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Belong  作者: 雪宮鉄馬
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第一話 電話

 投稿中だった作品が色々と諸事情ありまして、削除いたしましたことを、深く深くお詫び申し上げるとともに、その代わりと言ってはなんですが、長編小説を投稿します。

 モチーフは、現代版「母をたずねて〜」です。ラストまでお付き合いいただけると幸いかと存じます。

 雨が降るたび、いつも思い出す。

 握り締められた手に力がこもって、痛い。ぼくは、急に不安になって顔を上げた。月は雨雲に覆われ、真っ黒な夜空から降る雨が、アスファルトを叩き、街灯に彩られた歩道を透明にぼやけさせる。お姉ちゃんは肩を雨にぬらしながら、泣いていた。

 お姉ちゃんは絶対に泣かない人だった。気が強いと言うのか、どんなことがあっても絶対泣かない。泣き虫な弟のぼくより、ずっと強い人だと思っていた。それなのにお姉ちゃんは、泣いていた。頬を伝うのは雨なのか、それとも涙なのか良く分からなかったけど、震える肩も、時々しゃくりあげる声も、ぼくに「泣いている」と分からせるのには十分だった。

「ごめんね、拓海。ごめんね」

 街路の真ん中で立ち止まり、お姉ちゃんはぼくに、本当のことを告げてから、何度も何度も「ごめんね」と繰り返しながら泣き続けた。でも、幼いぼくに何が出来るだろう?

 お姉ちゃんの頬を伝う涙を拭うには身長が足りないし、お姉ちゃんを慰めるには言葉が足りなかった。ただ、ぼくは押し黙って、じっとお姉ちゃんの顔を見つめているしか出来なかった。あまりにも子どもで、あまりにも無力で、お姉ちゃんを元気付けることも、守ることも出来ない、ぼく自身がとても歯がゆかった。

 雨は、無情にもぼくたちの肩を濡らしていく。ざあざあ、と音を立てながら。

 それは、お姉ちゃんが10歳。ぼくが6歳の夏の日だった。


 ぼくの家族は、お父さん、お姉ちゃん、ぼくの三人だった。お母さんは、ぼくが生まれてすぐ、お父さんと離婚した。どうして離婚したのか、子どものぼくには分からなかったけど、それは、「夫婦の問題」なんだってお姉ちゃんはぼくに言った。離婚するということがどういうことなのか、「夫婦の問題」けがどういうことなのか、ぼくには良く分からなかったけど、たしかに、お母さんは居なくても、優しいお父さんと、ときどき喧嘩するけど大好きなお姉ちゃんがいて、ぼくはちっとも寂しいとは思わなかった。

 お父さんは、お母さんと離婚してから、ずっとぼくとお姉ちゃんを一人で育ててくれた。ある日、お母さんのお母さん、つまりお祖母ちゃんが、「春香たちを引き取ってもいい、男手一つで子どもを二人も育てるのは大変だし、あなたはまだ若いんだから、これからの人生もあるのだし」と言ったそうだけど、お父さんは頑として首を縦に振らなかったのだそうだ。

 お父さんの、お父さんとお母さんは、ずっと昔交通事故で、死んでしまった。だから、親がいない生活がどれだけ辛かったか、お父さんはわかっていたんだと思う。だから、ちゃんとお休みの日には、遊びに連れて行ってくれたし、ぼくたちが悪いことをしたら、きちんと叱ってくれた。ぼくもお姉ちゃんもお父さんが大好きだった。

 そんなぼくのお父さんは、学校で先生をしていた。ぼくよりもずっと年上の中学生のお兄さんやお姉さんを相手に「英語」という教科を教えている。一度だけ、お父さんに「教科書」を見せてもらったけど、何だか数字みたいな、変な文字がいっぱいで、一体それが何なのか、僕には分からなかった。すると、お父さんは、笑って「お前も中学生になったら分かるさ」と言った。

 かく言うぼくは、そのときやっと小学校に入学したばかりだった。お姉ちゃんと同じ学校で、お姉ちゃんは四年生、ぼくは一年生だった。

 時々お姉ちゃんと廊下ですれ違う。明るくてみんなと、すぐに仲良くなれるお姉ちゃんはいつも、友達と一緒だった。すれ違うとき、お姉ちゃんはわざとぼくを見ない様にして通り過ぎる。どうしてだろう? と思ってお姉ちゃんに聞いてみると「だって恥ずかしいもん。弟と同じ学校って」って言われた。でも、絶対すれ違った後で、お姉ちゃんの友達がお姉ちゃんに耳打ちする。

「あのコ、春香ちゃんの弟でしょ? 可愛いね」

 そう言われて、お姉ちゃんがまんざらでもない、という顔をして照れているのをぼくは、知っていた。

 お姉ちゃんは、気が強い。ときどき、おやつの取り合いや、テレビのチャンネル争いで、喧嘩をするけど、大抵お姉ちゃんが、ストレート勝ちする。喧嘩に負けてわんわん泣く僕をなだめながら、お父さんが「春香は、大人しくしていれば、お母さん似で可愛いのになあ」と苦笑しながら言ったことがある。

 弟と言う立場上、贔屓目に見ても、お姉ちゃんは結構美人だと思う。だけど、保健室送りにした男子生徒は、10人以上という、あんまり嬉しくない噂まで持ってるくらいだ。でも、そんなお姉ちゃんに助けられたことも、一度や二度じゃない。

 ぼくは、泣き虫で弱虫だった。近所の子にいじめられたり、クラスの子にいじめられたりするのはしょっちゅうだった。ぼくが泣いていると、いつもお姉ちゃんがクラスに現れて、ぼくを助けてくれる。その時は、お姉ちゃんが正義のヒーローに見える。

 どんなに喧嘩したって、お姉ちゃんは弟想いで優しい。だから、ぼくはお姉ちゃんも大好きだった。


 幸せと言うのは、どんな時でもぼくの傍にあって、ぼくを優しく包み込んでくれる。父子家庭だから、いいことばかりじゃなかったけど、ぼくは多分、世界中の誰よりも幸せだと思う。でも、誰が言ったんだろう? 幸せは長く続かないって。平穏に思える日常は、それほど頑丈じゃなくて、ガラスで出来たお城のように脆くて、触ると崩れていく。

 暑い夏が始まりそうなある日、その日は昨日の夜から台風で、窓の外ではごうごうと、風が唸り声を上げていた。まるで、怪獣が暴れているみたい。学校もお休みで、ぼくはその日一日休みになったのが嬉しくて、テレビを見たり本を読んだりして過ごしていた。お姉ちゃんも一緒だった。お父さんは、勤め先の中学校へ出かけていって、家にはぼくたち二人だけだった。

 嵐の音だけが聞こえる静かな部屋で、突然電話が悲鳴のように鳴り響いたのは、お昼過ぎだった。お姉ちゃんが慌てて、スリッパをパタパタさせながら受話器をとる。

「はい、遠野です。はい……はい、わたしが春香です。はい、弟もいます」

 お姉ちゃんはいつも、電話に出ると大人びた口調になる。ぼくは電話に出ると緊張して、「遠野です」と名乗るのもままならない。

「え? お父さんが? はい……大丈夫です、すぐ行けます。はい、わかりました」

 お姉ちゃんはそう言うと、受話器を静かに置いた。しばらく電話と睨めっこしていたが、やがてお姉ちゃんはぼくの方へ近付いてきた。ぼくは、ソファに腹這いで寝転がって、童話の本を読んでいた。

「拓海、大変なことが起きたの。いい? 良く聞いてね」

 お姉ちゃんは、ひどく暗い顔をしてぼくに言った。それだけで、お姉ちゃんは良くないことを言うんだなって、ぼくにも分かった。

「あのね、お父さんが今日、学校へ行く途中で、交通事故にあったんだって。交差点で、居眠り運転していたダンプカーに轢かれそうだった人を助けて、お父さん大怪我負ったの。それで、今お医者さんから、電話があったんだけど、もう、ヨメイあまりないから、すぐ会いに来られるかって言われたの」

「ヨメイ?」

 6歳の辞書には「余命」という言葉は記録されていなかった。お父さんが怪我をしたって言うことは分かったのだけど。

「もうすぐ死んじゃうかもしれない。そうしたら、もう二度とお父さんに会えなくなる。だから、お別れを言いに行くんだよ」

 と、お姉ちゃんに言われても、バカなぼくはちっとも理解できなかった。

 ぼくとお姉ちゃんは、身支度を整えると、病院の先生が呼んでくれたと言うタクシーに乗り込んだ。タクシーの運転手さんは、事情を知ってか知らずか、国道をぎりぎりのスピードで飛ばして、ぼくたちを病院へ運んでくれた。降りるとき「しっかりな、二人とも」とおじさんは、ぼくたちに言った。

 お姉ちゃんに手を引かれて、病院に駆け込むと、見知らぬ小母さんがぼくたちを待っていた。その小母さんは、お父さんが助けた人のお母さんだった。お父さんが助けたのは、ぼくと同じ歳くらいの女の子だった。病院の受付の人と小母さんに案内されて、病室へ向かう

 病室の前には、お父さんが助けた女の子がベンチに座って、泣いていた。傍らに座る髭面の小父さんは、多分女の子のお父さんだろう。

 ぼくたちが病室に入ると、お父さんは真っ白なベッドの上に、包帯に包まっていた。ベッドの脇に立つお医者さんが、ぼくたちが来たのを見ると険しい顔を浮かべた。

「君たちが、遠野さんのご家族かい?」

 先生の質問に、お姉ちゃんは「はい」と、しっかりした声で答えた。だけど、握られたお姉ちゃんの手にぎゅっと力が入るのが、ぼくにだけ伝わった。

「少し遅かった。手は尽くしたんだが、さっき息を引き取られたよ」

 先生は肩を落として、ぼくたちに言った。息を引き取る、イコール死んでしまったということは、ぼくにだって分かった。

 お父さんは、もう目を覚まさない。「おとうさん」って言っても「拓海」って笑いかけてくれない。そのちょっとタバコくさい手で、僕の頭を撫でてくれない。その包帯姿のまま、白いベッドから もう二度と。ぼくはめちゃくちゃ、悲しい気持ちになった。涙のストックは尽きることを知らず、ぼくの目からあふれ出した。人目も気にせず、わんわん泣いた。

「泣くな、拓海。男の子でしょっ」

 お姉ちゃんは必死でぼくをなだめた。お姉ちゃんは泣いてなんかいなかった。やっぱりお姉ちゃんは、強い人だと思った。ぼくは、お姉ちゃんのように強くなれない。ぼくは弱虫で、泣き虫なんだ。

「泣いちゃダメだよ。お父さん安心して天国いけないよ」

 お姉ちゃんは小さな手で、僕の頭を撫でてくれた。

 窓の外では、風が緩やかに収まり、ざあざあと雨を降らせていた。僕の泣き声を隠すように。


 お父さんのお葬式は、ぼくたちの家で行われた。台風はとっくの昔に何処かへ行ったのに、まだ雨は上がらず、空を灰色の雲が覆っていた。お坊さんが、むにゃむにゃと御経を唱える間も、お父さんを納めた棺が、運び出される間も、お父さんが小さな骨壷の中に入ってしまう間も、ぼくはずっと泣いていた。

 人が死ぬ。単純な言葉だけど、とても難しいこと。息をしなくなって、動かなくなって、笑わなくなって、泣かなくなって、ぼく達の前から永遠に姿を消すこと。初めて体験する、人の死は、ぼくの心に大きな傷を残した。

 それはお姉ちゃんも同じだと思う。でも、お姉ちゃんは一度も泣かなかった。本当は、お父さんが死んで悲しくないんじゃないかって思った。でも、ぼくの手を握るお姉ちゃんの手は、いつもより力がこもっていて、時々震えていた。

 きっと、お姉ちゃんは泣かないって心に決めていたんだと思う。

 お葬式が終わって、ぼくとお姉ちゃんは、お父さんの妹、つまりぼくたちの叔母さんに預けられることになった。昔、お父さんにぼくたちを引き取ると言った、お祖母ちゃんはもう、この世にはいなくて、ぼくたちの引き取り先は、叔母さんの家しかなかった。

 家は追々に片付けて、将来大きくなったら、ぼくたちが住めばいい、とりあえず、必要なものだけもって叔母さんの家に引っ越した。

「今日からここがあなたたちの家よ。私のことはお母さん、叔父さんのことはお父さんだと思ってね」

 叔母さんの家にやって来たぼくたちに、叔母さんはそう言った。

「よろしくお願いします」

 お姉ちゃんは、叔母さんに深々と頭を下げた。

 叔母さんの家には、ぼくより一つ年下の実夏ちゃんと、お姉ちゃんと同い年の俊哉君がいた。二人ともぼく達の従兄弟だけど、会うのはこれが初めてだった。おばさんの家はぼく達の家からそんなに離れてはいなかったけど、叔父さんとお父さんはとても仲が悪くて、ものすごく疎遠だった。お姉ちゃんは、俊哉君と同級生だったけど、あまり話したことがないらしい。

 叔母さんの家は、ぼくたちの家より少しだけ大きい、白い一戸建てで、物置にしていた部屋をぼく達の部屋にしてくれた。家から持ってきた、ベッドは一つしか入らなくて、お姉ちゃんは「私が床で寝るから」と言ってくれた。だから、勉強机はお姉ちゃんに譲った。

「辛くない?」

 お姉ちゃんはぼくに時々聞いた。ぼくはいつも首を左右に振った。すると、お姉ちゃんは少し笑って「そっか、そっか」と言って、僕の頭を撫でてくれる。

 お姉ちゃんは辛いのだろうか? 叔父さんも叔母さんも優しい、でもどこかやっぱり「他所の子」と一線を引いていた。はれ物を触るように、ぼくたちに接することは少なくなかった。俊哉君と実夏ちゃんも同じだった。「おはよう」とか「おやすみ」以外に口を利いたことがない。でも、ぼくはそれを見なかったことにした。賢しいと思われるかもしれなかったけど、それが叔母さんの家で過ごすルールなら、それに従うしかないから。勿論、そう考えていたわけじゃなく、ぼくたちは自然とそういう態度を取っていた。お姉ちゃんも一緒だった。それが、ぼくたち姉弟の処世術だった。

 転校もしなくて良いし、叔母さんも叔父さんも優しい。お父さんがいなくなったことは、部屋の隅の骨壷を見ればすぐ思い出して、涙が出てくるけど、それでも叔母さんの家に慣れるのにそんなに時間はかからなかった。


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