第六話
『――路です』
「お父さん、今どこにいるの?」
言葉には数秒の沈黙が帰る。それは問いかけた相手の逡巡を表すのか。あるいはマイクロ波が衛星と衛星を渡り、電離層をかすめて地球の表層を飛び回る時間を表すのか。
『ここは空の街』
『雲を突き抜けるような険しい山々に、夕焼け色の蔓草を、空色の糊で煮固めた縄が渡されています。縄はとても丈夫で長く、その結わえた先は見えません』
『百の山に百万の縄が渡され、それはこの窪地の上に綾取りのような街を造っています。建物も大地も縄で象られ、その隙間を冷たい風の吹き抜ける街です』
『人の背丈ほどもある鳥が、あるいは芋虫と雲の中間のような生き物がこの縄に捕らわれます。人々はそれを加工してあらゆるものを作ります』
『やがて町は上に下に伸び、人々を包んで膨らみ、天険の揺り籠にて育ち、やがて数百年も経てば、ひとつの風船のような繭となって飛び立つことでしょう』
水穂の父、枯滝路の言葉はいつも掴み所がない。
水穂はいつも「今どこに」と問いかけ、父はそれに奇妙な情景を返す。それは父が居場所を言えぬがための方便か、あるいは親娘の関係を認識するための符号のようなものであろうか。
「お父さん、いま、目の前に……」
電波は遠く、あまり長く会話できない予感がある、それはいつものことだ。
水穂は要点だけを手短に伝える。
『成程』
また沈黙、水穂は衛星電話をぎゅっと掴む。
『「流れの方」との絆がその草苅さんとの間にある以上、これは草苅さんが解決すべき事です。大規模な被害が予想されるときだけ干渉してください』
「でもお父さん、このまんまだと数百年ぐらい経っちゃうよ」
『大丈夫、根乃己村の結界はとても強固です。この通話もまだ同期を保っている。影響はおそらくその桃の香りが届く範囲まででしょう。ですが「流れの方」との関わりは、人がその人生を見つめ直し、新たなる観点を得るという大きな出来事です。一生に関わる変革は、一生をかけても困難なのです』
「どうすればいいの?」
『こう、問いかけてください』
『龍を見たか、と』
※
「うぐぐ、何なのよこれ、まるで手応えないんだけど」
草苅記者の奮闘は続いている。
龍のそばで腕を振り回したり蹴飛ばしたり、砂をかけてみたり体ごと突っ込んでみたり。
そうしていると何だか時間の流れが曖昧になってくる。手近な樹に生っていた桃をもいで乱暴に食らう。
「草苅さん」
と、その袖を引く手、水穂である。
「ねえ草苅さん、龍を見たことある?」
「龍? いえ、こんなの今はじめて」
――先輩、龍を見たんです。
「――!」
頭の片隅に生まれる、薄荷の香りにも似た記憶。
それは確か、高校生の頃。新聞部の一員として目立ちもせず、落ちこぼれることもなく、地味な学園生活を送っていた頃のこと。ようやく新聞部の活動にも慣れてきて、学問と部活と、ささやかな人間関係だけを繰り返していた日のこと。
「だめなのだ、やはり朕には天運がないのか……」
またも鈴鬼が座り込み、その様子に意識が引き戻される。
「天運?」
「そうなのだ。持って産まれた才能、成すことすべて良きことに流れる定め、そういうものを持っておらぬのだ。持っておれば占儀に頼らずとも龍を見つけ、その手に抱けるのだ」
「天運……」
その言葉が、心の奥の何かと呼応する。
それは過去という穴蔵の底、たしかに存在はしていたが、暗がりの中に転がる黒塗りの箱のように、遠目にはまったく見つけられないもの。暗い場所を這いつくばって探して、ようやくその手に触れる硬い箱。
そうだ、自分は確か、運を譲った。
かつて出会った、あの後輩に。
「そういえば、そんな話を聞いたことあるわ、龍を見た話……」
鈴鬼の座り込む横に己も座り、浮揚する龍をぽつねんと見つめて言う。
「私、小説家になりたかったのよ」
「しょうせつかとは何だ」
「物語を書く人よ、それを本にして売るの」
「うむ、語り部とか詩人のようなものか」
「自分の書いたものに自信はあったんだけど、恥ずかしくて誰にも見せてなくて、新聞部だったんだけど、そこの後輩にだけ見せてたの。小説好きの男の子で、ちょっと可愛い感じの」
――龍が見えた気がしたんです。これを書き上げたときに。
そう、確かにそう言っていた。
それは後輩にしてみれば何らかの比喩表現だったのだろう。伏竜鳳雛、才能ある人物が在野にあり、いずれ龍となって天に昇るという言葉であるが、あの後輩は自分の小説をそう評していたのだろうか。若さゆえの尊大さ、言ってみれば中二病。しかし直感から生まれた言葉こそがこの世の真実、そのようにも思う。
鈴鬼は少し興味を引かれた風に尋ねる。
「なぜ小説家にならなかったのだ?」
「その後輩のほうが、ずっと才能があったからよ」
どんな内容かはよく覚えていない。失恋の話だった気がする。
だがその小説には圧倒された。絶対に勝てないと思った。なぜ忘れていたかと言えば、思い出したくもなかったからだ。
そして自分は文芸をやめた。自分が歩むべき道はあの後輩が歩んでくれると、そこまで明確に意識したわけではないが、写真の方にのめりこみ、最初から写真にしか興味がないと思うようになった。
「詩人ならば一人しかなれないというものでもあるまい、お前もなればいいではないか」
すでに闇は落ち、鈴鬼は両の目を完全に閉じて、額の目だけを開かせていた。そのぎょろりとした緑の目で草苅記者を見る。
「そんな勇気が無くなっちゃったのよ。もっと言えば、小説を書くための原動力、内側にドロドロと燃えたぎる情念、そんなものを失くしちゃったの」
失くした?
それも違う、と思う。あれは譲ったのだ。
いや、それも違う。
より正確に言えば。
吸い取られたのだ。
「呑竜帯水、龍に天運を吸われたな」
鈴鬼がぽんぽんと己の頭を叩く。これは慰められているのだろうか。と少し意外そうな顔になる。
「そういう話ってあんたたちにもあるの?」
「うむ、龍を見た者は龍を得る。龍を得た者は龍と成る。この世の天運奇運を吸い尽くして世の安寧を司るのだ、それが龍だ」
「……」
どこか素直な気分になっていた。鈴鬼の語る奇妙な言葉が、するりと心の奥に落ちてくる。
そういうものかもしれない、と草苅記者は思う。
全ての人間が、何らかの才能を備えている、宿命を持って産まれてくる。
だが、全員がそれを生かした仕事に就くわけではなく、尊ぶべき宿命に従って生きるわけでもない。
ほとんどの人間はそこそこの職と収入で折り合いをつけ、凡庸に一生を終えるのか。
ごく一部の選ばれた人間だけが、龍となって大空を駆けるのか。
逆を言うなら、天翔ける龍があってこそ凡人たちは凡人たる生き方に安寧できるのか。己は龍ではなく、地を這う獣に過ぎないのだと認識できるのだろうか。
龍にあらざるすべては、龍を仰ぎ見て生きるのか。
「……じゃあ、特別な存在でないと龍を捕まえられないってこと?」
「それを変えるのがこの儀なのだ。天網と苔香によって龍を得るのだ」
「……」
草苅記者と鈴鬼は、そのまましばらく無言で座る。
その間も桃は花を咲かせ、実をつけ、その実が熟して落ちて、また新たなる芽吹きをもたらす。
『分かってきました』
電話越しに会話を聞いていた路が言う。水穂はそっと後じさって機械を耳に当てた。
「どういうことなの?」
『その「流れの方」にとって龍は幸運の象徴であり、草苅という方の過去と呼応しています。おそらくは概念的な儀式です。幸運という目に見えないものを龍というカタチになぞらえる、あるいは降ろす。それを網で捕獲することで我が物にするという儀式でしょう、「技術」と言ってもいいものです』
「科学的ではありません」
背後にいたレーテが、初めて不満のようなものをつぶやく。宇宙人であるレーテですら路の話にはついていけない事がある。それほどにこの村は奇妙で、流れの者たちは常識を超えていた。
「でも捕まえられてないよ」
『おそらくは試行回数の問題です。トンネル効果を産み出すほどの圧倒的な幸運、しかしトンネル効果が起こる可能性がゼロでないように、その龍がトンネル効果を起こさない可能性もゼロではない。時間を引き延ばし、無限の試行回数によって、捕獲という結果にいつかは至れる、そういう技術なのでしょう』
「結界があるから外に影響は出ないよね、じゃあ放っておいていいのかな」
『いいえ、これは文明圏崩壊級の驚異です』
その言葉に、水穂が肩をこわばらせる。
文明圏崩壊、その言葉の前と後で状況がまるで違ってくる。基本的には関わらない方針の水穂とレーテも、もはや座視してはいられない、そのような気配が生まれる。
「どうして? なぜ危ないの?」
『この一連の儀式で重要なのは幸運が委譲可能であるということです。そしてバルーン効果のように、より大きな幸運を持つものが周囲の幸運を吸い取って肥大するという概念、あるいは法則、それが世界に与えられれば、地球全体の幸運が瞬時に吸い尽くされる恐れがある。根乃己の結界があるとしても、中にいる人間にどんな影響があるか分かりません、おそらくREVOLVEが行われるはずですが、あてにして動いてはいけません』
「…………」
失敗だ、と水穂は思う。
あれは違う。
この流れの者も違う。
あまりにも圧倒的で、出鱈目で、理解の及ばない彼ら。
彼らは何がしたいのか。
私たちに何を与えたいのか。
いつになれば。
『そろそろ切らねばなりません』
「……え、待ってお父さん、どうすればいいの」
『儀式を無理にでも止めるしかありません』
「どうしたらいいの、教えて」
『その場にいない私が答えるべきではありません、もう無理です、これ以上の通話は場所を見いだされる』
「お父さん」
『水穂、レーテくん、元気で』
ぷつり。
唐突に回線は途切れ、後には何の音もない。フック音もない完全なる無音。
「水穂さん、大丈夫ですか」
「うん……」
落ち込んだ気分になったのは、ほんの数秒。
へこたれてはいられない、と思う。
私がやらなければ。
「レーテ、何とかしてあの龍を追っ払えないかな、熱とか電気とか」
「試行します……失敗です。表面温度を上昇させようとすると、放射熱がすり抜けて伝播しません。電気的刺激も同様です。電導率がゼロになります」
「うーん、トンネル効果ってつまりは原子の隙間をすり抜けてるんでしょ、すごく密度の高い原子ならすり抜けられないんじゃない?」
「はい、中性子星のような超高密度の物体ならば、原子間距離はごく小さく、隙間が原子核の大きさよりも小さくなります。この場合は原理的にすり抜けられないはずです」
「そういうの持ってこれない?」
「地球上で作成するのは不可能です。それに重さは一立方センチあたり10億トンにもなります」
「風を吹かせてお香の香りを飛ばそうか」
「試行……香りの微粒子はすべて洗浄しました。ですが龍に影響がありません、似た香りを作成して上空に設置しましたが反応ありません」
そんな小手先のことで邪魔できる儀式ではない、ということか。
そんな水穂たちのやりとりを知ってか知らずか、座っていた草苅記者が腰をはたきながら立ち上がり、今度は鈴鬼の網を持って龍に向かう。
「そうね。私はきっと見てみたかった。あいつの見つけたものを、龍ってやつを」
「うむ、頑張るのだ、諦めなければいつか龍を得られるだろう」
「任せて、こう見えても諦めは悪い方なのよ」
どことなく芝居がかっている。
儀式に飲まれていると水穂は思う。おそらく今から止めることはできないだろう。無理をすれば流れの者と敵対しかねない、それだけは避けねばならない。
どこにでもいるような雑誌記者。誰でも持っていそうな悩みや思い出。
それがこの村では、化ける。
ちっぽけな地球の中ならば、神とすら呼べるほどの怪物に。




