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Thanatophobia

 



「すずめ」




 すっかり暗くなり中庭の松は、影すら見えなかった。それでも、すずめにはその松が見えた気がした。




「正臣さん」

「ずっと、ここにいたんですか」

「きれい、だったから」





 早く戻るといった言葉が真実であったか、すずめには分からなかった。この家には時計は存在しない。時という概念は中庭から差し込む光からしか、認識できない。




「すずめ、食事をとりましょう」




 許しを請うべきなのだろうか。

 すずめは、そう思いながら、ゆっくりと正臣に両手を伸ばした。1人で歩くこともできたけれど、すずめは正臣にその身をゆだねることを選んだ。

 それが、どんな結果を招こうと後悔はしないと思った。それは、この心の名前が理由だった。

 正臣が何かをオーブンから取り出した。その香ばしい香りが、胃を落ち着かせなくする。すずめは、キッチンの定位置である床に座り込み、食事が与えられるのを待っていた。




「何をしているんですか?こっちですよ」




 正臣の言葉に、すずめは顔を上げる。大理石の床の冷たさが、やっと体に馴染んだというのに、正臣はすずめを立ち上がらせた。足に負荷がかかって、恐怖から正臣にしがみついた。思ったほどの痛みはなかったが、それも怖かった。




「座って」




 高い椅子のアンバランスさに、すずめは落ち着きなく座り、届かない足をふらふらとさせた。地に足が付かない恐怖と、足が付かない安心感の間をふらふらさせる。それは、今のすずめの状態と同じだった。




「食べましょう」




 並べられたのは、ジャガイモのグラタン、サラダと、ローストチキン、それにパンだった。この家に来るまで、縁のなかった食べ物ばかりだ。すずめの知る食事とは、父の酒の匂いにまみれた肴と、スーパーで値引きされた消費期限ぎりぎりのカップラーメンと菓子パンだ。




「いただきます」




 すずめは、並べられたカトラリーを音をさせないように持ち上げた。

 すずめが食事を摂る様子を、微笑みながら正臣が見ていた。その瞳の奥がまるで、笑っていないことに、すずめは気づいていた。




「すずめ、おいしいですか?」

「……ぅん」




 わずかばかり口に入れて咀嚼しても、まるで砂を噛んでいるようだった。スカートをギュッと握りしめる。すずめは、この砂の味を知っていた。父と一緒に過ごしている間の食事の味だった。どうして、ここにいる間に、この味を忘れてしまっていたのだろうか。




「それにしては、食が進んでいませんね」




 まあ、構いませんが


 そう言いながら、美しい所作で正臣は食事を摂り始めた。貴族がいるなら、きっとこんな美しい所作でカトラリーを扱うのだろうなと思わせるような動きだ。

 正臣が食べ終わるまで、ほんの少しずつ肉を口に入れて咀嚼する。一緒に出された炭酸水をちびちびと飲むすずめに対して、正臣は何も言わずに赤ワインを口にしていた。すずめには知識がないけれど、きっと縁がないような高い銘柄のワインだ。




「すずめ?」




 いつの間にか、目の前から食事がなくなっている。正臣がいつの間にか片付けたのだろうか。ぼんやりとしていたことに気づいて、慌てて正臣に悟られないように顔を上げた。




「デザートは?」




 正臣に聞かれて、すずめは小さく首を振った。




「じゃあ、これは?」




 目の前に握りつぶされた紙が出されて、すずめは小さく息をのんだ。

 ああ、やっぱり、この名刺に正臣は気づいたのだ




「そ、それは」




 答えるよりも先に、正臣の手が振り上げられた。高い椅子から、すずめは転がり落ちる。足を庇うように体から落ちたせいで、体全体に痺れるような痛みが広がった。体を丸めたすずめのお腹に正臣の蹴りが入った。

 胃が搾り取られるように震えた。口に上ってきたのは、胃液と咀嚼したばかりの鶏肉の血の匂いだ。




「汚いな」

「ごめん、なさい」

「すずめ、これは何かな?」

「そ、れは、」




 また、一つお腹を蹴られる。意味もないのに反射的に子宮を守るように体を丸める。




「それは?」

「デパートの人が、勝手に」

「勝手に?」




 オウム返しされると、すずめは追いつめられている気持ちになった。




「私のこと、心配して、勝手に」




 すずめの髪が乱暴に引っ張られ、顔をあげさせられる。





「心配?こんなに大切にしているのに?」




 大切、その言葉にすずめの胸はギュッと掴まれたように痛んだ。確かに、正臣はすずめを大切にしてくれた。いい子にするすずめを大切に扱った。誰も、大切にしないすずめを、大事にしてくれた。




「食事を与え、傷の手当てをして、風呂に入れて、服を買って、愛情を与え、これだけ大切にして、心配?冗談じゃない」




 それならば、この痛みも愛情なのだろうか




「痛いですか?」

「……っ」




 すずめの涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を、両手で固定して正臣は笑った。今までで一番美しい微笑みだった。




「私も痛いですよ。すずめが裏切るから、痛くて堪らない」

「ごめんなさい、ごめんなさいっ。許してくださいっ」

「私は、こんなに胸が痛むのに、すずめは平気なんですね」

「ごめんなさい、正臣さん」




 手を伸ばすと、払われた。その瞬間、すずめは絶望した。正臣は振り払った手を、すずめに伸ばして首に手をかけた。息が出来なくて、顔がどんどん熱くなる。声も息もできなくて、すずめの視界は黒く暗く泣いていた。







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