第十五話 決意
翌朝、ベッドの脇に敷いた布団の中で眼を覚ましても、クロさんの姿はなかった。お姉ちゃんは、点滴を受けながら静かに眠っていた。あまりごそごそとして、お姉ちゃんを起こさないように、ぼくは病室を出た。
病院の外には、広々とした庭があって。緑の芝生のあちこちに植えられた、広葉樹の下には、小さなベンチが置いてあった。ぼくは、めいっぱい背伸びをするとベンチに腰掛けた。色々と、考えるべきことはあった。これからどうするのか。
クロさんが帰ってこないということは、公園で何かあったに違いない。もしかすると、もうあの公園には戻れないだろう。
ぼくたちは、ひどく子どもで、誰か大人の助けなしでは生きていくことが出来ない。このままじゃお姉ちゃんの笑顔はまた消えてしまうだろう。そうならない方法は、一つしかない。
「あれ? 拓海じゃないか」
うーん、うーんと、あれこれ考えていると、突然目の前で声をかけられて、びっくりした。
「千鳥さんっ」
目の前に立っているのは、あのデコトラ運転手の千鳥さんだった。駐車場の方に眼をやると、あの派手なデコトラが止まっている。
「何やってるんだ、こんなところで? 春香は?」
千鳥さんは目を丸くしながら言った。ぼくは、千鳥さんに、千鳥さんと別れてからの経緯を話した。クロさんやカホちゃんに話して、これで三度目だ。
千鳥さんは、ぼくの隣に腰掛けて話しを聞いてくれた。話し終わって千鳥さんは、
「そうか、そうだったのか」と、腕組をして頷いた。
「千鳥さんは何をしにここへ来たの?」
ぼくが尋ねる。
「あたしは、母さん、つまり健太の祖母ちゃんの見舞い。このまえ夏風邪をひどくこじらせて、入院してしまってね。もうじき退院なんだけど」
「千鳥さんの実家ってこの辺なの?」
「あれ、言ってなかったか」
ベンチを風がすり抜けていく。芝生と木の葉がさわさわと揺れる。青空に浮かぶ羊雲が、風に煽られて流れていく様を、眺めながらぼくは、口を開いた。
「あのね。千鳥さん。ぼく、小原の叔母さんのところへ帰ろうと思うんだ。本当はものすごく厭だけど。でも、お姉ちゃんをこのままにしておけない。クロさんだって、クロさんの生活があるし、ぼくたちにはぼくたちの生活があると思うんだ。ちゃんと学校へ行かなくちゃダメだし、ちゃんと大人にならなきゃダメだと思う」
「そうだな」
「それでね。千鳥さんに送って行って欲しいの。他にお願いできる人なんかいないし、とても遠いけど」
ぼくは立ち上がって「お願いします」って、千鳥さんに頭を下げた。千鳥さんは、しばらく腕組みをしたまま考えた。
「本当にそれでいいのか?」
千鳥さんが深く重たい声でぼくに言う。
「うん。それが多分一番正しいと思う」
「そうか、よく言った。あたしに出来るのはそのくらいしかないけど、あんたたちを叔母さんの家まで送っていってやるよ」
と言って、千鳥さんはニッコリと笑った。
千鳥さんに携帯電話を借りて、叔母さんに電話を入れた。これから帰ること、沢山心配させただろうことを謝るつもりだった。ところが、電話を掛けるとすぐに留守番電話につながった。
「ただ今、旅行に出ております。金曜日には戻りますので、御用のある方はメッセージをどうぞ」という、楽しげな叔母さんの声が聞こえてくる。
とことんヒドイ人だ。でも、もうぼくたちに帰る場所は叔母さんの家しかなかった。
千鳥さんは、ぼくから携帯電話を受け取ると、お母さんのお見舞いへ向かった。後で、春香の病室にも寄るから、とぼくに言った。
ぼくは、そのままその足で、カホちゃんのコンビニへ向かった。そろそろカホちゃんがコンビニでアルバイトを始める時間になっていた。ぼくは路地裏に座って、カホちゃんを待っていた。
白い猫がぼくの前を、「にゃあ」と一声鳴いて歩いていく。やがて、休憩時間になって、カホちゃんはいつもどおり、裏口から路地へ出てきた。
「拓海っ」
カホちゃんは驚いて、ぼくの名前を呼んだ。
「心配してたんだよ。クロさんたちが警察に捕まったって、新聞に載っていたから。拓海たちにも何かあったんじゃないかって」
カホちゃんはぼくの前で膝を折ると、そっと抱きしめてくれた。少し言葉が震えていて、カホちゃんが本当に心配していたんだって、ぼくにも分かった。
「クロさん。逮捕されちゃったの?」
「うん。知らないの? あの公園、ホームレスの溜まり場になってたから、取り壊すことになっちゃって、それでクロさん抗議のために、市の担当の人と話し合いをしようとしたんだけど、その時クロさんの仲間の何人かが、暴れだしちゃって。それで、ホームレス全員、捕まったの」
それで、クロさんは戻ってこなかったのか。
「あのね。私、拓海に無理を言い過ぎたかもしれない。拓海たちの気持ちなんか気にしないで、私の言い分ばっかり押し付けて。あれから、ずっと拓海に謝りたくて」
カホちゃんは、ぼくを抱き止めたまま言った。ぼくは頭を左右に振る。
「ううん。カホちゃんは悪くないよ。カホちゃんが言うことは間違ってないもん。あれから、テントへ帰ったらね、お姉ちゃん熱を出して。もうこのまま死んでしまうんじゃないかって思った。でも心配しないで、ちゃんと病院へ行って、熱は下がったの」
ぼくはそこで一息ついてから続ける。
「昨日お姉ちゃんがぼくに笑ってくれたんだ。それで、はっきりと分かったよ。ぼくたちはまだまだ子どもで、大人の人がいてくれないと、生きていけないって。だから、ぼく、小原の叔母さんところへ帰ることにしたんだ」
「そっか」
「だから、ちゃんと謝って、ちゃんとさよならを言いたかった。大嫌いだなんていって、ごめんなさい」
ぼくが言うと、カホちゃんは一層強く抱きしめて、少し泣いていた。
カホちゃんは、最後に「私はさよならなんて言わないよ。またどこかで会えるかもしれないし」と言って、いつもどおりの笑顔を見せてくれた。ぼくは嬉しかった。出会って間もないのに、こんなに他人のこと心配してくれて。もうひとりお姉ちゃんが出来たみたいで嬉しかった。
ぼくはカホちゃんと別れると、急いで病院へ戻った。病室へ入ると、千鳥さんがベッドの脇に座っていて、お姉ちゃんと何かを話していた。
「拓海、何処へ行ってたんだ?」
千鳥さんが不思議そうに尋ねて来たけど、ぼくは少し笑って「ちょっとね」と返した。千鳥さんは、少し怪訝な顔をしたけれど、すぐに笑顔になった。
「さっき、中嶋先生が来て、明日には退院してもいいって」
千鳥さんがニコニコしながらぼくに言う。
「ホントに?」
「ホントだよ。あたしが嘘をついてどうする? それで、春香にもきちんとお前が、叔母さんのところへ帰るって決めたことを、きちんと話した」
千鳥さんの話を聞いていた、お姉ちゃんがぼくを手招きする。ぼくはお姉ちゃんの傍に座った。
「お姉ちゃん、ホントにいい? 叔母さんのところへ帰っても」
と、ぼくが聞くと、お姉ちゃんはコクリと頷いた。
「拓海が、はじめて独りで決めたんだもん。私は反対しないよ。本当はもっと早く、私がそうするべきだったのかもしれないけどね」
お姉ちゃんは小さな声で言った。心なしか、安心したように聞こえた。
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