第五話
それは一見すれば蛍の群れにも見える、ぼんやりとした光の塊である。
体長は大きめのニシキヘビほど。燕のように空を切り、緑の煙を何度も突き抜けている。目を凝らせば無数の鱗に覆われた龍であり、どこかの寺院で見たような長大な体、五本の爪を備えた短い腕、口のそばに紐のような髭を生やし、魚のような鱗と蛇のような腹部を持っている。
草苅記者は記憶を掘り起こす。たしか龍は九つの獣に似ているといい、鹿の角、牛の耳、兎の眼、ラクダの頭、虎の足跡つまり虎のような手の平などの特徴があるという。
「綺麗な龍……全身金色に光ってるし」
「さっそく捕まえるのだ」
鈴鬼が細い腕で竿を振るい、星空の中で網が跳ぶ。網はまた普通サイズに戻っている。
それが龍の体を突き抜け、ぱさりと地面に落ちる。
「あれ? 外したの?」
「ぬ、おかしいのだ、もう一度」
龍は上空をふらふらと飛び、段々とそのスピードを落として降りてきている。緑の煙にまとわりついて、煙で沐浴でもするかのようだ。その影を網が何度も突き抜けるが、龍は微動だにしない。
「なぜなのだ……捉えているはずなのだ」
「うーん、そうね、横から見てても距離が足りないとかじゃない、確実に網に触れてるのに突き抜けてる。でも龍ってぐらいだし、実体がないとかそういうオカルトなコトなのかな?」
草苅記者は何度もシャッターを切りながらそう言う。龍はどうやらこちらを警戒することをやめたのか、より低くまで降りてきて地面に転がった香の上に鎮座する。煙はそろそろ薄くなっているが、周囲には水苔のようなヨモギのような、なんとも言えない仄かな香りが漂い、龍はその香りの上でとぐろを巻く。
「なんだか余裕……まったく相手にされてないみたい」
「捕まえるのだ。仙錦玉龍は星の定めを司る龍。捕まえればその幸運と力を得られるのだ」
ばさりばさり、何度も網を往復させるがまるで変化がない。そうして百回も網を振るっただろうか、よろめいた拍子に座り込んでしまう。
「なぜなのだ……七代前の王もこれを捕まえたはずなのだ」
「んー何か捕まえるコツとかあるんじゃないの? その時の話って伝わってない?」
鈴鬼はでっぷりとした腹に手をあて、少し考えてから答える。
「こう伝わっているのだ。その王は青の国に降り立ち、香にて龍を呼び、酒旗のもとにて雨を耐えること七度、地の王の助力を得て網を振ること三千。かくて龍を捕らえたりと」
「三千……そんだけ何度も降らないと捕まえられないってこと?」
「そうなの? レーテ」
「いえ」
遠巻きに見ていた水穂がつぶやき、レーテがごく小さく首を振る。
「中国には白髪三千丈とか三千里という言葉があるように、三千は「たくさん」という意味でしょう。酒旗とはこれも星図にまつわる表現ではないでしょうか、酒旗とは黄道八十八星座では獅子座に当たる位置です」
「雨に耐えるってのは?」
「獅子座流星群のことではないでしょうか。33年に一度、獅子座の範囲を放射起点とする流星雨です」
「ちょっと待って!」
草苅記者が声を上げる。
「じゃあ何!? その大昔の王様は33年に一度の獅子座流星群が、七回過ぎるまで網を振り続けたってこと!?」
「そうなるのかも……」
水穂はやや遠慮がちにうなずく。
「どうしようレーテ、一度帰って飲み物とかテント取ってこようか」
「あなた随分落ち着いてない!?」
草苅記者は声を大にする。その間に鈴鬼はまた立ち上がり、ばっさばっさと龍の影を薙ぐ。
「いやあなたも、ちょっと待ってよ、何度も振ればいいってものじゃないでしょ、なんで捕まえられないのかを考えないと」
「先祖はこの網で捕まえたと聞いているのだ、これで間違っておらぬはずだ」
「ううん……ねえあなたたち、一緒に考えてよ、何かカラクリがあるはずなのよ」
言われて、ようやく許しを得たというような風情で水穂たちが近づいてくる。暖かい日だったとは言え梅雨前の夜に白のワンピースは少し寒々しく見えた。水穂はワンピースの裾を畳んでしゃがみ込む。
「うーん、あの人って時間を苦にしないみたい。このまんまだとホントに何百年もああやってるねえ」
「一度、同族が来たことがあるようですね」
「そうだねえ。ねえレーテ、地球側の歴史にはそういうの残ってないの?」
「私の知る限りではありません。しかし想像上の理想郷、桃源郷などと呼ばれる場所に迷い込んだ人間が、数日過ごしただけで数百年が経過していた、という話は残っています。桃源郷とは仙人らの住まう地であり、仙人は自ら望む以外は死ぬことがなく、龍に乗ってさらに天の高みに昇ったり、山に入って大地と一体化するなどと言われています。起きている事象と近しいかと思います」
「うーん、それじゃ展開次第で本当に数百年経っちゃうなあ、そこらへん気をつけといてねレーテ」
麦わら帽子の少女は少し口調がフランクになっている。お客様扱いも肩が凝ってきたところだし別に構わないが、やはり水穂は本来もっと快活な子のようだ。
「あなたたち、なんだか慣れた感じだけど……」
「ねえ草苅さん、あなたはどう思う? どうして網が突き抜けちゃうのか」
「え? うーん……そりゃやっぱり龍ってぐらいだし、術が使えるんじゃないの。あれは幻覚の術か何かで、本体は別の場所にいるのよ」
「いえ、あの生物は実体です。質量を備えています」
そう否定するのはレーテである。彼のアクアマリンの瞳は夜であってもはっきり色がわかる。その視線は龍に据えられていた。ちなみに言えば、この場のおもな光源は目の前の龍である。
「すでに何度か触りました。接触は可能なようです。空気の流れも龍の体に沿って流れています。網だけが突き抜けているのです」
「触った?」
レーテの発言は草苅記者には今ひとつ分からなかったが、触れられる、という発言を聞いて己でも試してみることにした。
龍はとぐろを巻いて首を寝かせ、深い眠りに入っているように見える。1メートルほどの高さに浮いている状態なので、そっと近づいて鱗に手を這わせる。ざらついており、湿った冷たい質感、確かに触れられる。
その尻にばしんと網が当たる。
「あたっ、ちょっと、今はやめてよ」
「朕の龍なのだ。勝手に触るな」
「というか、触れられるなら網で捕まえる必要もないじゃない。このまま檻にでも入れれば」
するり。
急に手から質量が消える。手だけが空気を突き抜けて上昇し、龍はその場に鎮座している。
「え? 嘘、急に手が突き抜けた……」
「朕の邪魔をするでない」
ばしんばしんと無遠慮に尻に網が当たる。草苅記者は慌てて退散。
「もー、協力してるんでしょうが!」
しかし分かったこともある。この網も実在のものだ。もっとも網のほうが幻覚などという話になるといよいよワケが分からなくなるが。
鈴鬼はそのへんを飛び回りながらずっと網を振るっている。草苅記者も網を避けつつ竜に触れようとするが、体を撫でる程度はできるものの、強く触れるとすり抜けてしまう。
水穂とレーテは少し離れて、しゃがみこんで作戦を練り始めていた。
「あれ、なにか理屈があるのかなあ。必要に応じて体を液体や気体にできるとか」
「その場合でも網が通過すれば三次元的形状の乱れがあるはずです。観測していますがまったく乱れていません」
「なにかの目の錯覚を起こして、実際と違う位置にいるとかかなあ」
「物理的接触で座標を確認しています。実在は間違いないと思われます」
水穂は銀髪の青年を見る、彼がそう言うなら確かなのだろう。
レーテは体を分解できる。煙の粒子のように小さな観測衛星となり、紫外線から赤外線まで全ての波長の光、音波や放射線まで観測できるのだ。
より正確に言うなら、彼には定まった形というものはないらしい。体を構成する無数のユニットの一つ一つがレーテであり、全体で一つの思考を共有している。
「念のため、近くに何か隠れてないか探ってみて」
「はい……3キロメートル先まで観測範囲を拡大、小動物や昆虫以外の生物はいません。土中も同様です。熱源や放射線源もありません」
「だーもー、ちょっとコレ無理じゃないの、というかこんなコト何日も続けてたら餓え死にするわよ」
だんだんむかっ腹が立ってきたのか、地面を足で踏み鳴らしつつ草苅記者が怒鳴っている。
「ふむ、食い物ならあるぞ」
そう応じるのは鈴鬼、だぼだぼの衣服の胸元に手を入れ、まるまるとした大きな桃を取り出す。全体が上から押さえつけられたように潰れており、タテに輪切りにしたなら平たいハートマークが出てきそうだ。
「まだ梅雨前なのに桃……それになんか潰れてて変な形……」
「食べたら種をそのへんに撒くのだ、すぐに大きくなる」
皮は薄く、そのままかぶりつけそうだった。思い切って口にすると中から弾けるような水気と甘い香り、これまで食べたことがないような高貴な味である。夢中で食べ進めてしまう。そして種が落ちると、すぐに種が割れて根が地面に潜り、双葉が起き上がり、若木となって周囲の地面を持ち上げながら根を張り、幹をねじらせながら成長し、人の背丈ほどの桃の木になっていく。
水穂がそれを見ながら囁く。
「ちょっとあれやばいよ、撒いた桃の種がすぐ大きくなって何度も何度も実をつけるって感じじゃないの」
「あれは蟠桃ですね。桃はその味わいと見た目の美しさから、仙人の食べ物であると言われています」
「早く対策立てないと、何か考えられることないの?」
「思考深度を拡大させます。物理現象、認識干渉、何らかの奇術的手法……」
ややあって、レーテが視線を龍へと向ける。
「極小の確率ではありますが、一つを除いて回答はありません」
「それは何?」
「あの龍も網も確実に実体を持っています。実体を持っているとは、その体が原子で構成されているということです。そして互いにすり抜けている。これが成立するのは、互いを構成する原子が、互いの隙間同士を偶然すり抜けている場合です」
「そんなことあるの?」
「確率的には限りなくゼロに近くなります。しかし、あの網が龍を通過する瞬間、自然界のα放射線の透過率が下がっています。原子同士がすれちがう一瞬、原子の粒が重複した状態になるからです」
トンネル効果というこの現象は、本来は極微小な領域での電磁波の振る舞いを説明するためのものである。実生活スケールで考慮すべき事象ではない。
「あの龍は、そのような極小の確率を無意識的に励起できるようです」
「星の定めを司る龍だっけ、なるほどなあ」
いつのまにか水穂たちの近くにまで桃の樹が伸びてきている。それらは長い年月が経った樹のように樹皮に皺が寄り、幹はねじくれて舞を踊るかのようだ。
周囲はまさに桃園の眺め。
龍の放つ黄金の光が白と黄色の花を照らしだし、この世のものとも思えぬ玄妙な空間を形成している。
鈴鬼と草苅記者はまだ粘っている。しかし二人とも疲れてきているのか、動きが少し緩慢になっていた。
水穂は少し脱力して口を開く。
「……しょうがないね、お父さんに聞いてみよう。都合よく外に出てるし」
「はい」
水穂は懐から携帯電話を取り出す。漆を塗ったような黒一色の電話で、かなり大きい。静止衛星ネットワークにアクセスできる衛星電話である。
どこも圏外であったはずのこの村で、周囲で繰り広げられる異様な光景の中で、その文明の利器はどこか場違いなものにも思えた。
長々としたコール音、その周りでは桃が花をつけ、実をつけ、地に落ちて腐り、また種が芽吹く。
何回かのコールの後、ぶつりと紐を手でちぎるようなノイズ、そして回線が開く。




