第十三話 夕闇の空
「これと、これと、これ。今日はこれだけしか売れ残らなかったから」
カホちゃんが、半透明のビニール袋に、パンやおにぎりの売れ残りをつめてくれた。どれも賞味期限ぎりぎりの商品ばかりだったけど、ぼくには宝の山のように見えた。
「こんなにもらっていいの?」
ぼくが聞くと、カホちゃんはニコニコと微笑んで「いいよ、どうせ廃棄するんだし」と言った。コンビニの裏路地は、青いポリバケツが並び、薄暗く狭い。となりの中華料理屋さんの換気扇から、油の匂いが漂ってくる。時折、猫が喧嘩する声が、突然してきて驚くことが少なくない。
「カホちゃん。店長さんに叱られない?」
「店長っていっても、私のお父さんよ。叱られたら、そっぽをむいてやる」
カホちゃんは、長いストレートの髪を揺らして、笑った。それから、ポケットの中を探って、飴玉を取り出した。白い包み紙に包まった、イチゴのキャンディだ。
「これもあげる」
そう言うと、カホちゃんはぼくの手のひらに、飴玉をのせた。
「ありがとう」
「また今度、お客さんの居ない時に、掃除してね。よろしくっ」
カホちゃんはそう言うと、ぼくにウインクをして見せた。ぼくは、カホちゃんに頭を下げてもう一度お礼を言うと、カホちゃんに手を振ってコンビニの裏路地を後にした。カホちゃんは、しばらくぼくに手を振っていた。
表通りは、午後の熱気で蒸し暑い。燦々と照りつける太陽、アスファルトに反射する熱、ビルに遮られて風が通らないから、余計に暑く感じるのだ。太陽に手を翳していると、何処かからクラクションが聞こえる。ぼくは右往左往する人ごみをすり抜けながら、駅のほうへ歩いていった。
夏はもう終わりに近付いていた。街を少し離れれば、ツクツクボウシの声が耳につく。ぼくは、騒々しい繁華街を抜けて、駅の構内を走って抜ける。以前、駅員さんに呼び止められそうになってからは、いつも駅員さんを警戒しながら、駅を抜けるようになった。さながら敵の基地に忍び込んだ、スパイみたいだと、いつも思う。
駅を抜けると、そこは背の高いビルが立ち並ぶ、オフィス街だ。反対側の繁華街より静かで、落ち着いた雰囲気がある。ぼくは、肩で息をしながら、走る速度を緩めた。
オフィス街の道は迷路状になっている。くねくねと曲がる道を、覚えたとおりに進んでいけば、ビルとビルに囲まれた、薄暗い公園が見えてきた。ぼくはその公園に足を踏み入れた。一見、オフィス街の真ん中にぽつんとある、普通の公園だが、良く見ると遊具は使われた跡が乏しく、奥の茂みの方を見ると、あちこちにブルーシートで出来たテントの屋根が、ちらほらする。そう、ここは、クロさんのテントがある公園だった。
あの日、お姉ちゃんは雨の中で泣き止まなかった。ぼくは、お母さんがもうこの世に居ないということもショックだったけど、ずっと強い人だと思っていたお姉ちゃんが、まるでぼくみたいにわんわんと泣く姿は、より一層ショックだった。
旅の目的はここに来て、終わってしまった。ぼくたちは、小原の叔母さんのところへ帰るしか、行く場所もなかった。でも、どんな顔をして叔母さんに合えばいいのだろう。叔母さんたちの真意を知ってしまった以上、素直に叔母さんの好意に甘えられない。だからと言って、帰らずにお姉ちゃんとぼくだけで生きていくには、それほど世の中が甘くないことくらい知っていた。
ぼくは、泣き続けるお姉ちゃんの手を引いて、とぼとぼと歩いているうちに、雨は止み、日が昇り、そしてこの街へ戻って来ていたのだ。繁華街の歩道にある、街路樹の下のベンチに座って、ぼくは行きかう人を眺めていた。お姉ちゃんはぼくの隣で項垂れて地面ばかり見つめていた。それでも、情けないことに、ぼくにはお姉ちゃんを元気付けるだけの言葉が思い当たらなかった。
やがて、お昼過ぎになって、通りを見たことのある人が通っていった。相変わらず、ボロボロの服を着たクロさんだった。クロさんは一瞬行き過ぎて、ぼくたちの方を驚いた顔をして振向いた。何も語らないお姉ちゃんの代わりに、ぼくは必死でクロさんに事情を説明した。すると、クロさんは。
「何処にも行くところがないなら、俺のところへ来ればいい、どうせあそこには、そういう奴らが集まってるんだから」
と言ってくれた。ぼくは、クロさんに甘えることにした。行き場がなかったぼくらにとって、蚊の多い公園でも、十分な居場所になった。
クロさんのテントに厄介になることを決めてから、ぼくはクロさんたちがやっている食料集めに協力することにした。クロさんたちは、子どもに出来ない、と言っていたけど、ぼくは頑として譲らなかった。
そして、カホちゃんと出会った。
カホちゃんの本名は、長野果歩。ぼくより11歳年上の、高校二年生だった。両親が経営するコンビニエンス・ストアでアルバイトしている。長い髪がサラサラで、良く笑う素敵な人だ。本当は、果歩さんと呼ぶべきなのだけど、カホちゃんは、そんなハバくさい呼びかたは止めて、と言ったので、ぼくはカホちゃんと呼ぶことにした。
カホちゃんに会ったのは、コンビニの裏路地だった。はじめて、食料集めに出てから、何日もちゃんとした食料なんて見つからなかった。大体、見つけ方も知らなかった。たまに、料理屋さんのボリバケツを漁ると、まだ食べられそうなものが出てくるけど、そんなもの微々たるもので、ぼくはほとほと困り果てて、裏路地へたどり着いた。すぐにコンビニの隣にある中華料理屋さんの、ポリバケツが目に入って、中を探っていると、休憩に現れたカホちゃんに出くわした。
カホちゃんは、はじめぼくに気がつかなくて、ポケットからタバコを取り出すと、それに火をつけた。やがて、ゴミを漁るぼくに気が付いたカホちゃんは、ぎょっとした目つきでぼくを見てから、恐る恐るぼくに「何をしてるの?」と尋ねた。ぼくは逃げ出すべきか迷った。すると、カホちゃんの方が。
「キミ、私が煙草吸ってること内緒にしてっ」と、言ってきた。
ぼくは、カホちゃんの慌てぶりが妙に可笑しくて、つい逃げ出すことを忘れていた。それから、カホちゃんとは何となくウマが合って、しばしばカホちゃんのところへ足を運ぶようになった。カホちゃんは平日の夕方、高校が終わってからバイトに入る。
何度か顔をあわせるうち、ぼくはカホちゃんにこれまでの経緯を話した。カホちゃんは、涙ぐんで聞いてくれた。
「もしも、拓海が私の代わりに、コンビニの掃除手伝ってくれるなら、売れ残りの商品をあげてもいいよ」
と、提案したのはカホちゃんの方だった。渡りに船っていうのはこのことだと思った。ぼくはカホちゃんの提案に乗り、お客さんが居ない時を見計らって、コンビニの掃除を手伝った。勿論報酬は、賞味期限ぎりぎりで売れ残った商品をもらうことだった。
クロさんのテントに戻り、ブルーシートをはぐる。クロさんは日雇いの仕事に出かけて、まだ帰っていなかった。相変わらず、綺麗に片付けられたテントの中に入る。ぼくはもらってきた食料を、床に置くと、そっとお姉ちゃんに近付いた。
あの日からお姉ちゃんは、何もしなくなった。食べることも、外へ出ることも、泣くことも笑うことさえも。ただ焦点の合わない瞳で、ぼんやりとして、テントの隅で寝転がっているだけ。ぼくに笑いかけることも、何かを言ってくれることもない。
お母さんに会えなかったことは、お姉ちゃんにとって、ぼく以上にショックだったのかもしれない。それでも、魂が抜けたようなお姉ちゃんを見るのは痛ましかった。
「あのね、今日もカホちゃんがいっぱい食べ物くれたよ」
ぼくは、ビニール袋の中を広げてお姉ちゃんに見せた。でも、お姉ちゃんは何も言わない。分かってはいるけど、胸が痛い。
「おにぎりでしょ、ジャムパンに、クリームパン。憶えてる? 吉村さんの家へ行く前に、コンビニで買ったやつ。あれと同じやつだよ」
やっぱり、お姉ちゃんは口を閉ざしたままだ。
「それからね、これもくれたの」
ポケットから、白い包みのキャンディを取り出した。ぼくは、包みを取ると、キャンディをお姉ちゃんの口のなかに入れた。ところが、カランと音を立てて、飴はおねえちゃんの口から飛び出して、床を転がっていった。
あれからお姉ちゃんは、何も食べていない。すべての気力が抜け落ちたように、まるでお人形さんのようになってしまった。腕も足も痩せ細り、顔色も良くなかった。クロさんも、お姉ちゃんのためにお粥を作ってくれたり、シマさんたち他のホームレスの人たちも、お姉ちゃんを心配してくれたのに、お姉ちゃんは一向に、元気にならなかった。
「ねえ、お姉ちゃん。何か食べてよ。元気になれないよ」
ぼくはお姉ちゃんの傍に座った。お姉ちゃんの涙をみてから、ぼくは二度と泣かないようにしよう、少しでもお姉ちゃんを元気付けようと思っていたのだけど、そのお姉ちゃんを見るたび目頭が熱くなってしまう。
「お姉ちゃん。お願いだよ、このままじゃ、栄養が足りなくなって死んじゃうって、クロさん言ってたよ。何か食べてよっ、お姉ちゃんっ」
ぼくは、お姉ちゃんの両肩をもって、ゆすった。でも、お姉ちゃんは何も言わない。
ここへ来て何度も、同じことを言った。でも、お姉ちゃんはちっとも答えてくれない。
分かっているのに……。
「お父さん、お母さん、何でぼくたちを置いていったの? ぼくどうしたらいいの?」
小さな声で言ってみても、もう誰にも伝わらない。ぼくはお姉ちゃんに泣いているところを見せたくなくて、膝を抱えて顔を伏せた。
日が沈むころ、テントにクロさんが戻ってきた。
「どうだ、姉ちゃんは?」
クロさんがぼくに尋ねる。ぼくは、体育座りの格好をしたまま、クロさんに頭を振って答えた。クロさんは、ぼくに外へ出るように、顎をしゃくって合図した。
ぼくがテントから出ると、クロさんはライターで書未期限切れのタバコに火をつけていた。
「やっぱり何も食わねぇのか?」
「飴玉も食べてくれない」
「そうか」
クロさんはそう返事をすると、タバコを吸った。白い煙がふわりと空中に舞う。
「お姉ちゃん、どうしてあんな風になっちゃったんだろう?」
ぼくはクロさんの隣に腰掛けて、尋ねた。クロさんはすこし難しい顔をしてから。
「姉ちゃんは、頑張りすぎたんだよ。お前連れて、ガキが二人で、何週間もかけて、母親を捜してみれば、母親はとっくの昔に他界してる。それで、緊張の糸が全部切れたんだ。もっとも、こいつは、俺の勝手な解釈だ。人の心なんて、誰にもわかりゃしねえ」
と、答えた。「俺は、生来、他人に期待させるようなことが言えるような人間じゃない。ただ、拓海が元気なけれりゃ、姉ちゃんだって元気になれないってのは、確かだな。」
「お姉ちゃん、死んじゃったりしないよね?」
「さあな。さっきも言っただろ、俺は他人が期待するようなこといえないって」
クロさんはぼくの頭をくしゃくしゃと撫でた。
「もうすぐ、夏も終わる。お前たちの冬服を調達しないとな。ここにはストーブもヒーターもない。雪の日なんか、凍えて死んでしまう」
そう言って、クロさんは空を見上げた。ビルに切り取られた四角い夕闇の空は、藍色に染まっていた。
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