第八話
「ふん、お客人、そりゃ狸にでも化かされたんじゃろう」
竜興老人の反応は素っ気なかった。草苅記者は夕飯の春巻きを頬張りながら言いつのる。
「そんなことないって! 本物の宇宙人だったんだから! 写真だって山ほどあるのよ! ほら見て、これ見て!」
言ってデジカメの背面液晶を見せようとするが、竜興老人はうるさそうに箸を振って拒む。
「いま老眼鏡がないからよう見えん。それにワシはこの目で見たもんしか信じん」
「ううん、世紀の大スクープなのよ、三倍ピュリッツァー賞なのよ、私も売れっ子ジャーナリストになっちゃうんだからね」
「三倍……?」
と首をかしげる水穂。
「それよりお客人、泊まってかれるんかい」
その問いにはするどく首を振る。
「いいえ! ご飯食べたらすぐ東京に戻ります! タクシー呼べるんですよね?」
「呼べるけど、営業所からここまでの料金もかかりますよ」
そう割り込んでくるのは水穂の母、瑛子である。
夕飯はといえば酢豚と春巻。酢豚にはバルサミコ酢が使われ、大皿全体をセージとオレガノで囲んでおり、タレは牛から取っただしを加えたソースで西洋風になっている。春巻の具は挽き肉にブロッコリーのスプラウト。あるいは黄ニラとマグロの血合い。そしてアボガドとカッテージチーズという三種類である。見た目が中華ながら西洋料理という趣向であった。草苅記者は味をまったく意識していないが。
「お金なんかどうでもいいの! 今すぐ記事にして、ついでに本にもするんだから! 印税が百億ドルぐらい入るのよ! たぶん!」
「よければ、隣町の駅まで送迎サービスやってますよ、私の車になりますけど」
「あ、そうなの? じゃあ頼もうかな」
しばしの後、外で待つ。
時刻は20時過ぎ、あの山でもっと長時間過ごしたような気がするが、帰ってきたら夕飯時を少し過ぎた程度だった。なんだか色々と奇妙な感覚があるが、宇宙人に出会ったことで興奮しきっており、細かなことまで思考が及ばない。
「車ってこの軽トラかな」
タイヤが泥まみれになっており、助手席には電線やら工具やらが入った段ボールが置いてある。ネットカフェだから機械関係の作業もあるのだろうか。
草苅記者ははてと思う。すると自分は荷台に乗るのだろうか。まあ星空を見ながら揺られていくのも悪くないかと思っていると。
がぼぼぼ、と騒々しい音が背後に響く。
振り向くとどこに駐めてあったのか、何やらシャープな造形をした平べったい車が来ていた。瑛子が左側の窓を開けて顔を出す。
「どうぞ、右から乗ってください」
「ああこれ、スズキのスイフトね、うちの若い子も乗ってる」
「ブガッティですよ」
その声には多少こわばった響きが混ざっていたが、草苅記者は気づきもしない。
そして夜道を走る。
「なんかめっちゃうるさいんだけどこの車」
「ちょっと吸気をいじってるから。足回りも強化して剛性も補強して、タイヤは変えたくなかったんだけど妥協してオフロード仕様に」
「オフロード仕様なのね、どうりでビーチサンダルみたいな形してるなと」
「車の話やめましょう」
瑛子は黒の革手袋をはめて、めまぐるしいアクセルワークを駆使しつつ走る。夜の村は静まっており、梅雨を前にそろそろ鳴き交わし始める蛙たちが、ブガッティの爆音に恐れをなして泥に潜る。
「なんだか変わった村よねココって。陸の孤島なのにみんな元気そうで。人口はそこそこいるのに、ガードレールがなかったり土の道が多かったりで古くさい感じもあって」
「土の道も悪くないですよ。温もりがあるし。走りにくいのは気になりますけど」
「でもなんだかチグハグというか……神社の祭神が龍神ってことは特に縁起とかないってことでしょ、それなのに弘法大師と関わりがあったり、なんというか……」
草苅記者はデジカメをいじっていた。何とはなしに撮影した村の情景が次々と写し出され、そこに記録された風景、建物、人の姿をつらつらと見て、ふと言葉が浮かぶ。
「そう、作り物っぽい感じ……映画の撮影のためにこしらえた村みたいな」
ふとエンジンの音が変わり、ギアが低速に変わる。脇を見れば瑛子がこちらを見ていた。
「あ、ごめんなさい、悪く言うつもりはないの」
「……まったく無能でもないのかしら」
「え、何か言った?」
ブガッティのエンジン音によって、互いの呟きは耳に届かない。
次に瑛子が言った「べつに」という言葉もやはり聞こえなかった。車はまた速度を上げる。
やがて道は左右にうねる峠道となり、ヘッドライトが山並みを切り裂いて走る。
「ねえ、窓開けていい?」
「いいですよ」
助手席側から風が吹き込む、しかし虫の音など爆音でとうてい聞こえない、草苅記者は少しだけ身を乗り出して外を眺め、またシャッターを切る。
そして十数分後、峠を越えた辺りで数キロぶりの赤信号に止まった。瑛子が声をかける。
「ところで、いい景色は撮れましたか?」
「え? ああ、全然ダメだったわ」
草苅記者はデジカメをひらひらと振ってみせる。
「でかい杉の木だとか、古い神社だとかそれだけ。こんなんじゃ観光パンフレットしか作れないわよ。編集長にどやされるわ」
「残念でしたね、まあ何もない村ですから」
瑛子はどことなく満足したような、それとも何かしら失望したような表情を一瞬だけ浮かべ、またアクセルを踏み込んで峠を下っていく。
22時を回り、村は誰もが寝静まる時刻。
しかし峠を越えた隣町にはまだ灯がともっていた。
草苅記者はまたデジカメを確認し、ろくな写真がないことに落ち込むと、へこたれてなるものかとばかりに窓の外を見上げる。
ブガッティの爆音の中でも、田舎の星空はどこか物静かに思えた。
※
「送ってきたわ」
瑛子が帰ってきたのは深夜である。寝巻きに着替えていた水穂が、玄関まで出てきて出迎える。
「おかえり、どうだった?」
「問題ないわ、結界を出てしまえば何も残らないんだから、そんなこと心配してたの?」
「ううん、ただちょっと、明るくて楽しい感じの人だったから、かわいそうだなって」
「そうかしら? 考え方次第よ。流れの者のことなんて早く忘れた方がいいのよ」
瑛子は革手袋を脱ぎ、水穂の頭をぽんと叩く。
「お母さん、家事を片付けたらタツガシラ電波観測所に行くわね。お店はお爺ちゃんとレーテに任せて寝なさい」
「うん、夕飯の後片付けならやっといたよ、お店の掃除も」
「あらそう、じゃあ帳簿だけやればいいわね」
水穂は階段を登る。
「カスタネット」は全体として西側が店舗であり、東側が家族の生活スペースになっている。それは二階も同じであり、廊下に設置された腰の高さの柵扉を開け、東側奥へ向かえば突き当たりが水穂の部屋だ。
後ろ手に扉を閉めるその瞬間。勉強机から音がする。
「!」
机に飛び付き、引き出しに入れていた電話機を手に窓を押し開け、跳ぶように外に踊り出る。一階のひさし部分の屋根から、さらに壁面を器用に登って二階の屋根に。
瓦屋根はまだ日中の陽気を残してほんのりと温かい。
店の周囲に人がいないことを確認し、電話機を両手で包んで秘密めいて話す。
「お父さん?」
『はい』
「珍しいね、一日に二回も話すなんて」
『さっきはこちらも余裕がなかったんです。今も色々と忙しくて、話せるのは少しだけですが』
父は追われていると聞いていた。
ほんの数分の会話ですら危険なほどの状況らしいが、水穂には村の外の状況はよくわからない。
それによって決められたルールがひとつ。水穂から電話をかけるのは、週に一度だけというものだ。そして通話はいつも短い時間で切れてしまう。
『みんな元気にしてますか』
「うん、お爺ちゃんもお母さんも、レーテも元気だよ」
『よかった。それと勉強はどうですか』
「大丈夫だよ」
まるで普通の父親のよう、水穂はそのように思う。
勉強の話、友達の話、村の天気の話、そんな会話を短いやり取りで続ける。
「ねえ、お父さん」
『はい』
「……村に帰ってこれないの?」
『今は無理です。これから南極に行くんですよ、虹色の牙を持った、戦艦みたいに大きなセイウチを退治しに行くんです』
父の言葉はいつもとりとめがない、その声には浮世離れした響きがあり、すべてが虚構のような、あるいは本当はもっと途徹もない事態が起きている、という気もする。
「どうしてお父さんが退治するの」
『そういう役目があるからです』
「なぜ退治するの」
『危険なものなら排除して、価値あるものなら手に入れる。そうして力を得なければならないのです』
「力を手にいれて、何をするの」
『……』
無音が降りる。
言葉を探すような、時が前進を恐れるかのような一瞬。
父、枯滝路はしばらくの沈黙の後。
娘に向けるには少し寂しげな、謝罪のような調子で静かに語る。
『――私は、未知なるものに出会いたかった』
『この世界にはたくさんの出会いがあります。友人との出会い、恩師との出会い、恋人との出会い。そしてヒトという種にも出会いはある。ヒトという生き物がたった1度だけ経験する、輝かしい出会いがあるのです。それがファーストコンタクト、未知なるものとの遭遇なのです』
『ですが地球はそうではなかった。誰かが作り上げた悪魔じみた仕組み、根乃己に存在するREVOLVEシステム。私はそれを壊したい。世界に正しい出会いをもたらしたいのです』
夜は深まる。父が北半球にいるならば、この夜空を父も見上げているだろうか。
枯滝路、なんと矛盾した存在だろうかと悲しくなる。
彼が壊したいという根乃己の村、まさに彼はそこで生まれたのに。この地球で、REVOLVEシステムに守られているのは父だって同じはずなのに。
「そうなんだね、だから、だからお父さんは……」
「世界の敵に、なってしまったんだね……」




