Arsonphobia
肉の焼ける匂いがした。
田んぼと畦道が山に続いていく田舎道は、西に行くと山からの湧き水で川が流れている。その河原に、年に一度、夏休みにだけ、キャンプに来る家族がいた。洗車されたばかりのような綺麗な車と、野外に来ているとは思えない格好の三人家族だ。鍛えられて引き締まった体の大きな父親、線が細くていかにも都会的な母親、綺麗な顔立ちの息子の三人で、おのおの好きなことをしていることが多かった。父親は釣りや、採取を楽しんでいたし、妻は料理したりワインを飲んだり、息子は本を読んでいることが多かったけれど、たまに虫を捕まえていた。自分よりも少し年上の男の子を、すずめは対岸の草むらに隠れて見ていることが多かった。
飢えて空腹を訴える胃を持て余しながら、母親が作る、見たことも食べたこともないような、しゃれた料理の匂いを嗅いで過ごす。とてもひもじくて、憎らしくて、そして、羨ましい。眺めていると、空っぽの胃が虚しさを、よく訴えた。それでも、すずめはその家族を眺めることが喜びだった。対岸の草むらに隠れているだけの自分が、一瞬だけ、家族の一員になる空想に浸る。お母さん、そう呼びかけると、その人は微笑んで、すずめにジュースを渡し、父は一緒になって釣りをしてくれる。お兄ちゃんと呼ぶと、少し面倒くさそうに、すずめに歩調を合わせて、虫取り網を渡してくれる。そんな、一瞬の妄想に浸ることだけが、すずめの夏休みの楽しみだ。東京もん、そう、村の老人たちが侮蔑を込めて呼ぶ、家族と自分だけの時間だ。
夏の暑い日差しの中、ろくな服も靴も帽子もないすずめは、無数の蚊に刺されながら、静かに座り込んでいた。かさかさと耳元で、雑草がこすれる音がする。
「きみは、誰?」
隣に人が立ったことが影でわかった。すずめは、上を向いたけど、太陽の光のせいで、誰だかは分からない。ただ、その瞳は、普通の人よりも薄い色に見えた。
「ご飯できたわよー」
お母さんの呼ぶ声がする。妄想に浸りすぎたすずめは一瞬、自分が呼ばれたのかと思って、立ち上がろうかと思った。でも、すぐに思いとどまった。自分の母親は、今日も、くたびれた格好をしていて、父親に蹴られて、パチンコ代を渡してしまっていたはずだ。
肉の焼ける匂いがした。
男の子が、すずめを気にするように何度か振り返って、そのまま走っていく。お兄ちゃん、そう言いそうになって、すずめは唇をかみしめた。
肉の焼ける匂いがした。
体はひんやりとした冷たさを感じる。わずかに、目を開けると、そこは、暗かった。
肉の焼ける匂いがした。
あとは、男の悲鳴も聞こえた。すずめは、まだ、眠っているのだと信じたい気持ちになった。あの、河原の思い出こそが現実で、今、見ているものが夢であってほしいと思うのに、体の重さも、足の痛みも、軋んだような四肢も、これが現実だと教えてくる。どくどくと思い出したように、拍動し始めた心臓は、自分が生きていることを嫌でも突き付けてくる。
肉の焼ける匂いに、胃が震えた。これは、ただ肉が焼ける匂いではない。人が焼ける匂いだ。独特の、食欲ではなく、嘔気をもよおす匂いだ。
「あああああああああああああああああああああああああ!!」
匂いと共に、ジュッと、虫が間違って鉄板の上に落ちた時と似た音がした。最初に聞いた、四肢を失った男の声よりも張りがあり、背中を向けていても若いことがわかる。
「やめろ!やめろよ!やめてくれー!」
字幕を付けなければ聞き取れないくらいの叫び声が、部屋を満たしたけれど、あの鬱蒼とした森の中に、唯一建っているこの邸宅の外に、声が届いたとは思えない。すずめの叫び声が、どこにも届かなかったように、この男のそれも届かないのだろう。
また、ジュッと熱い音がする。その音がするたびに、真夏のアスファルトの上に落ちたセミを思い出す。
「これは、あなたが大好きな遊びですよ?パーティーサークルで女子大生をドラッグ入りの酒で酔わせて、全員で回して、動画を撮り、無理やり同意させて奴隷印を焼きごてでつける。何度も動画を撮っては、有料サイトで不特定多数に売る」
「あれは!同意の上で!」
「同意の上で、行ったことで、自殺者が複数人出た」
「俺だけじゃない!ほかのやつらも」
焼ける音がする。今度は、それが、熱い焼きごてを当てられた女性のイメージに変わった。
「あああああああ!!不起訴に!俺は不起訴になったんだ!」
「お父君の力を借りて?」
「そう!そうだ!俺は、衆議院議員の息子だぞ!」
「なるほど」
男の声は、こんな状況だというのに涼やかだった。この遊びに慣れているのは、焼きごてを当てられている政治家の息子ではなく、男の方なのではないだろうか。政治家の息子の犯した罪は、聞いただけで心の内の大事なところを汚されるようなものだったけれど、男はそれに憤っている様子はない。ただ、淡々と犯した罪を読み上げている裁判官のように思えた。
男の足音が、近づいてくる。階段の近くで、無防備に横になっていたすずめは体に力を込めた。足に巻かれた鎖が、わずかに音を立ててしまった。すずめのすぐ横で、男は一瞬、立ち止まったが、すぐに階段を上る音がした。
「ぉぃ!ぉい!おい!お前だよ!ぼんやりしてんじゃねえよ!」
ジャラジャラと音を立てて政治家の息子が暴れている。先ほどまで生きながら焼かれていたのに、ずいぶん元気だ。
「早くこっち来いよ!ふざけんな!早く出るんだよ、こんなところ!」
のろのろとすずめは、四つん這いになってベッドに向かった。足が重たかったのは、怪我のせいだけではない。
政治家の息子は、女子大生を良いようにして、ネットでさらした挙句に、自殺に追い込んで、自分は罪を逃れた。
先ほどの会話では、そのことに、罪の意識を持っている様子がなかった。だのに、すずめは反射で政治家の息子の命令に従っている。弱かった幼いころの自分を見ているようだった。父に殴られて蹴られて、それでも、愛してほしいと努力していた愚かな頃のままだ。
「早くしろ!早く、この鎖を取れ!あの男が来る前に!」
すずめは、足を庇いながら、ベッドによじ登り、男の体に乗り上げるようにして、手をかけた。手錠に鎖が繋がれていて、手首はこすれて血だらけだ。
「のろのろすんな!」
手錠は鍵がかかっている。ベッドに繋がれた鎖をどうにかしようと、体を伸ばすと男が足を蹴り上げた。自由の利かないすずめの体は、大理石に叩きつけられる。
「おい!早くしろ!」
男は、そんなすずめの様子も意に介さず、ベッドの柵についた鎖を揺らしている。すずめは、その鎖に一生懸命に手を伸ばして、取ろうとした。
「早くしろって!戻ってくんだろう!」
「取れないの!」
「戻ってきたら、どうすんだよ!」
すずめは、取れるとも思えない、鎖を懸命に取ろうとした。溶接されているのか、恐らくはベッドを持ち上げないと、鎖は外れない。それでも一縷の望みをかけて、爪がはがれそうになりながら、鎖のつなぎ目に指をかけた。ふと一瞬、痛みを感じなくなっていた足を見た。巻かれた足の包帯がほどけていた。ここにすずめを閉じ込めている男との繋がりを一瞬感じて、動きを止める。
「おい!」
「おやおや、ずいぶん騒がしいですね」
「ひっ」
すずめは声にならない悲鳴を上げそうになって、両手で自分の口を抑えた。すずめはいい子だ。いい子は決して大きな声を上げない。
雨合羽の姿の男は、太い縄を手に持って、階段を下りてきた。モデルのような足の長さと、恵まれた体格、ほどよくしなやかな筋肉は、男性的な魅力を持っていた。きめ細やかな肌は、スクリーンの白さの中では、青ざめたように冷たい色をしていた。
「いけない子だ」
すずめは反射的に首を横に振った。悪いのは、すずめではなく、この男だ。ベッドに繋がれた男に命令されて仕方なく、やったことだし、包帯を見て、すずめは考えを改めたのだ。悪いのはすずめではなく、政治家の息子だ。
「ちが、ちがいます」
小さな声で懸命に、言い訳を重ねる。男は、階段を下りながら、少し調子はずれの鼻歌を奏でていた。なんという名前の曲かは、分からないけれど、聞いたことがある気がした。
「違う?目を離すと、すぐこれだ。男に見境なく尻尾を振る」
「ちがいます!」
見境なく尻尾を振る、あばずれ。
明らかに異様な雰囲気のすずめの周りに、男など一人も寄り付かなかったというのに、そうすずめを呼んでいたのは、父親だった。冬の寒い日に、酒に酔ったまま、風呂に入って溺れた父親。ぶよぶよと腹についた肉が、風呂の中で揺れていた。
「ちがうんです、ちがうんです。すみません、許してください」
「あなたは、ルールを守らない」
「守ります!お願いです。守りますから」
髪を片手で掴まれて、部屋の隅に引きずられる。髪がブチブチと音を立てて抜けていく。頭皮が痛くて堪らなかった。振り回されて、体が床に何度も叩きつけられる。
「水も与えていないのに、ずいぶん元気ですね。もうそろそろ死んでいると思っていたのに」
それとも、あの水を飲みましたか?飲むのに適した水じゃないんですがと、蛇口を指さした。
男はそのままずるずるすずめを引きずった。目指している場所は階段のようで、すずめはずきずきと痛む足を何とか動かして、態勢を立てなおそうと藻掻いた。段差を両手と、うまく使えない足で上る。髪の毛が引っ張られすぎて、もう頭皮の痛みも麻痺し始めていた。
地下から出た。眩しさに驚いて、手で両目を塞いだ。髪が勢いよく引っ張られて、体が飛ばされる。あの整理された部屋のどこにどうぶつかったかは分からなかったけれど、背中がとても痛かった。ほどなくして、上からいろんなものが落ちてくる音がして、すずめは頭を庇った。
「あーあ」
男の落胆したような声が聞こえて、すずめは、そのまま暗闇に落ちた。