第五十三話
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根乃己の村。
夏休みとあってネットカフェ「カスタネット」の客は安定しており、一階と二階に10人ほどが訪れている。枯滝瑛子は厨房にて注文に応じ、銀髪の青年レーテは受付を行うとともに清掃、本の返却、予約の調整などを行っている。
「……あの子、どういうつもりかしら」
瑛子はロースターにて豚ブロックを熱しながら呟く。
銀髪の青年、レーテは根乃己から異常存在を消すと宣言して以降、動きがない。ただ淡々と業務をこなしているだけだ。
瑛子はなるべく常にレーテの挙動に注目し、その意図を図ろうとしている。
それは自意識の防衛のためもある。意識していなければ彼が流れの者であること、この村が異常存在を管理する村であったことを忘れそうになる。
「恒常性結界。タツガシラ観測所。シグナルイエロー。凶兆の天秤。オルバースの銃……」
言葉を呟いて認識を維持しようとする。そのように自己認識に干渉する器物への訓練も行っていた。
タツガシラの職員はどうなっただろうか。外国人がこの村にいるのは不自然だが、まさか消えてしまうのだろうか。どのぐらいの時間で。
「瑛子様」
レーテがそばに来ていた。しかも顔のそばまで口を寄せている。少し飛び上がって驚く。
「き、急に声をかけないで」
「申し訳ありません。お呼びしたのですが、返答がなかったもので」
どうもレーテの距離感がおかしいと感じる。以前は物静かで感情が希薄、適切な距離よりさらに三歩ほど下がって話すような人物だったのに、今はこちらの目をまっすぐに見て、どことなく熱を持って話しかけるかに思える。
「どうしたの」
「杜仲茶のボトルが切れておりました。黒烏龍茶も尽きそうです。補充をお願いいたします」
「わかったから、受付の方に」
かた、と指先が何かに触れて。
「!」
レーテがいきなり近づき、己にハグを仕掛けるかに思える。思わず身を硬直させる。
「ガラスコップが落ちかけたもので、失礼いたしました」
手を腰の後ろまで伸ばしてコップを拾ったようだ。その銀細工のような指先が、ガラスコップをそっとテーブルに置く。
「……い」
いけない。
レーテのペースだと感じる。何かワケが分からないが、ともかく何か言わなければと本能で感じる。
「言っておくわよレーテくん……。前から繰り返してるように、あなたの観測機としての能力は私達には使わないこと。私の個人的な呟きを盗み聞くようなマネは許さないからね」
「はい、承知しております。決して行いません」
「……根乃己に基刻網恒常結界を張り巡らせてるって、本当なの」
「いいえ」
レーテは毛ひとすじほどの揺れも見せず、淡々と答える。
「私は何もやっておりません。しかし、もしそのようなシステムが根乃己に展開されているとすれば、それはもはや私とは別個体です。私のほんの一部がそのように稼働しているのかもしれません」
レーテは無数の演算機械の集合体だという。その一つはミトコンドリア分子よりも小さく、原子すら観測下に置ける。
それによって根乃己を観測し続けることで、不確定性原理に例えられるような異常な挙動を封じる。それが算法結界。人間が生み出した異常を抑える技術ではあるが。
(……そう、この世界で、レーテくんだけ)
算法結界を含めて、レーテの存在だけが科学的にぎりぎり説明できる。
(agoleは……。アメリカは何を考えているの)
世界に3つあるという、異常存在を封印する町。
それは健在なのだろうか。何一つ分からない。あるいは気を抜けば、すべて瑛子の妄想に堕してしまうのだろうか。
(あるいはこれが選択なの? レーテくんが……選ばれた人類の最初の出会い……)
「瑛子様、お顔の色が優れませんが」
「何でもないわ、下がりなさい」
手探りでテーブルを探る。ナイフでもあったら掴んでいたかも知れない。レーテはそっと後退する。
「瑛子様、私を拒むことはありません」
ふいにそんなことを言う。おそろしく端正な顔で笑ってみせる。整った、というよりは妖艶な印象を秘めた顔。数秒の微笑みで魂を蒸発させるほどのぞっとする美しさ。
「私は嬉しいのです。瑛子様のような方のために生きられることが。根乃己は美しく、住人は誰しも好ましく勤勉です。そして瑛子様は誰しもの規範となれる強いお方です。あなたのような方を、異常存在という憂いから守って差し上げられることを光栄に」
「下がりなさい!」
大声が出た。ヒステリックな感情が出たことに自分でも驚く。
「やめなさい。男と女なのよ。私は結婚してるし子供もいる。ここは嫁ぎ先の実家なのよ。常識で考えなさい」
「私も男ですよ。少なくとも一人の人間として誠実に生きようとしております」
一歩、踏み込まんとする。静かに歩む小さな歩幅が、実際よりも大きく思える。
「一介の男子である以上、他者への好意を口にして何がおかしいのでしょうか。枯滝瑛子様、私はあなたに好意を持っています。それは偽らざる気持ちです。あなたに打ち据えられることも覚悟の上で好意を言語化しているのです」
「ち、近づかないで……」
「瑛子様、その拒絶は変化への恐れでしょうか」
どくん、と心臓が動揺する音がする。
「REVOLVEというシステムのなんという頑迷固陋、専断偏頗であることか。あなたはそうではないはずです。あなたこそは次代を切り開く力。新しいものを受け入れる大いなる器です」
「やめなさい……私はREVOLVEの支部長なのよ、それは組織への裏切り……」
「よくお考えください。異常存在の封印と拒絶こそが瑛子様の役割なら、私がそれを行える。誰もが望んだ人類の安寧が実現するのです。これこそが新しい時代です。瑛子様のその拒絶はいっときの混乱に過ぎません。よくお考えください。あなたの中に私を拒む理由はないはず。あなたは外見の美醜で人を判断するような人間でもなく、私の人格にも問題は薄いと考えます」
「わ、私は……」
塗りつぶされそうになる。
この銀髪の美青年の言葉が正論に聞こえてしまう。
だが、心のどこかが違うと叫んでいる。
こんなことは間違っている。
彼を受け入れることはできない。
自分には夫が。
「わ、私には路さんという夫が」
ぴく、とレーテの眉根が動く。
その微細な表情の変化。わずかに体重を後ろに傾けるような動きに、瑛子の洞察がするどく反応する。
「そうよ! 私は枯滝路の妻! あなたを拒む理由なんてシンプルよ、彼のほうが魅力的だからよ!」
「う……」
この言葉は瑛子の予想よりも遥かによく効いたかに見える。銀髪の美青年は明らかな怒気を示して奥歯を食いしばり、指をカギ型に曲げて震わせる。
「彼は最高よ! どんな超常存在とも渡り合って確実に追い払ってくれる! 性格に多少難があるけどそれが何だっていうの! 彼は私と結婚した! 子供だっている! 彼はREVOLVEよりも大きな枠組みで地球を守ってくれてる!」
「……お、おやめください、お客様もおられます。そのような大声を……」
「今わかったわ! あなたは中途半端なのよ! しょせんあなたのやってるのは基刻網恒常結界の真似事! あなたの力では超常存在はどうしようもない! そうよ! タツガシラが活動を止めても覚えている、私の夫が特別であることは!」
テーブルに腕をついて体勢を起こし、強い目で睨みつける。
「杜仲茶と……黒烏龍茶だったわね、すぐ用意するから受付に戻りなさい」
「瑛子様」
「戻りなさい……!」
「……」
レーテは気迫に押されるように身を引き、しかしその目の端に隙を探るような、油断のない視線を収めない。ゆっくりと眼力だけをその場に残すように振り返り、去り際に短くつぶやく。
「……たとえ路さまが超常存在であっても、排除が不可能とは限りませんよ。根乃己に存在していた超常存在についても」
物憂げな眼をどこかへ向ける。その方角に何があるのか、レーテ自身にすらぼんやりとしか察知できなかったが。
「どなたかに、持ち去っていただくという手もあるのです……」
※
「……ひ、左です」
「正解です」
周囲に居並ぶ柱は三本。
その元々は和倉寺の住職、マキ、そして枯滝竜興。
残されたのは大貫と高槻、枯滝水穂のみ。
「理由をお伺いしても宜しいでしょうか」
「り……理由なんかもう無いですよ! ただの勘です!」
大貫は大柄な体を折りたたんで正座し、顔に大粒の汗を浮かべている。
三日目の朝。しかし時間の止まった夕景の世界の中で、時間など意味を持つのだろうか。
「なぜこんなことをさせるんです、一体、何回答えさせれば気が済むんですか」
「偶然を排除しているのです。無貌円空が見分けられるならば回数などに意味はありませんが、困ったことにこの世には遇機というものがある。回数を重ねればその憂いを排除できる」
「し、しかし、そのノートが尽きれば終わるって約束のはず」
雲水は己のノートに視線を落とし、それに手をかざす。
瞬間、風が吹くようにページがざわめき、ノート全体が膨張して厚みを増し、無数にページが増えていく。
「! ひ、ひどい!」
「もはや問答など無用」
ぱしん、と合掌を打つ。その所作に何らかの気迫が満ちるようだった。大貫は言葉を封じられたかのように押し黙る。
「時間の止まった世界において待機など無意味でしょう。次からはこちらの用意ができ次第答えていただきます」
雲水は彫刻材を取り出す。もはやノミで削ることもなく、ぱらぱらと木片が剥げ落ちて円空仏が現れる。
「う、そ、そんな……」
「つ、次は私が行きます」
と高槻。前に出ようとする彼に、しかし水穂が追いすがって止める。
「だめ! 公平に決めないと」
「だめですよ水穂さん、私には妻子がいるんですが、子供のあなたを守らなかったとあっては家族に顔向けできません」
「でも……」
「そ、それに、たぶんこのゲームに勝利はありません。全員が柱にされて終わりです」
その声は水穂にだけ届く大きさだった。水穂も耳を澄ます。
「私が答えてる間に水穂さんは逃げてください。逃げた人は呼び寄せられたり放置されたりする。ワカナさんが呼び寄せられていないことを見ても、逃げればそのまま逃げ切れる可能性もあります」
「そんなこと……」
「このゲームに終わりなんてありません。もう完全に同じ仏像が並んでる。ノートのページも増えていく。最初から人間が勝てるゲームじゃなかったんです」
「……」
逃げる。
逃げれば終わる。
それだけはありえない、と水穂は昏い感情とともに確信する。
(あの無貌円空……誰もその効果が分からなかった器物。凶兆の天秤では超常存在と出る……)
(凶兆の天秤で見分けられると思ったけど、このお寺にあったやつだとうまく反応しなかった……)
それも既に試したこと。
何度目かの勝負のときに祖父は凶兆の天秤を見つけてきたが、どちらも通常存在と出た。
(超常存在が異常性を失うのは考えにくい。きっとこのお寺と同じ。凶兆の天秤の効果のほうが失われている)
無貌円空。
その荒削りな仏像について考える。
(……あの仏像。唯一の特徴は流れの者が「欲しがる」ということ……)
(でも、なぜまだ奪われてないの?)
黒現と名乗った雲水、その力があれば円空仏を奪うなど容易いはず。
(かつてそれを持っていた家は、不思議な器物や莫大な財産と引き換えに無貌円空を渡してきた……)
(なぜ今回はそうしないの、かつての流れの者とは別の星から来た人だとしても、なぜ今回は試すような真似を……)
(試す? いや、もしかして何かを確かめている? いったい……)
思いつかない。何も浮かばない。
そのような情報はもう数え切れないほど想起している。思考は堂々巡りを繰り返し、あらゆる連想の穴を埋めてきた。だが所詮は一人の人間、考えられる量にも限界はある。
「さあ、準備は整いました、次の」
「左です!」
叫ぶような高槻の声。水穂の意識が引き戻される。
「だめ! 高槻さん!」
ぱん、と手を打ち合わす音。高槻の体が上下に引き伸ばされ、畳と天井を繋ぐ柱に。
「不正解です」
雲水がノートをめくる。水穂の頭にかっと血がのぼる。雲水の黒い輪郭がぼやけて見える。
「残念です。ろくに円空仏を見もしないで答えてしまわれた。私は誠実な勝負をお願いしているのに……」
「何を、勝手な……」
その時。
ふと、ひらめく言葉が。
――最初から人間が勝てるゲームじゃなかったんです。
(……本当にそうなの?)
(この勝負、人間側に勝ちがあるとすれば何?)
(それは、無限に答え続けること。つまり無貌円空を完璧に見分けられる)
(なまじクリアの目標回数が予感できたから見落としてた。このゲーム、私達が無貌円空に何らかの見分け方があるなら……)
(あるいは、それこそが無貌円空の異常性だとしたら……!)




