第六十三話
※
「う……」
喫茶「ブラジル」の店内にて、床の上で目を覚ますのは草苅記者。
「あれ……なんで、いつの間に眠って……」
そこで気づく、胸元に花がある。椿に似た赤い花だ。
それは生花ではなく潰れている。紙で折った花だと分かる。
そして椅子も倒れているし何だか背中と肩が痛い。推測するにテーブルに突っ伏して寝ていたが、何かのはずみで床に落ち、その時にこの花を押しつぶしたのか。
「大貫さん、他のみんなも」
水穂の友人の二人と、大柄な店主はテーブルに突っ伏して寝ている。その体には赤い花。こちらは外見上は生花に見えた。
「……折り紙の花」
そこでふと気づく。握っていた折り紙に何か書いてある。
――人を眠らせる摩旦花折りの花です。昔、お父さんから習いました。勝手に眠らせてごめんなさい。
「水穂ちゃん……」
父から預かっていた折り紙という可能性もあるが、それは違うだろう。
やはり目覚めていたのだ、折り紙の技に。
「水穂ちゃん、カスタネットへ行ったのね」
外へ出てみる。なぜか黒煙が上がっているが、激しい音などはない。戦闘が起きたのだろうか。
おそらく今から追いかけても間に合わない。
水穂は父親に会いに行くのだろうか。人類の切り札とも言われる父に、覚えたての折り紙の技で渡り合えるのだろうか。
「いいえ、そうじゃないわね、喧嘩しちゃダメなのよ、水穂ちゃん……」
カスタネットの空には幾筋もの黒煙が立ち上り、それらは山の高さを超えるあたりで東へと吹き流されていく。上空には強い風が吹いているようだ。
「話して、分かり合わないといけないのよ……」
※
「一番おかしいのは、お父さんが人間を攻撃できないこと」
「……」
枯滝路は動けずにいる。
何らかの折り紙で水穂の動きを止められないか、この場から一時的に退避できないか、黒鉾を防ぐような防壁を築けないか。
それらは試みる瞬間に無効化される。
弓を離れる前から影響は起きている。枯滝水穂が手を離したなら、その狙いに従って絶対に当たる。その確信からは枯滝路といえど逃れられない。
「お父さんは何でもできるのに、なぜか攻撃だけはできない。何かのトラウマだというには不自然。お父さんなら相手を傷つけずに排除するなんて簡単なはず」
それを聞いて、瑛子は夫の背中をちらと見る。
確かにそうだ。彼なら殺さないように対応する方法はいくらでもあるはず。
彼は人間を殺せないのではなく攻撃できないのだ。拘束、打撃、洗脳や意識喪失ができないという意味か。
――なぜ?
「お父さんのそれは不自然なんだよ。あまりにも露骨な弱点。まるで誰かに与えられたみたいに」
「……おかしなことを言うんだね、水穂」
枯滝路は憮然とした顔になる。
「誰かに負わされた弱点だと言うのですか? 私に催眠暗示を与えられる者など存在しない。それともまさか、この世界は誰かが作った物語であり、私は創造者からそのような弱点を与えられているとでも? 強すぎる私が物語のバランスを崩さないように? 下らない妄想ですよ」
「いるよ、たった一人だけ、お父さんに暗示を刻める人が」
「誰がいるというのです」
「それはお父さん、あなた自身」
瑛子が息を呑む。
発言は奇妙だったが、何かしらの核心に迫っている気配がある。枯滝路の背中がそう言っている。
「私が? 自分で自分に暗示をかけたとでも」
「違うよ」
声が緊張をはらむ。高い声がカスタネットの建物で反射して拡散する。
枯滝路の気配は水穂にも何かを悟らせたようだ。
やはり真実なのだと。
当たってほしくない推測が当たった顔だと瑛子は理解する。苦々しく重い、艱難辛苦を噛み砕くような顔。
「あなたは、お父さんが創ったお父さん」
――!!
瑛子が戦慄する。
そして瑛子の中でもいくつかの情報が結びつく。
枯滝路は折り紙から生命を生み出せる。
その生命は知性を持ち、不可思議な能力も持つ。
ではあるいは。
枯滝路という人間すらも生み出せるとしたら。
「人間はコンピュータを生んだよ。生まれた当初から掛け算を人間より早く解けた。時代が下るごとに性能を増して、いくつかの知的分野で人間を超えてきた」
「……」
「そしていつか「コンピュータを創る」分野でも超えるんだよ。折り紙で何でも生み出せる人なら、自分より優れた人すらも生み出せる。お父さんならそんなことすら可能にする」
沈黙。
枯滝路、この黒コートの男は、目の前の水穂をじっと見つめる。感情を押し殺すような静かな眼差し。
高まっていく不安定な気配。
「……分かっているのですか。水穂」
その言葉は硬く冷ややかで、もはや娘とはいえ看過できないという意志と。
ごく僅かな、哀れみの色を備えていた。
「もし私が誰かの創造物であるなら、本物の枯滝路がまだ生きていることになる。それがどういう意味を持つか本当に分かっているのか」
「分かってるよ、お父さん……」
お父さん、と。
初めて呼ぶ水穂のその声にも憐憫が潜んでいた。目の前の男はやはり本物ではないという確信。だからこそ、せめてお父さんと呼ぶべきだという複雑な心のふるえ。
「枯滝路は、自分で自分を生み出せる……」
瑛子は遠い国の出来事のように呟く。
それはどんな意味を持つのか。うまく思考がまとまらない。それは瑛子にとっても考えたくない事なのだという自覚がある。
(枯滝路が複数存在することになる。あるいは何百人も。いえ、でもそんなことより)
(入れ替わりはいつ起きたの? ほんの数日前? あるいはREVOLVEから離反した時? まさか、私と結婚した頃……)
「6年前です」
その声は少しだけ振り返って発声された。半分は瑛子に向けられた言葉だと分かる。
「オリジナルの枯滝路がREVOLVEと袂を分かって直後、彼はアルゼンチンのとある町で私を生んだ。生身の肉体に縛られていたオリジナルと違い、私は生物としても一回り優れていた。思考力や体力はオリジナルを上回り、五感においては精密機械なみだった」
そういえば、彼にはレーテが演算機械の集合体なことが見えていた、ということを思い出す。
「何が起こったか分かりますか。枯滝路は人間の創造という神の御業に挑んだわけでも、便利な召使いを作ったわけでもない。彼はただ、舞台を降りたのです」
「……やっぱり、そうなんだね」
水穂の目は悲しい色をたたえている。
それはすなわち、本当の父のあまりに無体な決断。
人類の行く末が決まりかねない場面。積み上がった家族の問題を解決すべきこの時刻、この場所に、本物が来ていない。そのやるせなさ。果てしない虚しさ。
「オリジナルは抗異化因子存在としての役割を放棄した。父親としても、夫としても、枯滝竜興の息子としての役割もです。私に攻撃禁止の枷をはめたのは、自分が殺されることを危惧したからではない。自分が生み出したものが誰かを殺すことを危惧したからだ。何という身勝手。何という小市民ぶりでしょうか」
がくん、と、瑛子がその場に膝をつく。
なぜ体から力が抜けたのか分からなかった。ただ虚無感が肺をいっぱいに満たし、口はだらしなく空いて声にならない声が漏れる。
「分かりますか水穂。オリジナルは結局、父親にはなれなかった。世界を変える超人にも、瑛子の夫にもなれなかった。なろうともしなかった。彼は究極の折り紙とやらを求めていた。それは「私」のことかもしれないし、私にも分からない何かかも知れない。彼は誰からも理解されず、彼自身も世の中への理解を放棄した」
「うん……分かるよ。どうしようもなく駄目な人。力が高まれば、たくさんの役目を背負うことになる。やるべき事とか、備えておくべき事も出てくる、それを全部放棄したんだね」
「水穂、それなら私が、あなたの本当の父親で何がいけない」
一歩、水穂へと近づく。水穂は弓を構えたままで悲しげな顔をする。
「オリジナルはもう二度と人間の世界に現れない。どこか遠くへ行ってしまったと思えばいい。この世界に枯滝路はただ一人、すなわち私だけ。もうREVOLVEとも、黒鉾とも、レーテくんとも決着はついた。私が世界にファースト・コンタクトをもたらす、それの何がいけないのです」
「駄目だよ……」
狙いを黒コートの中心に据える。
頬に熱を感じる。水穂は自分が泣いていることを自覚する。
「人生に、身代わりを立てるなんて許されない。何が起きたとしても、オリジナルだけが私のお父さんであることは変わらない。あなたじゃないの。ごめんなさい、あなたは何も悪くない、あなたは強いし、優しいし、とても誠実に枯滝路としての役目を果たしてきた。ただ本物ではないというだけ。でも真実を捨てることはできない」
「水穂……」
瑛子もまた涙を流していた。
何が悲しいのか、何に脱力しているのかうまく言語化できない。
もしかして自分は枯滝路を愛していたのか、だから捨てられたことが悲しいのか、そうとまで思う。
「水穂、その槍で私を射抜くのですか」
「……そうだよ」
「私が本物ではない、というだけが理由ですか。私はもはや生命ある人間。あなたに命を奪う権利があるのか」
「無いのかも知れない。でもこうするべきだと思っている」
水穂は泣きながらも目に力を込める。
言わねばならない、やらなければならない。
それが枯滝家の娘として、枯滝路の娘として。
そして根乃己に、この地球に生きる人間として言わねばならない言葉なのだと。
「超常存在だろうと、人生でズルをやるなんて許さない。この世界に私のお父さんは一人だけ。絶対に、何があっても本物をこの場所に引きずり出す。私が必ず見つける。それがあるべき姿なの! やるべき事だと言っているの、私の心が!」
黒コートの男は、枯滝路は。
水穂を厳しく見つめ、深い感情をこめて唇を引き結び。
そして。
「そうだね、私もそう思う」
ふと、笑ってみせた。
「お父さん……」
「私は枯滝路として生きてきたけれど、心にはいつも後ろめたさがあった」
空を見上げ、根乃己の山々を見渡して言う。
「私はただ一枚の折り紙に過ぎない。私が磨いたわけでもない折り紙の技を使うことや、電話で水穂の父親として振る舞うことが辛かった。だから根乃己に帰ってきてもカスタネットへは戻れなかった。お父さんが怖かったというのもあるし、あの敷居が……私にはとても高かったんだ」
涙が地に落ちる音がする。
父の言葉を聞くのが辛かった。弓を構えていなければ耳を塞いでしまいたかった。
その言葉が、遺言なのだと分かったから。
「そしてやはり、間違っていると感じていた。オリジナルが役割を放棄したように、私もまたいつか、新しい枯滝路を生み出してどこかへ消えるのではないか、そんな予感が心を腐らせていた。自分の模倣を創る、それはやはり禁忌なのです。それを許してしまえば、人は自分の人生に真摯に向き合えなくなってしまう」
「路……」
瑛子はよろめくように起き上がり、枯滝路の肩に手を触れる。驚くほど熱い。それは怪我のためか、あるいは感情を高ぶらせているからか。
「大丈夫、折り紙は破れたり燃えたりしない限り死ぬことはない。水穂に折りなおしてほしい。鶴がいいだろうか。紙飛行機も悪くない。丁寧に、折り目をきっちりとつけて……」
「お父さん……」
「瑛子、オリジナルに会ったら叱ってやってくれ、二度と自分のコピーなど作るなと……」
「あなた……」
それは一瞬の出来事。
枯滝路の体がふいにかき消え、宙をひらひらと舞う紙ひとつ。
「! お父さん!」
水穂の弓も消える。黒鉾をも投げ捨てて駆け寄り、それが地面に触れる前に捕まえる。
それは一枚の折り紙。
水穂。
山に囲まれ、水田に恵まれた根乃己の村。
その美しさを表すような、水色の折り紙だった。




