第四十七話「獅子奮迅へと突き進め」
奇跡が起きた。巡り巡る思考の果てに、奇跡と思われる何かが起きた。
狼狽していたその瞳は灰燼に帰したかのように冷静になっている。
「……今の違和感は」
影が色付き笑みを零す。別人、別物、別格。
天上天下を体現した姿。常世、現世、幽世。
見たこともない怪物が果ての間から顔を見せる。
先程までとは打って変わって顔色を変える桜にバケモノ男は疑問を浮かべるも、すぐさま削ぎ落された腕を再生させ殴打の姿勢に入る。
「次は外さん」
対する桜は体に力を入れる様子もなくのらりくらりと歩き出し刀を振りかざす。その攻撃は目で追えるほどに鈍く遅い。
だが、それは紛れもなく攻勢と捉えるべき行動だった。不気味な速度に髪が揺れ、たまたま見えたその瞳はまるで現実から隔離されたように深い海の底の色をしていた。
バケモノ男がその目を見た瞬間から時の流れを忘れるような感覚に見舞われる。
1秒、2秒、3秒。見惚れるとも呆けるとも違う意図的に止められたような時の遅延。対処的行動すら忘れてしまう刹那の感覚に等しい。
「──ッ!?」
気づけばバケモノ男の右腕はあっさりと切り落とされ、鉄板のような焼ける地面に転がって蒸気と焦げる音を奏でていた。
「……これは」
二度目の奇跡、驚きを見せるバケモノ男。自身が繰り出した殴打は彼女に一撃も当たっていない。
それは新たな法則を得た理、完全なる叢書の賜物。本来あるべき死の根底が薄らいでいき、その胸には全ての未来を見通すラプラスの印が刻まれている。
確かな確信を以て、バケモノ男は自身と同格の存在が現れたことを視界に捉える。そして、沸き立つ闘争心が目の前の強者を屠ろうと訴えかける。
だが今はその時ではないと、まだ会敵には早すぎると、バケモノ男は自ら冷静にその土俵を降り立った。
「なるほど。これが愛夏の言っていた友人か、実に興味深い。……が、効力は既に発揮したといっていいだろう。これ以上の蛇足は不要だ、下がれ小さきラプラスよ」
バケモノ男が再生する腕を振り払うと同時に桜の背後に灯っていた金色のオーラは風に靡かれるように消え去る。
付与された加護は完全に消え去り、まるで魂が抜けたような空っぽの表情を見せる桜がその場に立ち尽くしていた。
「それに頼るのも悪くはない。だがお前自身が勝たなければ意味が無いだろう? 逃げるな、死から逃げるな」
全ての力を失った桜を前にバケモノ男は叱責する。
理不尽の塊は、それでもなお容赦をする気配を見せなかった。
◇◇◇
毒と熱に抗う力は失われ、酷い脱力感が襲ってくる。
僅かに残った切り札はあっさりと破られ、再度無力な自分へと逆戻りした。
思えばいつだって私は迷霧に飲まれていた。ゴールもないのに迷走して、道は消えたのに振り返って。
結局何も得られない、得てきた人生などどこにもない。
「……──」
拾い上げてもすぐに取りこぼして、残った僅かな雫すら諦めて両手を下げる。
今日はダメでも明日になれば何かがあるかもしれない。これだけ頑張っているんだから報われたっていいはずだと、報われなきゃダメなはずだと。
そうやって自分を肯定し続けなければいつか壊れてしまいそうだから、だからずっと命を天秤に賭ける怠惰を過ごしてきた。
「……──それでも、生きなきゃ」
世界が変わってくれることなんてあるはずもないのに。自分が変わらなければ自分の見ている世界が変わることもないはずなのに。
死んだっていいんだ、生きることが間違いだったと変わることを認めていった戦友達の顔の方が確かに今の私よりも良い顔をしていた気がする。
『生きるということはかくも普遍的な概念だ。それに挑むことは誰よりも辛く、そして万人に理解されないだろうね』
彼女には間違いなく先見の明があった。変化なんて個々の感情から訪れる希望の仮面を被った群像、常に変わっているのは世界ではなく人だったのだ。
「──明日を生きろ、東雲桜」
そして謳歌せよ、泥沼を這いずる人生を。
これから数多の理不尽と不条理が私を押しつぶそうと襲い掛かってくる。今この時でさえそれが私の前に立ちはだかっている。
だけど決してその頭を下げるな、決して諦めるな。力を抜いて終わりを受け入れるくらいならその苦痛を受け入れて力を入れ続けるんだ。
「──死ねない」
だって、私にも思い出があったから。
「──生きたい」
願いを口にできる過去があったから──!
ほんのわずかな出来事だったけど、記憶から消えてしまいそうなほど短い時間だったけど。それでも誰にも劣らないほど鮮明で印象に残る大切な思い出だった……!
まだまだ沢山生きていたい、こんなところで死にたくない。
例え明日が同じ日を繰り返す絶望だったとしても、それを変えられる実力が今の私には無かったとしても。それは私にとって"必要な明日"に違いはないんだ。
もう一度、あの心惹かれるような東雲の景色を見たい。
いつか、あの人が私にくれた桜が満開に咲き誇る景色を見たい。
ああ……そうだった。私にも叶えたい夢があったんだ、明日を生きる理由があったんだ。
どんなに苦しくても根を上げなかったのは、どんなに死がばら撒かれた世界でも生き抜こうとしたのは……まだ何も出来ていなかったから。自分のしたいことが、ただのひとつも叶えられていなかったから。
だから希望だけが渦巻いていたんだ。生きることに異常な執着心が湧いていたんだ。
本当は、こんなにも近くに答えがあったのに──。
「……は、はははっ……」
どこか吹っ切れたように笑みが零れた。
決意が過去にあったなんてつまらない結末に自分の愚かさを痛感する。その水は掬い落としていたわけじゃなく、本当はちゃんと飲み干していたことに今さらながら気づいた。
「そろそろ覚悟は決まったか?」
涙を流しながら笑う私にバケモノ男は首を鳴らす。
まるで自分の敗北を知らない男、理不尽の集合体。その姿を視界に捉え、片手で頬の涙を拭った。
「覚悟、ですか。そうですね──」
刀をバケモノ男に向け、再戦の意を示す。
毒と熱気で今にも死んでしまいそうな苦痛に抗いつつ、私は目を輝かせて一歩を踏み出した。
「──やれるものなら、やってみればいいじゃないですか」
「……なんだと」
噛み締める余裕もない癖に、私はそんな狂言を吐き捨てた。
彼女も、この男も、愛夏さんも、強者は常に戦いに置ける勝機を掴み取る際にその相手との絶対的な差が生まれるほどの余裕があった。
形から入るなんて物真似染みたことがしたいわけじゃない。ただこの男を倒すにはそれくらいの大言壮語が必要だと思った。
常に相手を越えているという思考、常に相手の上を行っているという確信。
そう、私がこの男に何もかも劣っているなんて勝手に決めつけて終わらせていたからその差は埋まらなかった。
勝っている部分がどこか必ずあるはずなのに、普段見せる絶対強者の風格がそのイメージを固定させてしまっていた。
自分が弱いと思っている思考に勝機なんて見出せない。
相手が強いと思っている感情に余裕なんて生まれない。
こちとら何年命のやり取りをしてきたと思ってるんですか。何年切り詰めた精神力で戦場に立ち続けたと思ってるんですか。
たかが人智を越えたくらいで、たかが不可能が立ちはだかったくらいで。それだけで私の命を狩れると思っているのなら、……ええ、やっぱり東雲桜は明日の景色も見れそうですね。
「聞こえませんでしたか?」
激しい戦闘の反動でズレていた桜のヘアピンが髪の汗に沿って落ちる。それは地面に着くことなく胸の辺りで燃え、桜色のオーラとなって一瞬だけ輝き消える。
そして微かな声が漏れ、闘気は瞬く間に怒号となって吹き荒れた。
「──!」
「やってみ"ろ"ッ"!! 叩き斬ってやるッ!!」
張り裂けるような咆哮を放ち、バケモノ男へ目掛けて地を蹴り飛翔する。
空中にて構えを取った私に反撃を見せるバケモノ男、しかし私は強行突破で刀を振り下ろす。
着地、振り下ろした一撃をバケモノ男は軽く避けるとすぐさま殴打を放ち私の左肩の骨を粉々に粉砕する。だがそれでも私は残った右腕で刀を握りしめバケモノ男の腹部に突き刺した。
一瞬驚くバケモノ男。しかしすぐさまその手で自らの腹部に刺さった刀を握りその場へ固定させると、もう片方の手のひらをこちらへ向けた。その手からは目を伏せるような眩い光と熱気がこちらまで伝わってくる。
一瞬の攻防で既に終わりを迎えようとする決着のカウントダウン──。
「フン、効かんぞ──」
「終わるかァァアアッ!!!」
「なにッ!?」
深淵の垣間見える外郭、途方もない感覚の末"色彩"は成し得られる。
外れた左腕を無理矢理バケモノ男に向け、巡り巡る細胞の隅々を凝縮させて二重の魔法陣を即座に形成する。そこからはバケモノ男と同じ眩い光と熱気に包まれた炎が浮かび上がる。
そしてバケモノ男よりも先に、間髪入れずにその魔法を発動させた。
「っはァァなァぁぁてェええェ"ッ"ッ"!!」
耳を劈くほどの大爆発が起きる。避けることもままならない状態でその魔法は確かに命中した。
刺さっていた刀は宙を舞い、私は反動で後方まで勢いよく飛ばされる。
「はぁ、はぁ……。……っ!」
直後、酔うような頭痛が全身を襲う。
毒のせいなのか、初めて魔法を使ったからなのか。視界が前後に揺れ始め足取りがおぼつかなくなる。
「堪え、なきゃ……。まだ、終わってないから……ッ!」
自分に言い聞かせるように全身に力を入れ続け落ちている刀を拾い上げる。
今しがた生まれて初めて魔法を使えたというのに、緊迫が続き感傷に浸る暇もない。
今どうやって使った──? どうすればもう一度使える──?
そんな自問自答をする暇もなく、爆発の煙が渦のように包まれていくのが見える。
そして勢いよく煙が吹き荒れたと同時に、視界が空いた。──そこにはもうバケモノ男の姿はない。
(いや、来てる──ッ!)
迫る影は地を崩しながら轟く。
息を整える刹那の間さえ与えない、透明になったバケモノ男が目にも止まらぬ速さで正拳突きを放つ。
突かれた一閃は自らの姿と同化するように透明な弾道を描き、壁に当たれば割れたガラスのように次元に穴が開く。そして放った当の本人は既に上空からカツオドリのように急転直下で落下している。
「──ッ!!」
今行っている行動が終わっていないのに次の行動が見えるという恐怖。体の重点をズラし正拳突きを回避した後にこれも躱し、躱したという実感が湧かないまま強靭な鉄拳が目の前を通り過ぎる。
そして回避に成功するも、向いた天井には既に魔法陣を10個は展開しているバケモノ男がその魔法を放出していた。
「──ッッッ!!!」
全身に信じられないほどの負荷を掛けその場から全力で脱兎する。鈍い音が極度に曲がった体を無理矢理修正する際に聞こえるが、その音が耳に入る頃には避けた先で格闘戦が始まる。
バケモノ男がフックをかませば地面が抉れ、上段蹴りを放てば空間が歪み陽炎が出来る。それによって爆風のような風が辺り一面を襲い、風の起こらない僅かな隙を見つけて攻撃を挟もうとすればそこから設置された魔弾が放出される。
視界も精神も脳も何もかもが置き去りにされた世界で、そのやり取りは瞬きよりも速く過ぎ去った。
「ハァァアアッッッ!!!」
バケモノ男の軽業染みた動きの隙を突き、下腹部から肺を斬り上げるように斬撃を繰り出す。
『昇り烈火斬』──。愛夏さんが前にバケモノ男の隙を突くことの出来ていた数少ない攻撃法。持ち手の左手を限界まで下に押し込み、てこの原理を利用して急速に振り上がる剣筋を残った右手で倍にして押し上げる。
動き自体は変わらずとも攻撃の速度は倍になる。自分の動きが読まれやすくなった中盤に置いて絶大な効果を発揮する奇襲のような一撃。
だがそれが決定打になることはない。斬撃は確かにバケモノ男の体に傷を付けるも、すぐに退かれ軽傷で済まされた。
「はぁ、っはぁ……っはぁ……」
私はここでようやく息を整える。今までの一連の行動にたった一度の呼吸すら許されなかった。
(脳が、ついていけない──!!)
理不尽な攻防に全身全霊でついて行く。
勝たなきゃいけない。負けるわけにはいかない。絶対に死ねない──。
なのに毒が身体中に張り巡らされてもう自由が利かなくなってきてる。息を吸っているはずなのに喉が焼けるような痛さに襲われ、息を吐いた時には嘔吐に近い不快感を覚える。
毒が、邪魔だ。
毒さえなければ息が出来るのに。
毒さえなければ。
毒さえなければ。
毒だけが邪魔なんだ。
毒が、毒が、毒が、毒が、毒が────!!
(邪魔だ、邪魔だ、邪魔だ、邪魔だ──。消えろ──!!)
極限まで張り詰めた精神が身体中を蝕んでいた毒素を上から押し潰す。細胞ひとつひとつが自身の意志に沿うように全てを壊して動き回る。
瞬間、それまで吐きそうな程に苦しかった体がまるで何も受け付けていないかのように軽くなる。毒という帳から解き放たれたように自然な呼吸が行えるようになり、苦痛という概念が頭の中からすっぽりと抜け落ちた。
「──それでいい」
自分でも何が起こったのか分からなかった。だけど体はその現象を引き起こしたことをその身に刻んでいる。
「はっはっはっ……!?」
突然自分の体に入り込んできた綺麗な空気に呼吸が乱れる。いいや、空気が綺麗なわけではない。綺麗だと錯覚している。入り込んできているのは毒素を含んだ空気なのに、それを害とせずに共存を果たしている。
その答えは簡単に導き出せた。
──私は、毒を防ぐ何らかの魔法を使ったのだ。
「俺は最初からお前に不可能など課していない。毒も熱も適合する魔法があれば防ぎきることが出来る。だが魔法とはなんだ? 理論か? 言霊か? 違う。魔法とは人の感性の到達点だ。お前がその毒からどうしても逃れたいと願い、抵抗し、抗うことで初めて効力は発揮される。そこに魔力という異分子が存在することで初めて魔法という抵抗剤が働きかけるわけだ。それは決して書物や訓練などで使用できるようになる偽りの魔法などではない、己が生み出していく正しき魔法だ」
傷の再生を終わらせたバケモノ男が流暢に話す。
魔法の原理原則は常に魔力と詠唱のタッグによって生成される。しかしそれは魔法という一つの技であり奇跡には程遠い産物の証明だ。だからこそ本物の魔法は理論に書き連ねられる物であってはならない。魔力だけを糧に己が欲して掴み取る真理でなければならない。
『モノクロの世界に閉じ込められた彩は果たしてどこにあるのか、それが答えだ』と。かつてこの屋敷の図書館で読んだ本にはそう書かれていた。
……そうか、愛夏さんがあの時魔法を使えたのって──。
「さぁ続きだ。お前はその魔法という無限の可能性を秘めた理解不能な奇跡をどこまで扱える? 試してみるといい、その全てを力に換えて──かかってこい」
「──はいッ!!」
鼓動する心臓が共に生の実感を湧き上がらせる。
残された力の全力を以て、私は再び刀を振り上げた。




