第六十一話
※
「路、なぜ本を読まん」
秋の夕暮れを背に浴びながら、目の前の少年に呼びかける。
少年の手には緑の折り紙。何かを作るでもなく揉みほぐすように指を動かす。
「活字が嫌なら漫画でも構わん。わしの蔵書が山ほどある」
少年の反応は乏しい。
再度、喉に力を入れて言葉を重ねる。
「テレビでもゲームでもいい、野山を走り回るでも良かろう。なぜ今あるものに目を向けん。なぜ未知のものばかり追い求める」
少年が首を向ける。
無味乾燥な顔。無感情とは少し違う。その顔つきがどんな感情なのかが見えてこない。石や木の心を慮るような感覚だろうか。
「僕には合わないから」
端的にそう答える。それを受けての肺の底からのため息。
「折り紙でばかり遊ぶな。お前は異常存在としてタツガシラの管理下にあるのだぞ。異常性が高まれば実験台にされかねん」
空白の時間。返答はない。
秋色の風が、遠く色づく山々が意識される。燃え上がるような根乃己の秋景色。
「なあ路よ、普通に生きてはくれんか」
「普通って?」
「平凡であり特別ではないこと。高みを望まず起こり得ないことを想像しないこと。お前にも分かるはずだ。折り紙をやめろ。それで獣や鳥を生み出して何の意味がある。動物が見たいならわしが動物園にでも連れて行く」
にこりと、少年は微笑んだように見えた。
母親が亡くなった前後から、彼に笑顔は見られなくなっていた、この時のそれは久々に見た表情だった。
「お父さん、僕が何を作りたいかわかる?」
「高位の異常存在じゃろう。お前の折り紙は動物を模倣するのみならず、燃えたり透明になったりする。いずれは超常存在に匹敵するものも生み出す」
「少し違うよ」
そう言われて首を傾げる。
「では何を作る」
「究極の折り紙なんだよ。まだ見えてこない。折り方が存在するとしてもとても言葉にできない。完全な論理矛盾。たどり着けるかも分からない」
「そんなものを折ってどうする。誰がそこまでの異常を求めたと言うのだ」
「そうじゃないよ……」
少年はまた手元に集中していくようだった。その頭でどんな理解が生まれているのか、今までに積み上げてきた技術はどれほどあるのか。
何一つ情報の共有はかなわず、だんだんと意思の疎通も遠くなる。
石に変わりゆく人のようだと、そんな例えが浮かぶ。どのような手段でも止められない呪いのようなもの。翼を持って生まれた人が、やがてどこかへ飛び去っていくのだという、悲しくも明白な予感。
「まず技術が先にあるんだ……」
それは独り言とも、誰かへ向けた言葉とも思えないつぶやき。
それはあるいは、枯滝路が人間という枠の際に立っていた時期。その儚い一瞬の時期だったのやも知れぬ。
「世界を一変させる何かは、常に隣にあるんだ。それに気がついていない、だけ……」
「路」
声が少年の意識を引き戻す。
それは聞いたことのない響きだった。怒りや叱責ではなく、脅しや悲哀でもない。
その声は何なのだろうと、残り香を嗅ぐように少年が再びこちらを向く。
「路、どこへも行くな」
少年は、そっと目を細めるように思えた。
穏やかな声に身を委ねるように。
その慈悲のこもった眼差しを名残惜しむように。
「根乃己を出てもよい。どんな仕事をしてもいいが」
「どうか、わしの知らない場所へ行くな……」
※
噴き上がる。それは炎の柱。
燃焼剤が貪欲に空気を喰らい、毒々しい黒煙が天の高みまで上る。
そして数秒後に炎も消える。有毒ガスは消え失せ、融解している地面も元に戻っていく。時計を逆回しするかのように、あらゆる破壊が戻っていく。
「……口惜しい」
どす、と竜興老人が膝をつく。
武器を持った男たちは倒れ伏している。誰も身動き一つしない。
枯滝路は。
黒コートの男は脇腹に触れて、べったりと血の付いた手を確認する。
「凄まじい……作用原理の異なる二十以上の防御を簡単に抜いてきた。時間や空間を歪めても、存在確率や認識をずらしても何の意味もないのか……これが黒鉾……」
その孔はどれほどの大きさなのか。抜き出す折り紙を傷にあてる。まだ血はだくだくと流れ続けている。
「治療は……効いてはいるが薄いですね。もう少し体の芯を抜かれていたら、本当に即死していたかも……」
視界の果て、水田に浮かぶ方舟のような建物、カスタネットが見えている。枯滝路は足を引きずりながらそちらに向かう。
「――路」
老人の声。
竜興老人は膝立ちになっている。その目は枯滝路を見ているが、目玉以外は何一つ動かせぬかのように硬直している。
その腹には椿に似た赤い花。
周囲の男たちも同様。赤い花を体から咲かせて倒れている。
「すいませんお父さん。眠りを与える摩旦花折りの花です。本来は休息のためのもので、攻撃と言えるほど強いものではありません。1時間もすれば花は消えます」
「行くな」
黒コートの男はいくぶん驚いたようだった。その花を咲かせていながら明確に話せることに。
「行けば、殺される。レーテは。お前を」
「……察してますよ。星が消えたことは彼の仕業でしょうね。あらゆることに決着をつける気なのでしょう」
「やつ、は、恐るべき、こと、わし、でも」
「無理をしないで……御免なさい、何を言ってるのか分からない」
「触れ、ること、かなわ、ぬ、ものを」
「……お父さん、ありがとう、急所を外してくれて」
その脇をすり抜け、カスタネットに向かう黒コートの気配。
老人はすべての気力を振り絞って振り返ろうとして、まだ何かを言おうとして。
そして視界と意識が、白く塗り潰されていった。
※
「レーテくん」
駐車場側から敷地へ入る。
十台ほどが駐車できる大きめのスペース。端には物干し台や物置きがあり、目の前にはカスタネットの縁側。その奥には書架の並んだ読書スペースが見える。
駐車場の中央に立つのは銀髪の青年。薄緑のシャツにゆるめのジーンズというラフな姿である。おそろしく整った顔だが、今日はとことなく皮肉な笑みを見せている。
枯滝瑛子は縁側に立ち尽くし、不安げに己の体を抱くように構えている。
「水穂から電話を受けましたよ。私に話したいことがあるとか」
「ええ、端的に申し上げます」
さっと腕を振る。
枯滝路の反応は早かった。脇腹に当てていた折り紙をさっと上げる。空気中で金属同士がぶつかり合うような音が響く。
「瑛子様と離婚していただきたいのです。そして根乃己を去っていただきたい」
「それだけを告げるのに、なぜ攻撃を」
枯滝路の反応は淡々としている。レーテは面白がるように背筋をそらす。
「あなたの力はあくまで肉体に準拠した技術的なもの。折り紙を物理的に折れなくなれば異常性は失われるかもしれない。あなたの同意を得るような問題ではないでしょう。指を狙わせていただきました」
戦車がぶつかり合うような重厚な音。物干し台の根本でコンクリートブロックが砕ける。
「枯滝路様。力を失うのがそんなに嫌ですか?」
「そうですね、望んではいません」
背後にいた瑛子が枯滝路の出血に気付く。
顔面が蒼白になるが、行われている不可視の戦いのために一歩も動けない。
「路様。私も成長しているのですよ」
ぎん、と何度目かの音。
はるか上空で雲が裂ける。綿を引きちぎるようにずたずたに。
「すでに貴方と同じ抗異化因子存在の域にいる。オルバースの銃が、その他の異常存在が私を成長させた。すべての異常存在と、流れの者は私が排除します。あなたは再婚なされるなり、好きに放浪するなりして生きればよいでしょう」
「ずいぶん人間くさくなりましたね、レーテくん」
抜き出される。それは紫、白、橙の三枚の折り紙。
「糊叶弟橘媛鉄鎖折り……」
ぎし、とレーテの動きが硬直する。
「ぐ……」
「あなたは微粒子のような演算機械の集合体。ですが、この粘着性の空間で拘束すればどうでしょうね」
脇腹の傷に折り紙をあてる。
枯滝路は、少なくとも外見上は疲弊して見えた。脂汗を浮かべ、呼吸も早まっている。あの出血量は常人ならすぐに輸血が必要な量だ。
枯滝瑛子はそのように見るが、枯滝路から負傷や疲労などというイメージがあまりに遠く、まだ動けずにいる。
「レーテくん、一体どうしたと言うのです。そもそもあなたは私に会いたかったのでしょう? 先日、根乃己に戻ってきたときにいくらか話をしたと思ったら、あなたは私との話を打ち切って帰ってしまった」
レーテは顔面をこわばらせている。しかし何も起きず、ただぎしぎしと荒縄を絞るような音がするのみ。
「そして星を消し、私を攻撃した。いったい何が起きたのですか、どのような心境の変化が」
「それよりも」
いくぶん強い声。
それには明確な怒りの感情が含まれていた。レーテのそのような声を初めて聞き、瑛子もはっと注意を引きつけられる。
「それよりも重要なことがあるでしょう。私と瑛子様のことを気にしないのですか。こんな田舎の片隅で、何日もカスタネットの中で寝食を共にしたのですよ。何か不貞の事態が起きていないか気にしないのですか」
「……」
「奇妙なことを聞くのだな、という顔ですね、枯滝路」
戦況としては完全に枯滝路が圧している、と瑛子は思う。
しかしレーテの不思議な気迫。黒コートに向ける威圧を受けて、間合いを詰められないでいる。
「私は地球へ来て、カスタネットの皆さまに歓迎していただきました」
そのように言う、枯滝路は動かない。
「根乃己の美しい風景、好ましい人々、何より枯滝家の皆様は私にとってとても魅力的だった。知力と行動力にあふれ、己の役割に誠実な人々。そして皆がこの土地を愛していた」
「……何を言っているのです、レーテくん」
「あなたは違う」
す、と。
枯滝路の気配が重くなったと分かる。
体重を両足に分散し、油断なく構えるような気配。
「あなたは他人のことなど考えていない。あなたの言葉は誰にも理解できず、理解できないことを気にも止めない。あまりにも傲慢。この世で一人だけの存在であることの奢り」
「……え」
背後の瑛子は奇妙な顔をする。
そんなはずはない。彼は、枯滝路は自分の言葉が通じないことを悲しんでいた。
少なくとも学生時代は、REVOLVEの協力者だった時期はそうだった。そういう顔を見た記憶がある。
「なぜ、REVOLVEを破壊する必要がある」
レーテは、その目にはっきりと憎しみを込めて言う。
「ファースト・コンタクトを選別するシステム。だが事実上は拒絶の結界と化していた。女々しくて臆病で、でもそれを選んだことも人の意志です。なぜあなたに壊す権利がある」
「……父と同じようなことを言うのですね、レーテくん」
いくぶん、うんざりしたような様子で首をそらす。
「人はもっと大きな世界で生きるべきです。新しい世界を目指すべきなのです」
「それは枯滝路、あなたの世界」
嘲笑の混ざった声。その人間くさい様子に、瑛子はこれがあのレーテの声かと驚愕する。
「私はようやく気づいたのですよ。REVOLVEとは何なのか。ファーストコンタクトとは、それを与えた流れの者は何を考えていたのか」
「……」
「我々と同じですよ」
天を指差す。
枯滝路ははっと身構える。レーテが手首から先のみとはいえ、動かせたことに反応を見せたのだ。
この人物にとっては極めて珍しい、動揺を。
「REVOLVEとは一種の封印装置であるとは思えませんか? これを与えた高位の存在は何かを恐れていた。この地球で生まれうる何かをです。それはやがて知の地平線を超え、宇宙に大いなる影響を与えると考えた。だからREVOLVEという揺り籠に閉じ込めた、そうは思えませんか。地球ではなく、宇宙にもファースト・コンタクトがあるとしたら」
「……」
「だが不完全。REVOLVEには数的限界があるからです。これを与えた知性も、すべての星の排除までは踏み切れなかった。だから私がやるのですよ。すべての人々から星の記憶を消し、地球を巨大な揺り籠に変える」
「なぜです……なぜ動ける」
右腕が、足が、拘束を逃れて動き出す。
やがてレーテは自由を取り戻して、かるく肩の埃を払う。
「私の力は超常存在に至っているようですが、その中でもさらに序列はある。残念ですが枯滝路、あなたには及ばないかも知れない。ですがそれでも、あなたを排除する手段はあるのですよ」
「……何を、言っているのです」
「それは、あなたよりも高位の超常存在の力を借りること」
「! まさか!」
ばつん、と何かが打ち合わされるような音。
レーテがそれを受け止めた音である。手の中で白煙を上げるのは、長さにして2.4メートルほどもある蛇行剣。
「真賀蛇御阿砂魂の剣……私は彼と取引したのですよ。地球に永遠の安寧を与えると……」




