第六十話
実り多き晩夏の水田。
頭の重さに負けまいと立つような稲穂。あと数日で青みを抜けて黄金色に染まる頃であろうか。
蛇のようにだらだらとうねる一本道。そこを歩くのは黒のコートを着た男。
撫で付けられた黒髪。平均的な目鼻立ち。表情は乏しく印象は薄い。この暑さの中で黒コートを着ているのに目立っていない。生まれついての黒子であるかのように存在感の薄い男だった。
その彼を最初に歓迎したのは高速回転する7.62mmライフル弾。毎秒3000回転を加えつつ音速の数倍で迫る。
「……澗奴餌蝶折り」
つぶやくと同時に蝶が舞う。
雪のように白い蝶。銃弾がその白い羽根に吸い込まれ、羽根に黒い眼状紋を宿した蝶がどこかに飛び去る。
そして後方で爆発。
黒コートの男が振り返れば、己がやってきた峠道の方で黒煙が上がっている。峠道を爆破したのか。
「黒鉾……かなりの数がいますね」
蝶は続けざまに現れている。複数の方角から飛来する銃弾を受け止め、黒い蝶に変化して飛び去る。
攻撃が密度を増す。山の上から機銃弾が連射される。稲穂を蹴散らしながら迫る着弾痕。
「金甩襖折り」
一枚の折り紙が折り広げられる。元の面積の2倍、4倍、瞬く間に数百倍の広さとなって壁を作る。
奇妙なことには、その男の呟きや手の動きはどう見ても狙撃に間に合っているようには見えない。しかし攻撃が終われば防いだという結果が残っている。
エンジン音。
前方から迫るのは人の乗っていない軽トラック。遠隔操作できるように改造しているのか。そして荷台に満載された何か。
同時に直上からの風切りの音。
およそ想像を絶する光景。火薬を満載した大型旅客機が真っ逆さまに落ちてきている。毎秒数百メートルの速度で、あらん限りの殺意を込めて。
「……本気なんですね」
数十トンに達する爆薬が、山の高さすら超える爆炎に変化するまで一秒。
※
「何が起きてるの……」
枯滝瑛子はカスタネットの縁側にいる。
十分ほど前から大量の銃声、爆発音、衝突音などが続いている。旅客機の落下もすでに三回以上起きている。これが現実なのかと疑われる光景である。
「枯滝竜興様による攻撃です。枯滝路が根乃己に現れたようですね」
レーテはテーブルを拭きながら答える。当然のことながら、今日のカスタネットには一人の客もいない。
「お義父さんが……でも、これは大量の重火器と爆薬を使っている。航空機による体当たりまでしているけど、人的被害が……」
「少し探ります……大丈夫です。あれらの航空機に人は乗っておらず、遠隔にて誘導されています。それにしても日本国内でこれほどの攻撃を行うとは驚くべきことです」
「……まったく手段を択ばない気配。これは黒鉾の手口に見えるけど」
「黒鉾は竜興様の指揮により動いている、そう見るのが妥当でしょう」
「……」
驚きは少なかった。
黒鉾がどうやって異常存在の情報を得ているのかは謎だったが、不自然なほどREVOLVEと競合することが多かった。内通者がいるか、あるいは黒鉾はREVOLVE内部からの指示で動いている可能性は示唆されていた。
それが義父であったということか。
それなりに衝撃的な事実であるはずだが、今はそれよりも考えるべきことがある。
「こんな攻撃で枯滝路を排除できるはずがない……。あれは水爆の直撃をうけても生き残る。星の密度が一兆倍あるオルバース宇宙ですら、短時間なら生存するのよ」
「飽和攻撃でしょうか。枯滝路は永劫不滅の存在ではなく、あくまでも折り紙という技術で身を守っている。手数を増やせば防御をすり抜けられると」
「そんな簡単な相手じゃないわ」
「では、何か決定的な攻撃の用意があるのでしょうか。その隙を探っているのでは」
攻撃は繰り返されている。
大型ドローンの編隊が舞い、毒劇物を内蔵したガス弾が射出され、物理的なワイヤートラップまで駆使されている。
その中を黒コートの男が踏み進む。猛毒の煙と、土を溶かす猛火をかき分けて。
「枯滝路を殺す手段があるって言うの?」
「あるのかも知れません」
枯滝路の指が折り紙をはじく。刹那に生まれるのは翼を広げた鶴。青銅色の象亀。爆炎の中で黒い影だけが見える。
光の照射。根乃己を囲むように配置されたレーザー照射装置からの光が黒のコートに集まる。周囲の大気が真っ赤に赤熱し、黒煙が上昇気流で柱のように立ち上る。
「こうは考えられないでしょうか。枯滝路が根乃己に近づかなかったのは、枯滝竜興様を恐れたからだと。彼に排除される可能性がゼロではなかったからだと」
「お義父さんは……枯滝路と戦う準備をしてたって言うの?」
「私が思いますに――」
兵員も出てくる。宇宙服のような毒劇物防護スーツに身を包んだ大柄の男たち。大型のハンマーを振りかざして駆けてくる。枯滝路が折り紙を抜き出す。
「竜興様は、枯滝路を最も深く理解している人物です」
「……!」
銃声はさらに密度を増すかに思える。どうやってこれだけの火器を持ち込んだのか。航空機による自爆攻撃まで行って自衛隊は動かないのか。あるいは動くことも辞さない攻撃なのか。
そうだ、一週間で準備できることではない、と瑛子は結論する。
もっとずっと以前から、途方もない艱難辛苦を積み上げてきた攻撃なのだと。
「私は、竜興様も好ましく思っております。黒鉾の関係者であり、おそらく頂点付近におられると察せられた今でも変わりません」
「好ましい? なぜそう思うの」
「あの方は己の役割に誠実だからです。肉親である枯滝路への苛烈なる攻撃。家族の情愛よりも己の使命を優先させる強い意志がある方です。枯滝路を排除するべきであると、強い信念でそう思っている」
「……この攻撃の理由、それは枯滝路を危険人物だと思っているから、だと言うの?」
「そうです」
「……」
思考に沈みかける一瞬。
瑛子の眼の端が気配をとらえる。
それは小柄な老人。
枯滝竜興がカスタネットの敷地の脇を通り、爆炎の繰り返される方角に歩いている。
「お義父さん……」
「レーテ」
竜興老人が、振り向くことなく銀髪の青年を呼ぶ。
「はい」
「あとは頼んだ」
それだけを言って歩を進める。歩調を落とさずに、彼の実家であるカスタネットに一寸の名残をも残さず。
「お義父さん、待って」
「瑛子様、危険です。跳弾や礫片がどこから飛んでくるかわかりません」
「でもお義父さんが」
「仮にお怪我をされても、即死でない限りは私が治療いたします。今は竜興様のお気持ちを尊重するべきと考えます」
気持ち。
その言葉が何か不思議な響きに聞こえた。
義父はどんな心境で枯滝路に立ち向かうのか。
本当に勝算はあるのか。
それとも敗北することも覚悟の上なのか。
やがて義父の姿は見えなくなる。その背中は、いつもよりさらに小さく見えた。
濡れた折り紙を握りつぶした後のように、何もかも絞りつくした姿に見えた。
※
「路よ、よう帰ってきたのう」
銃撃は止んでいる。
上空を旋回する小型の航空機が何機か、遠巻きにこちらを狙う男たちの姿も見える。
黒コートの人物が、枯滝路が口を開く。
「お父さん、どうして私を攻撃するのですか」
「どうしてじゃと? しらじらしい言葉を吐くもんじゃな」
枯滝路は竜興よりだいぶ上背がある。まだ火薬の匂いがむせ返るようで、空気は産毛を焼くほどの高熱を残す一本道で、二人は対峙している。
「丹魚は10年前に死んだ。お前が殺したのだ。お前が招き寄せる異常存在に耐えられんかった」
「母さんのことですか」
「お前の力は人間の世界には荷が重すぎる。お前がいるだけで多くの人間が異常に引きずり込まれる。だからこの世から消えてもらう。それだけのことじゃ」
水田の泥を踏み越え、稲穂をなぎ倒しながら集まる男たちがいる。両脇にサブマシンガンを吊り下げ、剣呑な目を黒コートに向ける。
「おおよそデータは取れた。お前はやはり折り紙を折らねば防御できん。こちらのすべての戦力を一瞬に束ねる」
「仮に攻撃を束ねても、銃器で私は殺せませんよ」
「どうかな」
上空のドローンから何かが投下される。それはスラスターで姿勢制御を繰り返しつつ、落下の一秒前にそのスラスターも脱着。眼の前に突き立つのは一本の槍である。
柄と言わず刃と言わずすべてが黒い。よく見ればそれは鉄くずを紐で束ねたような形状。無数のパーツが組み合わさって、ぎしぎしと鳴る気配がある。
「……それは」
「黒鉾じゃ。異常存在を特別なアルゴリズムで一つに束ねたもの。異常性が打ち消しあって一つのカタチを成しておる。わかるか路よ。これは呪詛じゃ。異常存在を受け入れぬという人の意志。プログラムにおいては異常の領域に踏み込むものを噛む猟犬であり、実存の槍においてはまさに異常を貫く異常。この世に存在すべきでないものを束ねて槍と成したものよ。異常存在を否定する力が、あらゆる異常存在を撃ち抜く」
周囲の男たちが身構える気配がある。
一斉攻撃の合図が近いから、だけではない。
明らかに、黒コートの男の気配が変化したからだ。
どことなく気だるい印象を放っていた男が、初めて明確な警戒を、そしてこちらへの敵意を向けた、それがありありと感じられる。
「なぜそこまでするのです。その槍を生むのにどれほどの異常存在を注ぎ込んだのですか。唯一無二の至宝もあったはず」
「お前を殺せるなら安いものよ」
「勝手な言い分です。束ねられる異常存在が哀れと思わないのですか」
枯滝路が一歩進む。
周囲の男たちが銃を構える。
上空の航空機が、山の上から狙う銃座が、レーザー照射装置が照準を絞る。
「人間の意志? 仮にそんなものがあるとして、なぜお父さんがそれを代表するのです。そもそもちゃんと統計を取ったのですか。何人に聞いたのですか。お父さんは存在するかもわからない概念に自分を預けているだけです」
「そうは思わん。わしは黒鉾を組織した。裏社会を味方につけて世界中で同志を集めた。世界には異常存在そのものに恨みを持つ人間は数知れぬ。儂もまた、その意志の手足に過ぎん」
「受け入れる人もいるはずです。異常ではなく新しい力として、そして新しい時代を切り開くことを期待する人も」
「お前が新しい時代を語るか! 怪物め!」
喉を裂くような叫び。
老人から発せられたとは思えぬ、激甚なる怒りがほとばしる。
「お前にも分かっておるはず。お前の力は他人と共有できるようなものではない。新しい時代に行けるのは、新しい世界を切り開けるのはお前一人なのだ! お前はもはや人間の世界から切り離されておる! お前が新しい世界とやらに行ったとして、我々人間になんの関りがある!」
「……お父さん、それが息子に向ける言葉ですか」
「丹魚はお前のことを案じていた」
右腕で槍を投擲の形に構え、左腕をさっと上にあげる。
一斉に銃器の安全装置が解除され、撃鉄が起こされ、あるいはフルオートにセットされる。老人の左腕は約束された破壊。上げられた以上、もはや破壊なく下りることはあり得ないという、終末の確信が満ちる。
「最後の最後までお前のことを心配していた。人間の世界に溶け込めるか、うまくやっていけるかとな。丹魚はお前の人格の異常にも気づいていた。人間を超えた精神性に染まりつつあるお前を案じていたのだ。だがお前は丹魚の葬儀で涙ひとつ流さなかった!」
「……泣けなかったことを責めるのですか。世の中にはうまく泣けない人だっている」
「一つだけ聞く、この哀れな老人の命がけの問いだ、一度だけ誠実に答えろ」
「……何でしょうか」
老人が、全身に力を込めるかに見える。
その身に流れる殺意を、執念を、一つの大きな渦として意識するような構え。
そのしわがれた口が、乾いた唇が、震えるように言葉をつむぐ。
「お前は、誰だ?」
え、と。
周囲の男たちが、何人か竜興老人を見て。
そして枯滝路は。
この凡庸な容姿しか持たぬ黒コートの男は。
口の端を吊り上げ、言った。
「よく気付きましたね、お父さん……」
左腕が勢いよく振り下ろされ。
攻撃の意志が殺到、そして投擲される黒の槍。




