第五十二話
「水穂」
枯滝老人は。
この小柄ながら狡猾老獪なる気配を秘めた人物は、眼光鋭いままに己の孫を見る。その気配にあてられて、朝霧の奥で鳥が飛び立つかに思えた。
「それを言うのはお前が初めてではない。多くの人間がそう言うた。今こそ世界が変わるべき時だと、此度の流れの者こそが選ばれた最初の出会いの相手じゃとな。じゃがそれらの声はすべて闇に消えた。なぜか分かるか」
「……それを否定する声のほうが、大きかったから」
「少し違うな。否定も肯定もない。この世の絶対的な権限を握っておるほんの数名、あるいは特定の人物ではない不定形の意志、それは最初から流れの者を選ぶ気など無いのよ」
老人は一歩、歩を進める。まだ彼我の距離はあるが、目の前に指を突きつけられたような威圧が迫る。
「選ばないことが答え。沈黙こそが正道。それがREVOLVEの正体じゃ」
「でも! REVOLVEには限界があるって聞いてる! 地球の公転軌道に地球を並べた数。70000個と少しが地球の残機だって……」
「忌々しいシステムよ」
枯滝老人は空を見上げる。水色に染まらんとする早朝の空。その中でいくつかの一等星を見定めんとするかのように。
「公転軌道上の地球をずらすことで因果を抹消するシステム。超常存在を除けばという但し書きはあるが、常識的でないものを排除できる。もちろん人類に創れるシロモノではない。戦後すぐ、米国が流れの者から渡されたシステムよ」
「……お爺ちゃん?」
「水穂、傲慢じゃとは思わんか。人間のような矮小な存在が、尊ぶべきファースト・コンタクトを『選別』するなどと。これを与えた者は何を考えている。わしは偶にこう思う。これは罰ではないのかと。数万もの新しい出会いを拒み続けること、新しい世界の扉を自分で閉じさせる、それこそが人間に与えられた罰なのではないかとな」
「……」
明らかに、枯滝老人は興奮していた。より正確に言うなら興奮しようとしている。
普段の祖父には見られない激した気配。REVOLVEの元職員としては踏み込みすぎた発言。
「流れの者だけではない。神秘的な器物。人類という枠を超えるほどの天才たち。あるいは古来より世界に息づいてきた人間以外の知性。それらもすべて消し去ってきた。これほどの罰があろうか。水穂よ。人間がどれほどのものを捨ててきたのか、REVOLVEですら全ては把握できんのよ。何という愚昧! 何という恥知らずな歴史であることか!」
水穂は考える。祖父が何を言おうとしているのか。この会話は何なのか。
(……奮い立たせようとしている)
水穂はそう考える。祖父は言葉を重ね、根源的な問いを叫ぶことで何かの一線を踏み越えようとしている。それはおそらく根乃己を、枯滝家を決定的に変えてしまうような告白であると。
竜興老人はやや声を落とし、無造作に、しかし何か決定的な気配を乗せて言う。
「だが、いつかは終わる。この馬鹿げた宴もREVOLVEの限界と共に終わる。その後にどんな不条理な世界があろうと受け入れるしかない。そしてそれが誰なのか、もう薄々わかっておるのだ、水穂よ、だからわしは」
「お爺ちゃん!!」
ざざ、と、今度は気配だけではない鳥の飛び立つ音。
水穂の渾身の叫びが祖父という津波を押し止めるかに思えた。祖父は数秒だけ硬直し、己が何を言おうとしていたのか、それすらも見失ったかに見えた。
「……だめだよお爺ちゃん。何を言いたいのかは分からないけど、それはきっと、どさくさに言っていいようなものじゃないよ」
「……水穂」
「お爺ちゃん、向き合うべきものと、ちゃんと向き合って」
その言葉に、祖父は目に見えて気配を重くする。視線を下げ、岩となって言葉をやり過ごそうとするかに思える。
「不思議なものとか、異常なものとか、怖くて不安で、遠ざけたくなるけど、そういうのはきっと、理由があって出会うんだよ。だから大切にしてあげたい。その不思議について考えてあげたいよ」
「お前が、あの無貌円空の謎を解くというのか」
(違う)
祖父は話をそらそうとしている。
話を無理矢理に異常存在へと引き戻し、自分が吐露しようとしていた言葉を覆い隠そうとしている。
(わかるよ、お爺ちゃん)
今、初めて。
枯滝水穂は、枯滝竜興という人物の最奥に触れた気がした。
そこにあったのは、恐れ。
祖父は何かと向き合うことを恐れている。
その恐れを、流れの者とか異常存在に仮託して同一化している。
排除と拒絶、あるいは問題の先送り、それが祖父の本質。そしてREVOLVEの本質なのか。
では、祖父は本当は何を拒絶しているのか。
それは思考ではなかった。疑問の道がそこにたどり着いた時に、ごく自然に答えが浮かんだ。ある人物のことが。
(……お父さん、なんだね)
あるいは、ずっと前から気づいていたこと。
祖父は父と会いたがっていない。父のことを心配したり、思い出話を語ることは一度もなかったのだから。
そして水穂もまた、そんな祖父の心情に気づくまいとしていたのか、無意識に。
「私が解くよ」
胸に手を置き、葉擦れの音とともに言う。
すべては一つだと感じる。
根乃己のこと、家族のこと、そして不思議な仏像と、遥か遠くから来た旅人のこと。
解けるかどうかではなく、どう向き合うか。
その転換によって、すべてが変わるのだと――。
※
「左じゃな」
枯滝老人が告げ、雲水は手元のノートを静かにめくる。左側のページに大きな丸がある。
「正解です……なぜ分かったか伺っても宜しいでしょうか」
「何度聞こうと大して変わらぬ。本物の無貌円空とは温かみが違うというだけよ」
「……」
朝の九時。最初の勝負は危なげなく枯滝老人が勝つ。雲水は手を強く押しつけての合掌をしている。
「愚考いたします……何らかの磁力を利用しての不正という可能性はありますでしょうか」
「答える義理などなかろう。そもそも、この仏像の当てっこもおぬしの押し付けに……」
言葉を止め、言い直す。
「儂らはこうして当てっこに付き合っている。それだけじゃ」
「……私は、可能な限り不正の可能性を排除したい。ですから」
ぴしり、と空気が乾燥する感覚。
何かが変わったが、それが何なのか言語化できない。肌感覚、環境音、己の体重、何かが。
「この一帯から磁力を奪いました。これで磁気を用いての手妻は不可能……」
「勝手にせい、では一時間後に」
「はい」
居住棟へと戻ってきて、大貫がまずそれを見つける。
「あ……冷蔵庫のドアが開いちゃってる」
大貫は中身を確認するが、どうせほとんど入っておらず、昨日から電気も止まっている。大した被害は無かったようだ。
「磁力……磁石が使えなくなったって事かな。でもまあ、冷蔵庫が閉じなくなったぐらいなら」
「仕掛けが一つ潰された」
竜興が言い、高槻らが顔を向ける。
「じ、磁石が仕込んであったんですか?」
「マジックのインクに鉄粉を含ませていた。微量の磁力を帯びており、ノートを自然な状態で開いたとき、その開き方に影響するようにしておいた」
発電施設にあった道具で作ったという。僅かな時間でそれをやってのけた祖父に皆が驚愕する。
「じゃ、じゃあ次からは」
「まだ仕掛けはある。しかしあと20数回はとても無理と見るべきじゃろうな」
そして祖父の目が水穂に向く。
「水穂、何か分かったか」
「まだ分からない……もう少しだけ引き伸ばして」
水穂は勝負の間も上の空のようだった。口中で何かをつぶやき、雲水と仏像をじっと見たかと思うと、くるりと背中を向けて考えに沈んでいた。その奇妙な様子に大貫が声をかける。
「水穂ちゃん、大丈夫? 無貌円空のこと考えてるとか聞いたけど……」
「大丈夫です。大貫さんの方は大丈夫? もう食料が無いから、朝あんまり食べてないでしょ」
顔を向けないままにつらつらと返答がある。何かを懸命に考えているが、脳の一部を他者との会話に向けられるようだ。
「ぼ、僕は大丈夫だけど」
ぐるるるる。
遠雷のような腹の虫が鳴った。
「飯がいるのう……大貫、高槻、山菜でも取りに行くからついてこい」
「わ、わかりました」
「大貫さん、和尚さんの釣り竿見つけたんですけど釣りできますか」
「少しなら……高槻さん、キノコの見分けとかできますか……?」
残された水穂は男どもの方を見ず、ただひたすら考える。
あの雲水のことを。そして無貌円空のことを。
※
「仕掛けは七つあった」
夕刻。何度目かの勝負を終えた竜興が全員に言う。
「そ、そんなに」
「ワカナに伝令を頼んでおった」
ワカナ。
その名前を久しぶりに聞いた気がする。事態発生の直後から姿を消していた人物。
「わしは山の中にてワカナに合流し、霧雨会、わしの仲間たちの会へと手紙を届けてもらった」
水穂はまだ思考を続けており、祖父と大貫らの会話は片耳で聞くのみである。おそらくそんなことだろうとは思っていた。
「ど、どんな手品だったんですか」
「最後に残っていたものだけ説明するが、あのサインペンにはガリウムが仕込んであった。放射性物質でありγ線を出しておる。それを根乃己の上空にある衛星から直接見る」
それは解像度1センチという最新の監視衛星。分厚い雲と屋根を透かして、円を描いて動くサインペンを見つけ出すという。
「それによって雲水の腕の動きを察知した。あとは儂らに教えるだけじゃ」
「で、でもどうやって」
「色々じゃ。電波だったり音だったり、最後に残っていたのは雲じゃ」
祖父が遠くを示す。そこにはあかね雲が浮いている。
「雲……?」
「指向性を持たせた放射線を空に照射すると、空気中の水分が凝結して筋雲ができる。霧箱の原理じゃ。これによって儂に答えを教えていた。だが」
晩鐘が鳴り出すかに思える茜空。太陽は地平の果てに沈み、その炎の名残が西の空に残る頃。
その空は夕焼けの終わりかけ、昏い寂しさの潜む赤のまま変化しない。さらには飛ぶ鳥は空の一点で静止し、森は写真のように固まったまま静寂で満ちる。
「もう使えん。時の流れを奪われた」
水穂たち四人の細胞以外の時間が止まる。
それはもはや技術で説明できる事なのか。しかし混乱の時期は通り越していたことと、あまりにも超越的な事象のために大貫らの動揺は少ない。
枯滝竜興は男二人を観察し、恐慌は起こしていないと見てとる。そして厳かに発言した。
「次の勝負が夜8時のものになる、じゃがもう手はない。いよいよもって勘で答えるよりない」
「ぼ、僕が行きます、クリアできる可能性が高いのは枯滝さんだと思うし」
「いけません大貫さん、ここは私が」
「だめだよ」
数時間ぶりに水穂が言葉を発したため、皆が自分の方を向く。
「公平にじゃんけんで決めよう、それ以外はだめ」
「水穂ちゃん、でも無貌円空の謎を考えてるんでしょ? 僕たちにはそれは無理だから」
「だめ。絶対にだめ。じゃんけんしないなら次は私が答える、誰よりも先に」
「分かった」
述べたのは竜興。
「水穂、分かっておると思うが」
「分かるよ、ワカナさんにもまだ解答権があると思う。最悪の事態を避けるためならワカナさんに答えてもらうべきかも知れない」
でも、と、強く祖父を見つめる。
その瞳には強い光はあっても敵意はない。純然たる水穂の決意だけがある。
「ワカナさんにはまだ覚悟が出来てないはずだよ。この場で次に答えるべきは私達の誰か。そう思うの。もし私が選ばれて失敗したら、きっとお爺ちゃんが解いてくれる。お爺ちゃんが柱にされたら大貫さんが、そして高槻さんが」
「ぼ、僕にはとても無理だよ」
「わ、私も自信が」
「ううん、違うんだよ二人とも。流れの者の圧倒的な力の前に、人間の個体間の差なんてゼロに等しいの。能力じゃなくて意思が大事。意思と運命が必ず道を切り開く、そう信じるの」
「し、信じる……」
そして四つの拳が握られて、振り下ろされて。
負けた人物は、やや物寂しげに俯いた。
まるで、華やぐ宴に参加できないことを、悲しむかのように。
「……わしか」




