさっき、小父さんにも説明していた。
「あっ、いや、すまん」
しどろもどろしながら、小父さんは何とか取り繕おうとしていた。
「天国って寂しいところかな?」
ぼくが突然言ったので、小父さんは驚いていた。
「どうしてそう思うんだ?」
「ずっと前、叔父さんが言ってたんだ。死んでしまえば、独りぼっちになるって」
「そうだなぁ」
叔父さんはすこし考え込むように腕組みをして「うーん」と唸った。それからおもむろに口を開いた。
「その叔父さんも生きているんだろう? だったら、叔父さんも天国なんて見たことないんだ。もちろん、僕も拓海くんも天国が、どんなところか知らない。そりゃもう一人ぼっちで何もなくて、ものすごく寂しいところかもしれない。でも、違うかもしれない。それは、僕たちには到底分からないんだ」
「じゃあ小父さん。もしも、小父さんが天国へ行ったら、お父さんのお友達になってくれる?」
「ああ。お父さんは、お酒が好きかい?」
「うん。あまり呑まないけど、お父さんお酒大好きだって言ってたよ」
「そうか、だったら。いつか僕が、天国へ行ったら、お父さんとお酒を呑みながら、高校野球でも語り合うことにするか」
小父さんは内心ほっと胸を撫で下ろしながらも、ぼくにニッと笑ってもう一度バットを振る仕草をした。ぼくはそれを見ながら少しだけ笑った。
それから小父さんは時計を見て「そろそろ仕事に行ってこなきゃならんな」と行って、席を立った。小父さんが田んぼへ出かけて、ぼくが一人で居間にいると、吉村の小母さんとお姉ちゃんが戻ってきた。お姉ちゃんが何だか沈んだ顔をしていることに気がつく。
「あら、拓海くん独り? 小父さんは?」
吉村の小母さんがぼくに尋ねた。
「仕事に行くって、田んぼへ行ったよ。お姉ちゃん、お母さんのいるところ分かった?」
ぼくは小母さんに答えてから、小母さんの後ろに隠れるように立っていたお姉ちゃんに聞いた。一瞬、お姉ちゃんと小母さんの顔が曇ったことに、ぼくは気がつかなかった。
「そ、それがね、拓海。小母さんも、お母さんがお父さんと離婚してからは、手紙のやり取りもしてなくって、お母さんの居場所分からないんだって」
お姉ちゃんが沈んでいたのはそういう訳か、と何となくぼくは納得してしまった。
小母さんは、お昼ご飯を食べていきなさい、と言ってくれた。でも、お姉ちゃんはそれを丁重に断って、吉村さんの家をお暇することにした。小母さんは心配して、ぼくたちをバス停まで送ってくれた。途中、小父さんの田んぼで小父さんに「さよなら」を言う。
「おう、気をつけてな、二人とも」
と、小父さんは手足を田んぼにつけたまま、ぼくたちに言った。
小母さんに連れられ、バス停に着くと、丁度バスがやってくるところだった。
「元気だしてね、二人とも。お父さん亡くなって、今は心細いかもしれないけど、姉弟手を取り合っていくのよ。叔母さんによろしくね」
バスに乗り込むぼくたちに、小母さんは優しい声で言った。小母さんは、ぼくたちがバスに乗り込んで、通りの曲がり角を曲がるまでずっと、見送ってくれた。
ぼくはこっそり、小母さんがお母さんだったら良かったのにと思った。
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