第四十八話
「お坊さん……」
背に青藍の風呂敷を背負い、片手に数珠を持って手刀の形に構えている。こういう格好の僧は雲水というのだったか。水穂は本の知識を思い出そうとする。
「なぜ円空仏のことを知っておる」
竜興老人はこころもち横に動き、水穂と雲水の間に入った。
「高名なる木仏です。誰ともなく噂は渡るものでしょう」
「わざわざこんなボロ寺を訪ねずとも、岐阜県は関市の円空館に行けばよかろう」
「お戯れを、かの無貌円空とはそのように呼ばれているだけで、円空上人の作ではないと聞き及びます」
「開帳の日時は定まっておらん。今は一般の客も来ておって忙しい」
「そう容易く断念できるものではありません。せめて、ご住職に目通りを」
水穂の背中の毛がちりちりとうずく。
枯滝老人のためだ。この老人は抜き身の刀のような気配をぶつけており、黒現と名乗った雲水は柳に風とそれを受け流している。深く被った網代笠のために顔立ちは見えない。
「おやお客さんかい、旅の雲水とは珍しいものを見るのお」
そこへ割って入るのは太鼓腹の和尚。柔和に笑いつつ雲水に呼びかける。
「円空仏のこと言うとったかい、見たいなら見ていくがええさ。円空さんの作ではないらしいが、何やら訴えてくるもんのある仏じゃからなあ」
「和尚」
杭を打つかのように足先を鳴らし、竜興老人が緩みかける場を引き締める。
「折角じゃ、断食合宿の皆さんと一緒に見たらよかろう。円空仏についての話もしてやるがええ」
「ああそりゃええな。合宿のイベントに何かできないか考えとったんじゃよ。じゃあ皆でそこの広間で待っとってくれ」
当初、竜興老人はこの雲水を追い払おうとしていた。
だが不可能と見て取ったのか、せめて和尚と雲水を二人きりにさせぬように舵を切ったらしい。まだ事態は見えないが、水穂は祖父の思惑を感じとろうとする。
雲水は竜興のほうへ一礼をし、網代笠を脱いだ。
(……きれいな顔)
歳の頃は20過ぎだろうか。剃ったばかりのような禿頭。鋭角な印象の輪郭と、細筆で引いたように流麗な顔立ち。僧服でありながら都会的な、という形容詞の浮かぶ美形である。その眼差しは涼しげで知的、それでいて主張しすぎない慎ましさがある。
雲水は広間へと上がっていき、案の定というべきか、マキとワカナの黄色い声が上がった。
「……お爺ちゃん、どうかしたの」
「あれは流れの者じゃ」
小声で、しかし槍を突き立てるように鋭く言う。
流れの者、他の星系から、銀河から、あるいは名状しがたき亜空の彼方からの来訪者。
REVOLVEがその神秘的なシステムにより排除し続けている存在。先送りされ続けるファーストコンタクト――。
「流れの者……ほ、本当に?」
「無貌円空というのはな、かつては京都の名家に収蔵されておったのよ。それをREVOLVEが「徴収」した」
「異常存在なの?」
「わからん」
え、と水穂が虚を突かれた顔になる。
「凶兆の天秤で調べるとシグナルレッド、超常存在と出る。しかし現在までその効果は一切分かっておらん。素材もはっきりしておるしサンプルの木片も回収できる。おそらく破壊すら可能と推測されておる」
「効果が分かってない……あ、でもそれって怖いことだよね。何かのきっかけで、とんでもない事が起こるかも……」
「いや、ある意味ではたった一つだけ奇妙な特徴を示す。それがためにタツガシラ以外の施設、この和倉寺に安置したのよ」
「特徴……それは」
「あの雲水じゃ」
そこで話は雲水へと繋がるのか。水穂が振り向く先では、当の人物が腰を下ろした瞬間だった。
「無貌円空は、流れの者が「欲しがる」という特徴がある」
※
「はいはい、皆さんお集まりですな。さてこれから当院の秘蔵品であります、えー、顔無しの円空仏、または無貌円空と呼ばれるもんをご開帳したいと思います」
その催しは、雨戸を閉め切って行われている。秘仏であるためか、あるいは雰囲気づくりのためか。蛍光灯がそれなりに明るいので、特に荘厳な雰囲気などは出ていない。
「あのう、ご開帳ってどういう意味なんですか?」
「円空仏って聞いたことないんですけど」
女性陣から質問が上がる。和尚はやや舞い上がってでもいるのか、喜色をたたえた顔で答える。
「ご開帳というのは仏教寺院で、普段は見せない仏様ですとか、宝物をお見せすることですな。毎年やるところもあれば、七年に一度とか、六十年に一度なんて寺社もあります」
「へー、なんかすごい」
「もう一つの質問、円空仏というのはですな、江戸時代の僧である円空上人という方がおられまして、その方は全国を渡り歩いて修行の旅をなさったのです。そのときに木彫りの仏像を全国に残して、これが円空仏と呼ばれます。生涯で12万体を作ったと言われてますが、現在確認されてるのは五千体ほどですな」
「なんだ、けっこうあるじゃん」
ちっちっ、と宗教家とは思えない指振りで否定する和尚。
「円空さんの像は人気が高いですからな、手のひらに収まるほどの仏像でも数十万から数百万の値がつきます」
「うおお……マジのお宝だよ、お宝出ちゃったよ」
「しかし、これからお見せする円空仏は円空上人の作ではありません。円空さんの作風を真似て作られた円空彫というものですが、さる京都の名家に収蔵されていたもので、たいへん達者なものと言われてます」
「はあ、なるほど」
女性陣は少しついていけなくなっている。勿体つけずに早く見せろと目が言っていた。
「ではお見せしましょう、こちらです」
と、桐箱から取り出すのは30センチほどの木像。
筒状の原木に大ぶりの彫刻刀で無骨に彫られており、線の数は多くはない。そして顔の部分だけが彫られておらず、荒く削ったままの木肌のみを晒す。
しかし立たせてみればその風格は誰にでも伝わるのか、騒がしかった女性陣も、空腹で億劫そうだった大貫も思わず息を呑んだ。
地蔵のような落ち着きと、賢者のような注意深さを併せ持つ姿。その立ち姿は安らかで、柔らかそうな分厚い足で地面に立ち、静かに合掌している。
「おお……これは凄いですね。自然体というか何というか、この仏様の慈愛と、誠実さが伝わるような……」
高槻が眼鏡を光らせつつ言う。女性陣も同意を示す。
「すっごい。これわかるよ。やさしー感じだよね」
「バランスがいいのかな。それに荒削りに彫ってるようですごく的確な感じ。ノミの角度も深さも1ミリも間違ってない、って感じがする」
「はい、では少し照明を落としまして、懐中電灯の明かりで見てみましょう」
和尚は壁のスイッチを切り、懐中電灯のオレンジの光を当てる。すると闇の中に鋭い陰影が生まれ、先ほどは見えなかった緊張感や、厳しさのようなものが浮かぶ。
「うわ、すごい、CGみたい」
何がどうCGなのか分からないが、彼女たちなりの賛辞なのだろうと水穂は思う。
「円空仏は陰影が特徴的でして、写真集などもたいていはモノクロ写真で撮られていますな。どうです、凄みのようなものを感じるでしょう」
「あのう、これはどうして顔がないんですか? 顔は最後に彫る予定だったけど、何かの理由でできなかったとか?」
大貫が質問するが、和尚は闇の中で首を振った。
「分かっておりません。誰が彫ったのかも不明ですが、円空上人ではないようですな、わずかに作風が違います」
しかし、と和尚はまた電気を点け、妙に芝居がかった声音で言う。
「仏像はただその美しさ、有り難さのみにて成り立つものだと思いませんか。誰が彫ったものかは分からねど、ひと目見れば誰もがその佇まいに足を止め、静かに祈りを捧げたくなる。この顔無しの円空仏にはそのような力があるのです」
(顔がない……)
そこに何か意味があるのだろうか。水穂は考えるが、何も思いつかない。
確かに彫りの美しさは水穂にも分かった。顔が彫られてないことも、ミロのヴィーナスのような不完全の美というものを感じさせる。一級の美術品であることは疑いがない。
しかし、なぜ流れの者はこれを欲しがるのか。
先ほど、祖父から聞いた話を思い出す。
この無貌円空を所有していた京都の名家は、古来から様々に奇妙な来客があったという。それらは一様にこの円空仏を見たいといい、どんな対価でも払うから譲ってほしいと言ったらしい。
その名家には同じような円空仏が7体あり、うち6体を様々な客に渡した。それと引き換えに莫大な財産を、とても言い尽くせないほどの巨大な富を得たと言われている。金銭だけではなく、様々に奇妙で便利な宝物をも。
戦後、最後の一体となっていた無貌円空はGHQに徴収され、米軍の作った根乃己の村で管理されることとなった。
(米軍は、それを流れの者との交渉に使えると考えた)
(どんな方法でも排除できないような高位の流れの者が来たとき、無貌円空を渡して帰ってもらえるかも、って)
(この和倉寺にあるのはそのため。タツガシラに置いていたら、高位の流れの者に基地内部まで踏み込まれる可能性があるから……)
つまりは、餌。
奪われることまで想定して、ここに安置していたのだ。
「そちらの雲水さん、よければ近くで見たらいかがですか」
和尚に促され、後方で佇んでいた黒現はゆっくりと近付く。竜興老人はその様子を慎重に見ていたが、特に言葉は挟まない。
「なるほど、これが無貌円空」
抑揚のない、静かな声で言う。
「ご住職、ここで一刀彫りを行っても宜しいでしょうか」
「は?」
和尚の反応を待たず、どかりと腰を下ろしてあぐらを組み、袱紗を腰の上に広げる。
そしてふところから取り出すのは彫刻材。そして万年筆ほどの平刀。
「ご住職」
「あ、ああ、なるほど、ええですよ。あとで掃除機をかけます、木くずも気にしないでよろしいですから」
「感謝いたします」
そして、ぐいと刀を入れる。
よく研がれた彫刻刀を迷いなく打ち込み、瞬きほどの時間でひねりを加えて彫り穿つ。
輪郭を彫り、足元を整え、合掌の手を繊細かつ大胆に彫り進める。
「うわ、うっま、あっという間に彫ってく」
「すごいすごい、なんかライブだよ、彫る音も気持ちいーね」
わずかに十分足らず、出来上がった円空彫りから丁寧にささくれと木くずを取り除き、開帳されたばかりの無貌円空の横に並べる。
「ご住職、どちらが本物の無貌円空かお分かりですか」
「んん……? こりゃあ見事な手際ですなあ、どれどれ拝見」
和尚は両方の木仏をそっと手に取り、しげしげと眺める。しかし老眼があるのか、蛍光灯があってもやや暗い広間の中では見にくそうだった。
「ええと、こちらですかな、なんとなく味わい深い感じがしますな」
違う。と水穂は思う。
確かに見事な技だったが、本物と比べて彫りが鋭角的である。溝の部分が狭くなっている。全体のバランスも少し悪い。
ぱん。
びくりと背筋をすくませる音。雲水が柏手を打ったのだ。
瞬間。二つの木仏が床に落ちる。
「!!」
水穂が、あるいは全員がそれを見た。
今の一瞬。住職の肉体が天井にまで届く円筒形になり、木の質感を得て柱に変じたことを。
「この不出来な木仏が、まこと尊き無貌円空に並ぶとは笑止……」
雲水は目を閉じていた。柏手をゆるりと解き、二つの木仏に袱紗をかぶせて静かに動かす。
「さあ他の皆様も、お見比べください、どちらが本物の無貌円空か……」




