第六十二話
「……その刀が何なのか、分かっているのですか」
枯滝路が脇腹から手を離す。流血は完全には止まっておらず、コートの裾から赤黒いものがしたたり落ちている。
治療は完了していないが、治療の片手間に相手ができるものではないと判断したものか。
「知っていますよ。この日本という島は災厄が満ち、怪物の跋扈する荒れ果てた土地だった。この剣で土地の怒りを斬ることでかろうじて人が住める土地になった」
「だが、かつてはこの国を滅ぼした剣でもある」
「その通りです。何らかの条件が満たされるとき、この剣は日本という土地の生命すべてを奪う。その遺物も文書も、道や運河すらも」
蛇行する刀身がにぶく光っている。表面には楔形文字にも似た奇妙な文字。蛇行する刀身にびっしりと刻まれている。
「この剣は日本という土地の君臨者であり破壊者、そして記録者でもあるのです。これまでに滅び去ったいくつかの文明、その記録はこの刀身だけに残っている」
「そんなものを……味方につけたと言うのですか」
レーテが肯定するように蛇行剣を振るう。レーテにものの重さはあまり意味を持たないが、ススキの穂を振り回すように軽々と扱っている。
その蛇行剣は明らかに敵意を向けていた。枯滝路へと。
「……神庭雪址成刀折り」
折り紙が伸びて刀となる。白一色の刀身は無垢な美しさを備える。左右に一本ずつの二刀流の構え。
「枯滝路、あなたは人間を攻撃できないと聞いていますが」
「生身の人間だけです。あなたが演算素子の集合体であることは見えていますよ」
「見えている……私の単体はミトコンドリアよりも小さいのですが、流石は超常存在の極みというべきでしょうか」
レーテは薄く笑い、次に彼の出した白刀を分析する。
「驚きました。その刀身の温度は観測によればマイナス260度。液体水素よりも低い極低温をたやすく出せるのですね」
「……」
「低温ならば異常を抑えられると思うのですか。この世界の君臨者にすら等しい、この剣を……」
何号も打ち合う勝負にはなるまい、という予感が流れる。
「その剣が私よりも高位の異常だとしても」
間合いを測るように互いに前後に動く。距離は十五歩ほど。
構えはどちらも素人臭くはある。だが周囲にわだかまる冷気の霧が、大地が脈動するような気配が、ただならぬ緊張感となって場を満たす。
「けして完全無欠ではない……飛んできた勢いで私の心臓を貫けばいいのにそうしなかった。私を倒すにはレーテくん、君との協力が必要と判断したから」
「そうですね。斬りかかると同時に、私の一部があらゆる攻撃的手段となって襲いかかる」
「あなたにやれますか? 人を殺した経験が?」
あえて挑発するような口ぶり。レーテは少しいぶかしむように見えた。いくらなんでも、この期に及んでやるような挑発だろうか。
「竜興様との戦いは一部、モニターしておりました」
「そうですか……」
「やはり素晴らしい方です。肉親である貴方に黒鉾を投擲してみせた。竜興様にとって、あなたへ怒りを燃やすことも自分の義務だと考えておられたのですよ」
喜びにゆるむような、陶酔するような響きを乗せて語る。
「あなたがファースト・コンタクトを得ることが我慢できない。竜興様の奥方の死期を早めたあなたが許せない。そうやって怒りを燃やすことも竜興様にとっては義務であり自己制御なのです。何という強固な意志でしょうか。肉親の情を断ち切るほどの怒りを奮い立たせるとは」
「……やはりロボットに過ぎませんね」
ぽつりとこぼす言葉。
レーテは演算装置としての己がわずかに熱を持つことを自覚した。複雑な処理が短い時間にかかったから、そう判断する。
「ロボット……私を形容するには陳腐に過ぎる言葉です」
「いいや、ロボットよりタチが悪い。演算性能が高いぐらいで人間を理解したつもりですか。あなたに父さんの何が分かると言うのです。父は結局、私を殺せなかった。わずかに急所を外したのですよ。そして父のあの怒りが義務だとか自己制御だとか、そんな小難しいものかどうかは誰にも分からない。母さんの死を恨んでいたことが。私の力をやっかんでいたことが事実でないと断言できるのですか」
「竜興様はそのような器の小さな方ではない」
「薄っぺらい理解です。他者を理解するなど途轍もなく深遠な道のりであり、容易に断言できることではない。しかし教訓として伝わる言葉が一つ。分かったつもりになるのが最も危ういということ」
「……」
相手の言葉に翻弄されるな、ただの挑発に過ぎない、と冷静になろうとする。演算処理の件数が飛躍的に上昇する。
「まして瑛子との不貞? 滑稽もここまで来ると目に余ります。自分がどれほど突拍子もないことを言っているか分からないのですか。他者が理解できないと言っても、さすがに瑛子を一目見れば「あったか無かったか」ぐらいは察せられる。その瑛子の前で不貞をほのめかすことに羞恥のかけらもないのですか」
レーテを構成するすべての部分が、白煙を上げそうなほど熱される。
「黙りなさい……」
「黙らせたいなら、かかってくればいいでしょう」
二刀を下段に、八の字に広げ、待ち受ける構え。
「無愛想なバイトと錆びついたナマクラ。二つでぎりぎり半人前というところですか」
「……!」
瞬間、レーテの中で何かが焼き切れる。
目の前のすべてを斬り伏せ、その余波で見渡す山々を消し去らんとする力が。
駆け出すその瞬間、枯滝路が右手を振り上げる。
まだ間合いには遠い、防御ならば刀ごと切れると判断。
だが振り上げた手に刀がない。
コンマ数秒、レーテの反応が遅れる。
上空をタテ回転しながら飛ぶ白刀。
上と前からの同時攻撃。しかしレーテの視覚の前には意味をなさないはず。
否。
レーテの焼き付きかけた演算が推論を弾き出す。あの刀はレーテを飛び越える軌道で動いている。
それはカスタネット。
縁側で立ち尽くす、枯滝瑛子の直上。
「!」
思考が塗りつぶされる。
数千億の演算素子すべてが理性を失う。
体が反転し、瑛子のもとへ走り、同時に演算素子で刀を防がんとするが、直接触れたものはすべて極低温により信号消失。
その端正な顔が苦悶に歪むような一瞬。瑛子はじっと前を見たまま立ち尽くし。
そしてレーテの中央を。白い刀身が貫く。
「がっ……!」
蛇行剣がとり落とされ、すかさず数十枚の折り紙がその上にかぶさる。
そして上空を舞っていた刀は。瑛子からわずかに外れた位置の屋根に落ちて。
何枚かの瓦に霜を張りつつ、屋根も建材も貫通せずに、そのままがらがらと屋根をずり落ちて落下した――。
※
「――失敗だ」
「ああ、失敗した」
どこかの国の、どこかの部屋。
モニターを眺めつつ、落胆の声を漏らす人物が何名か。
「もはや枯滝路は止められない」
「新しい世界とやらが訪れるのか」
「プランは完璧だったはず」
「完璧はありえない、最良だったというだけだ」
彼らが何者なのか。
どれほどのものを動かし、どれほど前から計画していたのか。
「時期が来たということか」
「この世界の体系が変わるのか」
「永劫不滅なものはない」
オルバースの銃を根乃己に渡し。
レーテという流れの者を成長させ。
あるいは黒鉾や、いくつかの組織にも介入してきた。
彼らはどれだけのものを支配し、差配し、選択し、切り捨ててきたのか。
「では、この会議も解散だな」
「そうだな、新しい世界に順応しよう」
「我々ももう会うこともなかろう」
けして語られることはなく、彼らが表に出てくることもない。
「敗北か、嫌なものだな」
「初めてではないさ、メディチ家にも負けたことがある」
「古い話だ、その頃から生きているのか?」
「そうかもな」
椅子を動かす音も、扉を開け締めする音もひそやかに。
ただ静かに退場するのみ。
※
「レーテくん……」
瑛子はさすがというべきか、白刀が投げられた瞬間にその意図をすべて理解していた。
意外だったのはレーテが勝負をかなぐり捨て、こちらに駆け寄ろうとしたことだ。
白刀が屋根を破壊する可能性はあったかも知れないが、落下地点が瑛子に当たる軌道でないことは計算できたはず。
人間くさい。
そんな言葉が浮かぶ。
安い挑発に乗り、能力を発揮しきれず敗れる。
今までのレーテという人物のイメージからはあまりに遠い。欠点だらけで危うくて、感情に流されすぎている。
「……でも、だいぶ魅力的になったよ。レーテくん」
サンダルをはいて庭へと降りる。
「枯滝路」
やや大股で、夫のほうへ。
「レーテくんは大丈夫なの」
「大丈夫。凍らせて動きを止めただけ。今はマイナス200度ほどだから機械が壊れたりはしない……と思う。コンピュータはあまり詳しくないけど」
胸の中央を刀が貫通しており、そこを中心に全身が白く染まっている。
やはりというべきか血は出ないのか、と少し寂しい印象を持つ。もっとも全身が凍りついているため、生身の人間でも血は出ないと思われるが。
枯滝路は白刀を引き抜き、レーテの体をそっと横たえた。
「真賀蛇御阿砂魂の剣は?」
「すでに封印できてる。この剣が自分の意志でできることは多くないみたい」
「脇腹の傷は?」
「だいぶ治ってきた……もう痛みもないよ」
「あっそ、じゃあ大丈夫ね」
瑛子の腕が鞭のようにしなり、枯滝路の頬を一撃。すさまじく良い音が鳴った。
さらに二回、三回、最後に大ぶりの四発目。
「い……痛いよ」
「最初のはうちの従業員を刺した分。二発目はお義父さんと喧嘩した分。三発目は半年以上も帰ってこなかった分。最後のは水穂とだけこっそり連絡をとってた分」
「こっちもいろいろあって……まあ何はともあれ、ただいま」
「おかえり。で、帰ってきたらまず言うことあるでしょ」
「え……」
硬直のあと、世界が畏怖する存在とは思えぬ弱り顔になる。
「お、おみやげ?」
「違う」
「あの、えっと……そうか結婚記念日」
「それは11月だけど」
「あ、愛してるよ瑛子」
「わざとらしっ……そんな習慣なかったでしょ」
いじめるのも可愛そうかと、ため息をついてからびしりと駐車場の端を指さす。
「車が変わってるでしょ! アルファロメオジュリエッタに!」
「む、難しい……」
頭を抱える夫を見て、ようやく一段落という感覚が訪れる。
そして瑛子の切り替えは早かった。やるべきことを指折り数え始める。
「ええと、星が消えてたのと、タツガシラが廃墟になってたのはレーテくんの仕業よね。それは戻るのを待つとして、レーテくんは可愛そうだけど少しの間封印させてもらうか。真賀蛇御阿砂魂の剣の封印もより厳重にしつつagoleとアーグルトンへの通信を試みる……。黒鉾の私兵は枯滝路に何とかさせるとして、水穂はまだしばらく日吉町にいてもらうけど、とりあえず連絡だけでも」
「お母さん」
はっと視線を伸ばす。
カスタネットの敷地と道路の境界あたり。そこに白いワンピースの少女がいた。
晩夏の風に揺られる白い裾。
背はやや高く、髪は長く、風に溶け込むかに見えるその姿は幻想のように美しい。
一瞬、何かの物語の世界かと思えるほどに。
「水穂……?」
声が疑問の響きをはらむ。なぜ彼女がここにいるのか、一瞬理解が追いつかなかった。
その少女は手に何かを持っている。黒い四角。昼日中の根乃己にあって風景を切り取るように黒い。世界に穿たれた穴のような。それが折り紙なのだと認識されるまで数秒。
「射煌幽庵折り……」
水穂の手の中で、黒の折り紙が変形する。
「! 水穂、あなた!」
上長下短の和弓の形状に変化、質感は鉄のように金属光沢を帯びる。弦は強くねじられてネジ溝のよう。
そこにつがえられるのは黒い鉾。
束ねられた呪詛。ぎしぎしと密集する異形。あらゆる異常を貫くと言われる拒絶の意思そのもの。
黒鉾が。
「水穂……その槍を拾ったのですか」
「あなたは回収できないよね。触れるだけで危険だから。この折り紙の弓も侵食されそうだけど、今は槍の殺気があなたに向いてるから、かろうじて弓の形を保っていられるみたい」
「水穂、何やってるの……あなた日吉町にいるはず……」
「お母さん、そいつから離れて」
弓を引き絞る。ぎしりと金属質の音が鳴り、水穂の細腕からは想像もつかない強さで弓が引かれる。重機で引くほどの力を込められる弓、そのように折った。
「やっと分かったの。倒すべき敵はあなた」
狙いをつける、黒コートの男の中心へと。
「あなたが歪みの中心にいる。あなたを倒さないと何も終わらない。すべてが歪んだままになってしまう」
「水穂、落ち着きなさい。その槍は本当に危険なんです、その場に落として……」
「黙って」
枯滝水穂が、白いワンピースの少女が、か細く悲しげな声を上げる。
「あなたはお父さんだけど、お父さんじゃない……」




