第二話 春香の決意
それから二週間が過ぎた。
ぼくは、学校が終わって、一人で叔母さんの家へ帰った。お姉ちゃんはまだ帰っていないようだったけど、俊哉君と実夏ちゃんの靴は、玄関ホールに無造作に脱ぎ捨てられていた。ぼくはちゃんと靴を揃えて脱いだ後、二人の靴もきちんと揃えて、それから部屋へ向かった。きちんと制服を着替えておかなきゃ、お姉ちゃんに叱られる。
階段を上がって、部屋の前まで来て、部屋の中からひそひそ場なしが聞こえてくるのに気が付いた。中に、俊哉君と実夏ちゃんがいるんだ。ぼくは、「だだいま」と言いながら、部屋のドアを開けた。
俊哉君と実夏ちゃんは、部屋の隅にいて何かをしていた。
「なんだ、帰ってきちゃったのか」
俊哉君が、つまらなさそうにぼくに言った。不意に、俊哉君と実夏ちゃんの間から、紫色の布と、乳白色の小さな壷が見えた。
「何してるの? 俊哉君、実夏ちゃん」
「何って、お前の親父見てるの。実夏が見たいって言ったんだ、いいだろ?」
俊哉君はニヤニヤしながらぼくに言った。良くみると、俊哉君たちが触っているのは、お父さんの骨壷だった。二人は、無造作に桐の箱を開けて、中に入ってるお父さんの骨壷から、お父さんの骨を取り出そうとしていた。
「ダメだよ、二人とも」
ぼくは慌てて二人を止めようとした。手を伸ばして、骨壷を開く実夏ちゃんから、それを奪い取ろうとしたのだけど、俊哉君がぼくの腕を掴んで止めた。
「いいじゃん、減るものでもないんだし。俺、人間の骨って見てみたかったんだ」
「ダメだよ、ダメっ。実夏ちゃんやめて。お姉ちゃんが言ってたんだ。お父さんはこの中で、眠ってるんだ。だから、開けちゃダメだって」
ぼくは必死に手を伸ばそうとしたけど、俊哉君の力はずっと強くて、ぼくじゃ全然相手にならなかった。実夏ちゃんは、ニコニコしながら、骨壷の中に手を突っ込んだ。そして、お父さんの白い骨を取り出すと、小首をかしげた。
「アメみたい」と、実夏ちゃんは言いながら、それを食べようとした。
ぼくは慌てて、俊哉君の腕を振り解き、実夏ちゃんの方へ駆け寄った。無理矢理実夏ちゃんの手から、お父さんの骨と骨壷を取り返した。
実夏ちゃんは突然、骨壷を取られて、ビックリしたのか泣き始めた。
「拓っくんが、とったぁ」
実夏ちゃんの甲高い鳴き声は耳にキンキンする。ぼくは必死で骨壷を抱きしめて、小さなお父さんの骨を中に納めた。
「何するんだよっ」
俊哉君が、ぼくに近付いてきて思いっきりぼくの頭にゲンコツを落とした。思わずぼくは、骨壷を落としてしまって、床中に、骨が散らばった。とても、惨めに思えた。
気が付いたら、ぼくは俊哉君の襟首に掴みかかって、俊哉君の顔にパンチをお見舞いしていた。ぼくのちっぽけな拳じゃ、俊哉君は全然痛くないみたいだったけど、真っ赤に顔を怒らせて、俊哉君は逆にぼくの胸座を掴んできた。
ぼくは必死に噛み付こうとしたけど、年上の俊哉君には腕の長さも、足の長さも、力も、歴然の差だった。ぼくは、すぐにいっぱい殴られて、泣き始めた。実夏ちゃんの鳴き声と、僕の泣き声が二重奏になって、部屋いっぱいに反響した。
「拓海、何やってるの?」
突然部屋の入り口で声がした。そこには、赤いランドセルを背負ったお姉ちゃんが立っていた。泣き叫ぶぼくと、実夏ちゃん、顔を真っ赤にして睨みつける俊哉君、散らばったお父さんの骨。
「お姉ちゃんっ」
ぼくはしゃくりあげながら、お姉ちゃんに駆け寄ってしがみついた。
「俊哉君、拓海に何したのっ!?」
ぼくを抱きとめると、キッと俊哉君を睨みつけて、お姉ちゃんが言った。いつも、ぼくを助けに来てくれるときのお姉ちゃんの顔だ。お姉ちゃんに睨まれると、大抵の男の子はそれだけですくむ。
「何って、拓海が実夏から、骨壷取ったから、止めさせようとしただけだよ」
「骨壷って、俊哉君骨壷開けたのっ!?」
「いいじゃん、骨くらい。ちょっと見てみたかっただけなんだよ。それなのに、拓海がダメだって無理矢理、実夏から骨壷取っちゃうから、実夏が泣き出して。拓海が悪いんだ」
「ふざけんなっ。お父さんは実夏ちゃんや俊哉君のオモチャじゃないんだからっ」
お姉ちゃんはぼくから離れると、つかつかと俊哉くんの前へ歩み出た。そして、少しバツが悪そうな顔をする俊哉君の頬を思いっきり引っぱたいた。
「痛てぇな。このっ」
俊哉君はまた顔を真っ赤にして、お姉ちゃんの前髪を引っ張った。女の子に殴られたということが、俊哉君のプライドに傷をつけたんだろう。でも、お姉ちゃんはもう一枚上手だった。俊哉君の顔面目掛けて、お姉ちゃんはパンチを食らわせた。俊哉君は鼻を押さえて、お姉ちゃんの前髪から手を離した。俊哉君の鼻から血がポタポタと落ちてきた。
「今度、拓海をいじめたり、お父さんに近付いたら、鼻血だけじゃ済まさないからねっ」
留めの一言に、俊哉君は負けを悟ったのか、鼻を押さえたまま、泣き叫ぶ実夏ちゃんを連れて部屋を出て行った。部屋を去り際、俊哉君は悪者の捨て台詞みたいに言った。
「拓海が散らかしたんだ。汚いからソレ、片付けとけよ」
指差すその先は、お父さんの骨を差していた。
ぼくは、俊哉君たちが出て行った後も、しばらく泣き続けていた。お姉ちゃんは、ぼくをそっと抱きしめてくれた。お姉ちゃんの暖かさが、ぼくを落ち着かせてくれた。
「女の子の前髪引っ張るなんて、最低だね、俊哉君」
泣き止んだぼくに、お姉ちゃんが苦笑しながら言った。
「ごめんなさい。ぼく、骨壷落っことしちゃって」
「謝んないで、拓海が悪いんじゃなくて、俊哉君が悪いんだから。ソレより、はやくお父さんを元に戻そう」
ぼくは、「うん」と頷いた。
制服も着替えずに、お父さんの骨をちゃんと元に戻し終えた頃、叔父さんと叔母さんが同時に家へ帰ってきた。兄妹は、すぐに両親に告げ口したのだろう。俊哉君と同じように、顔を真っ赤にした叔父さんがぼく達の部屋へ飛び込んできた。
叔父さんは何も言わずに、ぼくをゲンコツした。俊哉君のゲンコツより痛くて、折角泣きやんだぼくの涙腺がまた緩む。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
何に謝ってるのか、ぼく自身にも良く分からなかったけど、ただひたすら、叔父さんに謝った。慌ててお姉ちゃんが、ぼくと叔父さんの間に割って入った。叔父さんはお姉ちゃんにもゲンコツしようとした。でも、お姉ちゃんは「待って、叔父さん」と言って、振り下ろされる拳を止めた。
お姉ちゃんは、ぼくから聞いた事情を必死で叔父さんに話した。どうやら、兄妹が叔父さんに話した状況と、お姉ちゃんのはなす事情には食い違いがあるみたいだった。それでいて、お姉ちゃんの話には、兄妹の話にはない、真実味があった。
叔父さんは、お姉ちゃんの話が概ね真実だと悟り、また俊哉君と同じように、バツの悪そうに部屋から出て行った。入れ替わりに、叔母さんが入ってくる。
「ごめんなさいね、あの人、頭に血が上ると見境ないから。痛かったでしょう、拓海君」
叔父さんの代わりに謝った叔母さんは、「夕飯、食べるでしょ?」と尋ねた。
「後で、拓海が泣き止んだら、行きます。私達の分、残しておいてくれませんか?」
お姉ちゃんは、ゲンコツで殴られたぼくの頭を撫でながら言った。叔母さんは、「あら、そう」と、素っ気無く言ってから、部屋を出て行った。
ぼくの涙腺はなかなか締まらなくて、電気もつけない暗がりの部屋でベッドに包まって泣き続けた。お姉ちゃんは、ずっと何も言わず、ぼくの傍に座っていた。
いつのまにか、ぼくは眠っていて、夢を見ていた。
お父さんが笑っていて、お姉ちゃんが少し怒っていて、ぼくたちは車で何処かへ出かけていた。日差しの穏やかな季節だった。きっと、お父さんが言った冗談が、お姉ちゃんを怒らせてしまったんだ。
「お父さんは、デリカシーがないのっ!?」
「なんだ、春香、デリカシーなんて、ずいぶん難しい言葉知ってるじゃないか」
そういうやり取りがぼくは好きだった。やがて、車は目的地について、ぼくたちは車を降りる。緑の草がサラサラと揺れる野原。空は真っ青で、雲がところどころ羊のような形で浮いている。遠くには森が見え、森の手前には、ラベンダー畑が広がっていた。
目を凝らすと、ラベンダー畑の真ん中で、白いワンピースを着た女の人が、ぼくたちに手を振っていた。
あれは誰? ぼくがお父さんに尋ねると、お父さんは不思議そうに失笑した。
「拓海、何を言ってるんだ、お母さんじゃないか。今日は、お母さんに会いに行こうって、ここまで来たんだろ。ほら、春香、拓海、お母さんが待ってるぞ、行ってこい」
お母さん、あれが?
夢はそこまでで覚めた。お母さんの顔は遠くで全然見えなかったけど、それはとても不思議な気がした。これまで、夢に一度でも、お母さんが出てきたことがなかったからだ。
「拓海、目が覚めた?」
お姉ちゃんはぼくの傍にずっといてくれた。ぼくは半身を起こして目をこすりながら。
「お姉ちゃん。お腹すいた」と、呟いた。
「うん、そうだね。叔母さんが夕飯残しておいてくれてるから、下へ降りよう」
お姉ちゃんは苦笑しながら言った。
ぼくはお姉ちゃんに手を引かれながら、階下に降りた。ぼくはずいぶん眠っていたみたいで、周りはとても静かだった。階段を降りきる頃、リビングにだけ明かりがともっていることに気が付いた。中から叔父さんと叔母さんの声がする。
「お姉ちゃん」
お姉ちゃんは「しぃ! 静かに」と、人差し指を口に当ててぼくに指示をした。ぼくは慌てて両手で口許を押さえた。
「だから、俺はあの子らを引き取るのは反対だったんだ」
叔父さんの声だ。ひどく怒っているみたいだった。
「そんなこと言ったって、春香ちゃんも拓海くんも小さいんだし、私たちが引き取るしかなかったじゃない」
今度は叔母さんの声。
「あの子らには、母親だっているだろ。消息なんて、探偵にでも調べさせれば良いじゃないか。それがダメなら、母親側の親戚に預ければ良かったんだ。大体、あの義兄さんの子だぞ」
「だけど、あの子らを引き取らなかったら、お兄さんの遺産はもらえないのよ。我慢しなくちゃ。俊哉だって、実夏だって、これから高校へ行って、大学へ行ってどれだけのお金がかかると思ってるの?」
「そりゃ、分かってるけどさ、だからってあいつらの世話は、真っ平ごめんだ。他所の子は他所の子。うちの子ほど可愛くもなけりゃ、ただのお荷物だ」
「そうよねぇ。なんで、お兄さん、あんなお荷物残して、死んじゃったのかしら。死んだ人を悪く言いたくないけど、はっきり言って迷惑よね」
扉を隔てて聞こえてくる声は、ぼくたちに少なからずショックを与えた。遺産とか、良く分からなかったけど、「お荷物」「迷惑」という言葉の意味くらい、ぼくたちにも良く分かった。
お姉ちゃんの手が、お父さんが死んだあの日と同じように、震えていた。ぼくは下からそっとお姉ちゃんの顔をのぞいた。
怒ってるの? 焦点の合わない瞳で、お姉ちゃんはリビングのドアを見つめていた。
「お姉ちゃん」
ぼくは小声で言った。お姉ちゃんは我に返ったみたいに、ぼくの方を見た。
「行こう、拓海」
お姉ちゃんはそう言うと、踵を返して、足音を立てないように慎重に二階の部屋へ戻った。ぼくもお姉ちゃんも、何を言ったらいいのか分からなくて、真っ暗な部屋の中で、ぼんやりとしていた。
お腹がすいているはずなのに、それさえ口に出すのが憚れるような、重い空気だった。
それから、たっぷり二時間は沈黙が部屋を支配した。ぼくはゲンコツでちょっと痛む頭をさすってみた。二度もゲンコツを食らったのだ。お父さんはどんなに怒っても、絶対に暴力を振るわなかった。
「悪いことをしたっていうことを、痛みで覚えさせるんじゃなくて、心で覚えて欲しいんだ」
お父さんは、いつもそう言っていた。だから、姉弟喧嘩したときだって、いつも公平にしかってくれた。どうして悪いのか、何が良くなかったのか、ぼくたちが納得するまで教えてくれる。それが、お父さんだった。
「ねえ、拓海」
突然お姉ちゃんがぼくに言った。さすっていた手を止めて、お姉ちゃんのほうを見ると、お姉ちゃんは暗がりの中で、とても厳しい顔つきをしていた。怒っているときのお父さんみたいだった。
「私、叔母さんの家を出ようと思うの。それで、お母さんを探そうと思うんだけど」
「お母さん?」
「うん。叔父さんたちは私たちがいると、とても迷惑なんだと思う。だから、お母さんのところへ行こうと思うの。拓海はどうする?」
ぼくはしばらく考えた。さっきみた夢が、頭の中に蘇る。夢の中でお父さんは言ってた。「ほら、春香、拓海、お母さんが待ってるぞ、行ってこい」って。
「ぼく、お姉ちゃんと一緒に行くよ」
僕がそう言うと、お姉ちゃんの顔に笑顔があふれた。
「でも、お母さん、何処にいるの?」
「それは、私も知らないけど、手がかりはあるんだ。吉村さんっていって、お母さんのお友達が、きっとお母さんの居所を知ってるはずなの。だから、まず、吉村さんに会いに行こう」
そういうと、お姉ちゃんはお出かけの時に使っている、肩掛けのポシェットから封筒を取り出してきた。
「お家を片付けてるときに見つけたんだ。吉村さんのお家の住所だよ」
と、言ってお姉ちゃんはぼくに封筒を見せた。
それから、ぼくたちは急いで荷物をまとめて、家出の準備を整えた。と言っても、たくさん荷物は持っていけないし、ぐずぐずしていると、叔母さんたちに見つかってしまうかもしれない。制服も着替えずに、持っているぼくとお姉ちゃんのお小遣いをお財布に仕舞って、ポシェット一つで、出て行くことにした。部屋を出る時、お姉ちゃんは桐の箱から、骨壷だけを取り出して、それも大事そうにポシェットへ仕舞った。
「お父さんも、一緒に行こう」
お姉ちゃんは、ぼくに言うではなく、骨壷に話しかけるみたいに言った。
忍び足で、階段を降りて玄関へ向かう。まだリビングからは、叔母さんたちの声が聞こえる。静かに靴を履くと、玄関のドアを開けた。夜風がふわりと、ぼくの頬に触れた。
「寒くない?」
お姉ちゃんがドアを閉めながら、ぼくに尋ねた。ぼくはめいっぱい、頭を左右に振った。
「そっか、じゃあ行こう、拓海」
お姉ちゃんはぼくの手を握ると、夜の街を歩き始めた。
こうして、ぼく達の旅が始まった……。
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