第五十話
円柱。無味乾燥で幾何学的な変容。
人であった面影を失い一本の柱に変じている。あまりにも一瞬の出来事。人間の変じたものであるという実感がついてこない。ただ恐怖だけが周囲にわだかまる。
「お爺ちゃん! なんてこと!」
「黒現とやら」
竜興は水穂の声を無視し、黒衣の雲水へと語りかける。
「おぬしはだんだんと像の精度を高めておるようじゃが、わしらには答え合わせをする手段がない。おぬしの判定を信じろと言うのはゲームとして不完全じゃ」
「確たる証し立てが欲しい、と言われるのですか」
「これを使ってもらう」
竜興老人が放り投げる、それは一冊のノートである。そして一本の太字サインペン。
「そのノートを見開きで使ってもらう。あらかじめ、見開きの状態で左右どちらかに丸を描く。あとから書き換えられぬよう、ページ全体を使って大きくな。出題ごとにページをめくれば答え合わせが可能じゃ」
「承知いたしました」
「ページが尽きたら終了とする、すべて答えられればわしらの勝ち、柱に変えた連中も元に戻してもらう、それならゲームを受けよう」
「よろしい」
水穂は声を上げたかったが、祖父は背中で他の人間を黙らせている。
ごくありふれたキャンパスノート。ブルーの表紙で30枚つづり。見開きで使用する場合は表紙を入れて31問の出題が可能だろうか。
「他にはございますか」
「夜中の20時を過ぎたらそれをその日で最後のゲームとする。翌日は朝の9時から開始じゃ。その他、適宜必要なルールを提案したい」
「わかりました、他には」
「わしからは以上じゃ、では一時間後に」
僧は二つの彫刻に袱紗をかけ、粛々と布の下でかき混ぜ続ける。
水穂も何か提案するべきかと思われた。重病など緊急事態には勝負を無効にするルールを定めるか、あるいはどちらが勝っても勝負が終わり次第、柱に変えた人間を解放すると確約を取るべきか。
「……」
分からない。
そのルールを作ることが適切な行動かどうか分からない。大きく裏目に出たら、あるいはこの流れの者を怒らせたら、ということが思考の先に立つ。
結果論ではあるが祖父の行動は正しかった。流れの者に条件を飲ませたのだ。最大で31問というゴールラインも明確になった。
では自分は、どう動くべきだったか。
「……みんな、とにかくここを離れよう」
※
また住職の生活スペースへと戻ってくる。
「ワカナさんは無事でしょうか」
高槻が言う。ワカナは戻っていない。
マキが消えたことは察しているはずだ。この寺に様子を見にくるかとも思ったが、戻ってこれず逃げ続けているのか。無理もなかろうと思う。
水穂の推測では歩いて麓まで行くなら二時間はかかる。必死で走れば一時間だろうか。だがそれに何の意味があるのか。おそらく地球の裏側に逃げても簡単に呼び寄せられる気がする。誰に助けを求めようと無意味だ。そして、祖父がいつワカナというカードを切るか分からない。次の回かも知れない。
「しょうがないかもしれない……あんなふうに強引に矢面に立たせるのは良くないけど、流れの者からは逃げてはいけないの。もしワカナさんが戻ってきてくれれば、一緒に戦うように説得するよ」
「逃げてはいけない……そうかもしれないね。ところで水穂ちゃん、もう匂いでも判定できそうにないよ、どちらもまったく同じ匂いだった」
「うん……匂い分子を観測して完全に同じものを合成する、並大抵の技術じゃない、時間も操ってたし、かなり高位の人だと思う」
「あ、あれって妖怪か何かなんですか、とても信じられませんよ、わ、私はもしかして気がふれてるのかと思うほどで」
高槻は混乱の渦中にいる。彼はそもそも流れの者に接触するのが初めてだろう。大貫は何度か接触しているが、その時の記憶は失われている。
だが記憶は消えていても、無意識下での慣れは存在するとも聞いていた。高槻に比べれば落ち着いている。
「まだ……ギリギリだけど肉眼で判定できるレベルだと思う」
二つの仏像を思い浮かべる。確かに少し違いを感じた。時間をかければ鑑定できる気がする。
「誤答した場合、新しい仏像は作られない……私とおじいちゃん、大貫さんと高槻さん、それとワカナさんで五人残ってるから、四回までは間違えられるよ」
残り回数を31回と見積もった場合、なかなかに厳しいノルマと言うしかない。
「あのノート……。ねえ二人とも、あのノートと同じやつを探して、どこかにあるはず」
「ノートかい? わ、わかった」
それはすぐ見つかる、和倉寺の和尚が身の回りのことを書きつけていたノートだ。何冊か買い置きがあった。
「こう……片方に丸を描くんだよね」
大きく描いてみる。なんだか贅沢なノートの使い方であり、少し不自然に思えた。右、左と文字を描けばよい話に思える。
「なんでこんな描き方なんでしょうか? うちの水道局でこんなノートの使い方したら叱られますよ」
「お爺ちゃんは、後から書き換えられないようにって言ってたけど……」
それも何だかしっくりこない。大文字で右とか左とか書いておけばそうそう書き換えられないだろう。
「あ、そうか分かったよ水穂ちゃん。枯滝さんはこのノートを盗み読みするつもりだ、だから夜八時までの勝負なんだよ。夜のうちにこっそりと」
「……」
それは不可能だ。
流れの者がそんな隙を見せるとは思えないし、発覚すれば敵対する恐れもある。あの流れの者とはとても戦えない。
それに、そもそも。
「ノートに何かトリックがあるなら、私たちにも教えるべきだけど……そうしないのは、お爺ちゃんだけが分かっていればいいから。もしかして渡した方のノートだけに細工がしてあるのかも……」
仮に仕掛けがあるとして、水穂たちに伝えなかったのは。
それは、不確定要素を生むから。
視線の動き、表情の変化、それが雲水に伝わることを嫌った。
高槻と大貫は素人だから。
そして、水穂も。
唇を噛む。
当然のことだ。
水穂が祖父の立場なら、イカサマを仕掛けるのは自分一人の責任でやったはず。
悔しいのは祖父の行動に追いつけていないこと。守られていることだ。マキを、他の人間を犠牲にしてまで――。
「どうしたらいいの……」
水穂は考え続ける。長距離走のような苦難の思考。これまでの経験をすべて動員するような思考。よいアイデアは浮かばない。
なぜ浮かばないかが水穂には分かっていない。
二つの物質から真贋を見分ける。それが可能な人物のこと。
物質を原子レベルで観測できる存在のことを思いつかない。麓まで逃げようとしているワカナがいるのに。伝言を頼むことを思いつかない。
水穂は思考し続ける、一人きりで、砂漠を歩くような心地で。
※
「た、たぶん右」
太陽が中点に至る頃、6回目のゲームが行われる。答えたのは高槻。
「正解です、なぜそう思われましたか」
「ひ、比重がわずかに違います。この寺は乾燥していますから、あなたの懐にあった彫刻材と比べてわずかに軽いんです」
「重さですか、次はそのあたりも気をつけましょう」
雲水は淡々と彫刻材を取り出し、また彫り始める。まるでゲームのNPCのようで、雲水の風体に慣れてしまうと所作がひどく無味乾燥なことに気づく。そこに不気味さを覚える。
「ありがとう高槻さん」
「お、お役に立てて嬉しいです」
今のところ脱落は起きていない。
ここまで手触りや色味、微細な虫食いの跡などで見分けられた。
(……でも、ノルマはまだ20回以上)
また居住スペースまで戻り、待機となる。
「あ、あのう、夕ご飯は僕が作ろうか」
大貫が提案する。そう言われて水穂も空腹を意識した。夏の太陽は沈むのが遅いために気づかなかったが、もう夕飯時である。
「うん、お願いします。材料があればいいけど」
「さっきチェックしたよ。あまり残ってなかったけど一食分なら何とかなりそう」
水穂は外を見る。
一度麓まで降りて食料を調達することも考えた。だが往復なら四時間はかかる。二人だけに勝負をまかせるわけにはいかないし、高槻や大貫にはかなり難儀な往復に思われた。
「水穂、こっちにおったか」
そこへ祖父が戻ってくる。祖父は毎回広間に呼ばれているが、そのまま外に出て行ってしまう。
「お爺ちゃん……」
「次からはわしが答える、おんしらは黙っとればええ」
え、と三人が声をそろえる。
「お爺ちゃん、何か作戦が」
「迂闊なことを喋るでないぞ」
そう釘を刺される。むろんポーカーフェイスを通すつもりだが、祖父はこの数時間でどんな作戦を練ったのだろうか。
「それと発電施設に保存食が少しあった。誰ぞ料理できるか」
「あ、僕がやります」
空気が弛緩する。安堵の甘い香り。ほとんど勝負に関わってなかった祖父だが、それでも高槻や大貫は無意識的に彼を頼りにしてると感じる。百戦錬磨の貫禄と言うべきか。
あるいは水穂もだ。もう自分は何もしなくていいのだと、祖父に任せていれば乗り切れるという誘惑が頭をもたげる。何を準備したのか、どんな策を巡らせたのか、おそらく三つや四つではないだろう。
(でも……)
残り20数回、本当にそれだけで乗り切れるのか。
(乗り切る……?)
そこに違和感がある。だが具体的に言葉にならない。
夏の日差し。太陽が傾いてもなお、建屋の中にいるものを刺し貫かんとする紫外線。
不安と安堵が入れ替わりに押し寄せ、水穂の心にさざ波が立つ。
※
「右じゃ」
「正解です」
黒現がノートのページをめくる。水穂たちから見て右側のページに大きな丸がある。
竜興はすっかり暗くなった外を見た。遠景の山は夜闇に覆われようとしている。
「今日はこれまで、明日は朝の8時からじゃな」
「承知いたしました」
雲水は二つの木仏に目を落とす。もはや鏡で映したように瓜二つである。
「なぜ見分けられたか、伺っても宜しいでしょうか」
「無貌円空だからというて表情がないわけではない。おぬしの仏には感情が見えんのよ。立ち姿にも心の動きは反映されるからのう」
「……左様ですか」
これで祖父は三回連続の正解。しかし毎回、取ってつけたような印象だけを理由としている。さすがに怪しまれぬかと思うのは水穂だけではないが、表情には出さない。
(……分からない。お爺ちゃんの真後ろから見てるのに何も見えない。いったいどんな仕掛けをしてるの)
雲水も人間をはるかに超越する存在のはずだが、何も気づかないのだろうか。それとも竜興はそこまで見抜いてイカサマを仕掛けたのか。
「では明日」
「何らかの」
退出しようとする祖父を、雲水が呼び止める。
「何らかの手妻……という邪推をお許しください。畏れながら、もはや顕微鏡で覗こうとも差異はない精度のはず。それなのに見た目の印象が異なると申されるのですか」
「手妻じゃと? 何もないのう」
それに、と老人は言う。
「誠実に勝負を受けておるわしらにあまりな言葉じゃの。どのような根拠があって言うておる」
「私も必死に問うているのです。まったく合一である無貌円空を見分けることができるか否か」
「簡単なことよ。お主にはわしらには見えない波長が見えておるのじゃろう、でなければこんな勝負に何の意味がある。お主に見分けられるその要素が、わしらにも感じられるというだけよ」
は、と水穂は気づく。
そうだ、この勝負はどこか不自然。
雲水は二つの木像の見分けがついているのだろうか。
彼にしか感知できない何らかの波長があるのか。
無かったら、どうなる?
もし、この雲水が原子レベルで合一な木像を作れるなら。
その形状はもちろん、匂いも、水分含有量も、経過した歳月までをも同じにできるなら。
なぜ欲しがる。
雲水の目にわずかな険が見える。この無機物のように乾ききった印象の僧が、感情を逆立てているのか。
「愚考いたします……何かしらの電気的な仕組みで手妻を仕掛けている、という可能性はあるのでしょうか」
「知らんな。説明もできぬことは推測とは言わん。ただの言いがかりよ」
「相違ございません。しかし私は不安を除きたい。完全なる成果を得たい。万に一つの過ちも許されない。ですから」
「――この一帯より、電気を奪う」
ばつん。と。
すべての蛍光灯から、光が消えた――。




