第四十三話「絶望」
酸素の毒性は酸素分圧によって中毒症状に差がある。分圧が高いほど中毒の危険性が増し、低ければある程度の時間は無症状に抑えられる。
この酸素はかなり濃度が高い、息を吸うだけでも吐き気が催す。それに辺りが高温状態だからかすぐに息が乱れ始め、その分より多くの呼吸を必要としてしまう。
これは、早めに決着をつけないとまずい──!
「はあぁぁ──ッ!!」
全身全霊、真っ向からの一太刀。初手の加減をすることなく私は刀を思いっきり振りかぶってバケモノ男に襲い掛かる。
しかしその剣先はバケモノ男の目線が左に向いた途端呼応するように左前方へと強引に引っ張られ、次の瞬間には見えない速さの打撃が腹部を直撃して体が宙を舞った。
「ぐ──ぁ……ッ!?」
感じたこともない吐き気と共に空中で嘔吐し、私はそのままそのまま地面へと転がった。
「あ"ッ……づ……ッ!?」
「地面の温度は120度だ、火傷じゃすまないぞ」
ガラス細工のような地面から異常なほどの熱性を感じる。
まるで焼いた鉄板に素手を擦りつけたような激痛が膝に伝わり、熱の影響で地面に皮膚がくっついて剥がれ落ちるように足の皮がむける。
こんなの、もし地面に両手を着くようなことがあればタダじゃすまない──!
「まだまだッ!」
私はもう一度刀を構えてバケモノ男に切りかかる。
今度はバケモノ男に接近すると同時に刀に構えた腕の力を少しだけ抑える。
バケモノ男は同じく視線を横に向けるが、それを見た私はすぐさま刀から手を放してバケモノ男に蹴りを放つ。
しかし離した刀が放物線を描くように私の背後を反転し蹴り上げた足を容赦なく切り裂く。
「あがァッ──!?」
驚く間もなく赤い血飛沫が自分の顔に付着する。
「思考が甘い。二重ではなく三重、四重と工夫しろ」
「ぐ"ッ──ぅうううあああ……はぁああアッ!!」
飛ばされる前に意地で拳を振りかぶる。しかし振り下ろす右手よりも遥かに早い速度で後方へと飛ばされ、飛ばされている最中に見えない殴打が襲ってくる。
攻防は二転三転と目まぐるしく繰り返され、受けに回る余裕もなく顔を両手でガードするくらいしか対処法がない。
腹部や膝に強靭な殴打を数発受けながらも、バケモノ男が視界から遠のいていくと同時に見えない攻撃は止んでいき、なんとか防ぎきる事に成功する。
しかし飛ばされた体が落ちる先は白く輝いた鉄板の地面、触れたら皮膚がただれ落ちる。
足の痛みで受け身が取れないと踏んだ私は切られた足の血を両手に塗りたくり、その水分を利用して一瞬だけ地面に両手を着きすぐに起き上がった。
「はぁ、はぁ……」
「まだ2撃目だぞ、もう息切れか」
遠くから響くような声で佇むバケモノ男、次の瞬間には幻でも見ていたかのように目の前に現れる。
彼の表情は一切変わらず、熱の影響も毒の影響もまるで意に介していない。
本当に生き物なのか疑うレベルだ。
「まだ……まだ全然いけますっ!」
「なら来い」
バケモノ男はそう言って指を鳴らすと、私の刀が目の前まで飛んでくる。まるで刀自体が意志を持ったように、氷の様な地面へと突き刺さる。
その刀を両手で抜き取り、同時に荒れた呼吸を整え、前を向く。吐いた息は陽炎に歪み消え、夢心地のような朦朧が頭を襲う。
既に全身からは滝のように汗が流れ、目は毒で痙攣し視界が定まらない。
──それでも、足を動かした。
「ぁぁ──はァあああッ!!」
声を荒げ、息を吐き、目の前の怪物を仕留めに走る。
腰に添えていた拳銃を素早く取り出し、視界から一歩も動かない彼の足元に打ち込む。
弾丸は足に届く寸前で効力を失ったかのように停止し、転がるように落ちていく。バケモノ男のため息が零れそうになる瞬間、私は隠し持っていた特殊スモーク弾を投げつける。
「ほう」
スモーク弾が起動し辺り一帯を煙で包む。しかしバケモノ男は様子を見るばかりでその場から一歩も動かない。
私は攻撃される直前までバケモノ男に近づくフリをし、ヴァンクール帝国製の拡散式音爆弾を彼の頭上に投げ入れる。
そしてすぐに耳を塞ぎ場を離れた。
既に目の前は煙で包まれ、奥から爆音が響き渡る。それと同時に煙の中からくっきりとバケモノ男の姿が浮かんできた。
特殊スモーク弾は特定の物質に当たると色を変色させる機能を持つ。それでいて相手からの視界は煙で完全に隠れる戦争御用達の品。
「これなら──!」
刀を握り締め、弧を描くようにバケモノ男へと襲い掛かる。
聴覚と視界を遮断された今なら一撃くらいは与えられるはず──!
「……ッ」
息を殺し、出来るだけ足音を消して接近する。
彼との間合いに入りつつ背を狙い、間違いなく奇襲を制する一撃を大振りと共に飛び掛かる。
渾身の一振りが空を切り裂いた。
「──ッ!」
だが刀を振り下ろす直前、それを予知していたように振り返ったバケモノ男と目が合った。
「戦術の否定はせん。だが全くもって無力だ」
直後、腹部が凹んだ。
自分でもそれが見えたのは、体がコの字に折り曲げられていたからだろう。
反射的に口から飛び出る大量の血に、腹部の痛みなど感じる事もなかった。
「──ぶあ"ッ!!」
思いっきり吐き出した血が一瞬で遠のくほどに強く吹き飛ばされ、体勢を立て直せる力もなく地面へと転がった。
そう、転がってしまった。
「あ、あ、あ"あ"あ"ッ……あッ、ああ"……ぅッあ"あ"あ"ッ……」
吐血しながら悲鳴を上げる。抑えきれない痛みが全身を襲う。
一枚、また一枚と地面を転がるたびに皮が剥けていく。服も顔も体も髪の毛さえも全てが張り付いたように地面に接着され、乾いた熱が溶かすように皮膚を持っていく。
それは重い痛みではなく、神経を刺激された時の様な軽く響く痛みだった。
やがて壁のような所にぶつかると、背中から尋常じゃない熱さがこみ上げてくる。
いや、もう熱いではなく痛いだった。それは針に突き刺された感覚に等しい。
「……うぁ、あぁ……ッ」
フラフラとおぼつかない足取りで近くに落ちていた自分の刀を取り、それを支えに残された体力で何とかその場に立ち続ける。
地面に膝を突いたらそれこそおしまいだ。
「はぁ、はぁ……ぃ、えない……」
無意味な、感情にまかせた言葉が口から漏れ出る。
遠くに見える煙の中から人の形が消ると、バケモノ男は目の前まで瞬間移動してきた。
そしてつまらなそうな顔で私を見る。
「視界を封じても音を掻き消しても俺には何一つ通じないぞ」
あたかもそれが答えだと、平然と告げる。そんな言葉を言われて何になるのかと唇を噛む。
はっきり言って冗談じゃなかった、こんなことがそもそも修行になるのかと疑いすら持った。ただ苦痛なだけの答えのない戦いに苛つきさえ覚える。
「……じゃあどうしろって、どうやって勝てって言うんですかッ!」
皮の剥けた右手を抑え、怒号を連ねるように吼えた。
勝てるわけがない、当てられるわけがない。この男にはただの一撃さえ加えられない、近づく事さえできない。
目の前にいるはずのバケモノ男はまるでデコイの様な、本来そこには存在してないようにすら感じてしまう。
一撃当てれば終わり? 違う、一撃も当てなければいけない。それがどれほど遠く、険しい物なのか本人はきっと分かっていない。
私は自分の無力を噛み締めるよりも先に、不条理極まりない目の前の存在に顔を歪ませた。
「……そうか」
少しばかりの間が空いた後、バケモノ男は背を向け歩き出す。
「どうやら修行の内容が良くなかったみたいだな。では少しばかり内容を変更しよう。俺に一撃食らわせる、というのは撤回する」
その言葉を聞いて、ようやく全身から力が抜けた。
心の中で安堵が生まれる。助かったと、気が抜けた。
この苦しみからほんの少しでも早く抜け出せるなら何でもいい。とにかくもう逃げたい、生きたい。
早く、早く終わらせて──。
「──俺を殺せたら終わりにしよう」
「………………は……?」
動揺で視界が暗転する。
大きく吸った空気が肺を蝕み、苦しく咳き込む。
「は、はは……っケホッ、ケホッ……!」
野垂れるように頭を下げ、濁流のように流れ出る汗と共に地面を見つめた。
熱気を帯びた透明な地面に自分の顔が反射する。
見たことないほど顔が引きつって、歯が見えている。そんな感情では到底言い表せないような表情を浮かべたまま、私はバケモノ男を睨みつけた。
「……ふ、ふざけないでください!! そんなの出来るわけっ、ケホッ! できるわけッ、ないじゃないですか! 私はっ、私は人間なんですよ!! 愛夏さん見たいな人外じゃないんです! あなたの物差しで測れる域に私はいないんですよ!!」
それがただの悪い冗談なら苦笑いだけで済ませられる。
だがこの男は嘘を吐かない、嘘を嫌っている。そんな男が真面目な顔で言った言葉がこれだ。本気でそれをやれと、殺してみろと言っている。
声が裏返るほどの私の訴えを聞いて、バケモノ男は笑って答えた。
「ならばそのまま死ぬといい。どのみちその毒ではもう30分と持たないだろう。生きるという目的を掲げながら死を目の当たりにして無様に死に絶えるがいい」
鬼のような、鬼より恐ろしい答えが返ってきた。
望んでいた結末を根底から否定され、伝えた真意をいとも簡単に裏切られる。
私は絶望に染まった顔で足を後退させた。
「人の、感情を持つ生物のすることじゃない……ッ」
「何を言ってる? 俺は人でも無ければ聖人でもないぞ。むしろお前如き人間という下等種族が俺の視界内で生きている事自体幸運に思うべきことだ」
バケモノ男は見下すように嘲笑する。
その笑いは強者だから出来る、強者だから余裕があるんだ。弱者にはその笑いは絶対に生まれてこない。
「私はッ、人間には、限界があるんです……! 成長なんて微差でしかない。どれだけ修練しようとも人の域を越えることはない。それが出来るのは元から人間じゃない人達だけ!! 私の力量を知っていてどうしてそんな答えが出てくるんですか!? どうして出来ると思うんですか!? どうしてやれって言うんですか!? どうして、どうして……」
息を乱しながら膝に手をつき喚く。
勝てるわけがない、一撃だって与えられなかったのに。最初からそれが出来たなら何もかも本末転倒だ。
あの愛夏さんですら手も足も出ないような相手。時間を止め、空間を操り、攻撃も効かず、防御も出来ない攻撃を仕掛けてくる。あまつさえ常日頃から宙に浮き、まるで核が無いとばかりに複数に分身するような男。
そんな理不尽の集合体みたいなこの男を殺せって──?
「……ッ、ッ……っ……うっ、ぅ……ッ」
滝のように流れる涙と鼻水を拭き取る余裕もなく、ただ地面にだけは両手を着くまいとガクガク震える膝を必死に手で押さえる。
ポタポタと垂れていく雫が地面に落ちて蒸発していく。迫りくる死の恐怖と毒による苦痛だけが全身を蝕んでいき、次の行動をまともに考える事すら出来ない。
未来がない、明日が見えない。切り開くすべも打開する策もない。
地獄、まるで地獄だ──。
「人間らしい戯言がよく出てくるじゃないか。ならば貴様はどうする? 喚き泣き叫び朽ち果てるか? 俺に許しを乞う為に必死に頭を下げるか? 面白い光景でも見せて興を紛らわすか? 好きなものを選びたまえ」
バケモノ男は無慈悲にそう告げた。
心が折れ、降参の意を示しているのに逃げ場すら与えてくれない。出された選択肢はつまるところ全て無意味だと先手を打たれる。
身体が限界を迎える。脳が苦痛からの脱却を叫んでいる。死を選ぼうとしている。
──ああ、失敗だった。思えば最初から間違っていた。何かもダメだった。
今日まで生きてきて何一つとしてろくな人生じゃなかった。戦争の世に生まれ、命懸けの戦いを強いられ、それでようやく勝ってもまた次の戦争に行かされる。支給される食事は不味く、命に見合うほどの待遇をされることもない。遊戯もなければ趣味すら見つける時間もない。
こんなことで何かを夢見るなんて大層なことだって知っていたのに、過去の自分はそれでも出来るなんて勘違いしていた。本当の苦痛を、理不尽を知ったら戦う意志を無くし武器を捨てて泣き喚く、そんな無力な自分を想定するべきだった。まだ何の苦痛も知らないから出来るって思い込んで、後に引き下がれない状況になってもどこかに逃げ場が無いかと助け船を探し出す。
逃げてばかりの性格に区切りを付けようと決断したはずだったのに、結局何も変わってない。
本当に、ろくな人生じゃなかった。
もう少し、強い自分になりたかった。
「……まぁ、所詮はこんなものか」
戦意を喪失した私にため息交じりで呆れ果てるバケモノ男。そして呆れた相手に情などかけるはずもなく、棒立ちした私を仕留めようと拳を握りしめて大きく振りかぶる。
(ああ、もういいや……)
持っていた刀を地面に落とし、脳内を駆け巡る走馬灯に身を窶す。
それがこの時の私にとっての、最後の意志だった。




