第三十四話「死と云う概念」
夕焼けの日差しが屋敷の窓に入り込み、影と光で部屋を照らしていく。
バケモノ男と呼ばれる彼は一人、ティーカップに入っている真っ赤な紅茶を眺めていた。
「やぁ。キミのお気に入りに挨拶してきたよ」
屋敷の扉が開く音はしない、窓が壊れる音もしない。
まるですり抜けてきたかのように聞こえたその声は、かつて死闘を繰り広げた一人の怪物。
紅茶の水面に映る自分から視線を上げ。長いテーブルの先を見ると、まるで小学生のような少女ナイアが座っていた。
「……なんだ、戦わなかったのか」
全てを見通す陥落の反応。バケモノ男による第一声の言葉は久方ぶりに会った者とは思えない異常性、そしてそれもこの場では極々自然となし得流れてしまう非常性。
ナイアは少し微笑んだ顔つきで窓の先、夕焼けを見つめる。
「やだなぁ……勝敗の決まっている戦いをするほど野暮じゃないんだ」
それはあまりに強くなり過ぎたが故の判断。結果の分かる戦いに意味など無い、結果の分かる反応に面白味など無い。きっとそう思っているのだろう。
ナイアは人間の揺れ動く感情が好きだ。効率的でも、理屈的でもない。感情で行動すると言う予測不可能な人間と言う存在。それを見て楽しむのが彼女の遊戯だったのかもしれない。
だがそれもとうの昔の事。今の彼女は人類に対して特に退屈そうで、何の興味も示していない。きっと知りすぎてしまったのだろう、人間と言う本質の全てを。
──だからこそ興味を抱いてしまったのだろう。愛夏と言う異端の存在を。
「酔狂なお前でも無駄な事はしないのか」
「うん、特に負ける戦いはしたくないかな」
その顔は少し悲しそうな、嬉しそうな表情をしていた。
期待の込められた悲哀の表情ではっきりと口ずさむ負けと言う単語。誰の口から出ている言葉なのか、きっとナイアを知っている人物が聞いたら冗談かと顔をしかめてしまうほどに信じられない単語だ。
「お前の口から敗北宣言とはな。物珍しい事もあるものだ」
ナイアはこれでも神の使者、創造神ミトロジーの子供だ。戦いにおいて敗北する事などどうあっても考えられない。そもそも戦いにすらならないのが普通だ、ただの人間が神の使いに勝てる道理はない。
無論。ただの人間だったら、の話だが。
「殺すのは簡単さ、実力も私の方が上。──でも勝てない。いいや、勝ち負けなんてあの子の中では関係ないのかもね。きっとあの子はその身が死んだとしてもありとあらゆる理を打ち砕いて、再びこの地に戻ってくる」
「虚言を」
「あはは、私もそう思うよ。……でも感じたんだ、あの子の首を切った時に。絶対に死なない、絶対に諦めない。死の淵からでも這い上がってきてやるって……。胴体と切り離されたその首が、目が、私を捉えて離さなかった。死が確立されたその瞬間までも私を殺そうと頭を動かしていたんだ」
そう、愛夏は決してその瞬間まで諦めると言う選択を選ばなかった。首が切られ、胴体と隔離されてもなお戦慄を覚えず僅かな可能性の攻撃を振るおうとしていた。
言葉にすると実におかしな冗談だ。だが、その言葉を聞いてほんの少しだけ口元が緩んだ。
「そうか」
一言添えて再び紅茶を飲む。彼女の話に対して反応が薄いのはいつものことであり、ナイアもそれを重々理解している。
「あははは。正直怖かったよ、この私が恐怖なんて感情を抱いたのはいつ以来だろうね?」
いつもは格下の相手を小馬鹿にする彼女が発する意見だ、信憑性は薄い。
それでも、その反応を上塗りするかのように無感情に笑う彼女を見れば本当に怖かったのだと伝わってくる。神の子にも恐怖なんて感情があるのかと失笑しそうだ。
飲み干して空になったカップを見つめ、大昔のちっぽけな過去を思い出す。──そうだ、そうじゃなくちゃいけない。
「──でも、いいの? このままだとあの子は絶対に這い上がってくるよ、……キミの足元まで」
不気味に笑っていた俺を咎めるように、ナイアは嘘偽りのない真実を突き付けてきた。
確かにあの異常な成長速度、異常なまでの精神力。そして常識に囚われない奇想天外な行動。どれをとっても凡庸に終わるはずがない。きっと際限を知らないまま昇り続けてくるはずだ。
そしていつかは俺の目線が上がるだろう。
そしてそれこそが──。
「それがもとより望んでいた事だ」
「うーんキミの考えも読めないなぁ」
数百年関わり続けても分からない真意に勘ぐるのを諦めるような表情が窺える。それだけでナイアは好意を抱くに相応しい存在と相対しているのだろう。未知とは知れる可能性があると言う事でもある。
「じゃあ私は母さんに挨拶して帰るね」
「ああ」
本当に短い会話を終え、最後に一言添えるとナイアは不気味な彩色を並べて音も無く消え去っていった。
外は夕暮れに差し掛かる時間、未だにエントランスの扉は開かない。
──ミットには紅茶の替えを頼まないといけないな。
◇◇◇
「──……はっ!?」
私は目が覚めると飛び上がるように身を起こす。ついては何よりも体を起こした事に驚いた。
そしてすぐさま首元に手を移す。くっついているか幾度もさすって確認する。
「首……取れてない……」
呆然として再び崩れるように座り込む。あの命を抜き取られるような感覚はもうしない。
「誰も……いない……?」
まるで夢でも見ていたかのように、辺りには静かな風が通り過ぎるだけだった。
確かに捉えたナイアの首、確かに切られた私の首。その記憶だけで少なくとも私が勝ったと言う事実は残らないほどに鮮明な敗北。
負けて、死んだのか。それともバケモノ男と同様に死んでも生き返る魔法でも使えたのか……。
今ある状況に様々な疑問を抱いて錯乱しそうになる。
最もな疑問は私を殺せる状況にありながら、こうして傷一つ付けずに生かして自らの姿をくらました事だ。
私なんかでは相手にすらならないと言う意味なのか、それとも誰かが助けに来てくれたのか。あの首をそぎ落とされた状態で? そんなことが出来るのはバケモノ男程度しか私は知らない。
そもそもバケモノ男は私を助けるような真似は絶対にしない、したのなら私がこの手で身を削ぎ落としている。
「いつものことだけど、考えるだけ無駄ね」
強者の考える事はよくわからないなぁと自分を納得させ、腰を上げる。
随分と寝ていたらしく空を見ればもう真っ暗だ。夜までに帰るなんて自信もって言っていた自分が恥ずかしい、門限を守ることさえ出来なかった。
今回の敗北は反省点だ。例え勝てない相手だとしても傷の一つも付けられないなんて精進していない証拠。
──っと、長く考え込んでしまった。今朝は沢山湧いて出ていた魔物、神話生物とも一切出くわすことはなくそのまま屋敷へと到着した。
重く、固い扉をゆっくりと押す。その扉を開けるのは初めてあの男に復讐しに来た時以来、二度目だ。
「久々の外はどうだった?」
真っ先に声を掛けてきたのはその屋敷の主、バケモノ男。彼はテーブルの奥で一人、紅茶を嗜んでいた。
「死ぬかと思ったわ」
「死んだだろう」
全てを見透かしたように放たれたその一言を貰って、ようやく答えが分かった気がした。
「死んだような感じがしたわ」
「ふむ、及第点だ。今日はもう休んでいいぞ」
そう言ってバケモノ男は紅茶を飲み終えると、ふっと目の前から姿を消した。
同時にすっと肩の荷が下りて疲れが襲ってくる。あんな体験はもうごめんだ、本当に終わった気がした。
深いため息をついて土だらけになった頭を掻く。もう部屋に戻ってお風呂入って寝よう、今日ばかりはそんな堕落的な思考を抱こう。
そう思って階段を登ろうとしたとき、ふと自分に向けられてる視線に気が付いた。
バケモノ男の用事が終わるのを待っていたのか、エントランスの陰からひょっこりと出てきた桜が足音を立てずに私に向かって声を掛ける。
「あの、愛夏さん。ひとつ頼みがあるのですが」
「何?」
突然話しかけられた私も背後を見せたまま平然と返事をする。気配で誰がどこにいるかなどはある程度把握できているつもりだ。
エントランスに無数の数立てかけられている鏡から桜の表情を見る、口調こそ変わらないもののやはり遊戯神との一件以来凛とした顔つきになっていて生気も十分だ。もう精神的な面ではそこらの人間とは比にならないくらいに成長している様だった。
だからこそ。いや、それでもその流れに乗るように出てきた一言は私も少しばかり驚いた。
「──私と一戦だけ、相手しては貰えないでしょうか?」




