第四十七話
蝉の声に背を押される。
腕ほどの太さの丸太が敷かれた階段、枯滝水穂は慎重に重心を確かめながら登る。
さほど険しくはない、歩き方にも性格がにじんでいるだけだ。
「水穂、そこの岩は滑るから気いつけえよ」
前を歩くのは枯滝竜興。登山用の杖をつきながらぐいぐい登る。こちらは前へ前へと行こうとしている。面倒なタスクほど手早く片付けようとする性格であろうか。
根乃己村の南西。麓の駐車場に軽トラを停め、沢ぞいの道をえんえんと登った先が和倉寺である。盆の時期には納骨堂を参りに訪れるのが常であった。
「ねえお爺ちゃん、なんでここって車道がないの? そこまで険しくもないのに」
「寺はREVOLVEが関わっとるからの。いくつかの異常存在を封じとるのよ。車で行けんようにしとるのも防御のためじゃ」
「そうなんだ……」
脇を見る。そういえば根乃己を見下ろす側は枝を打たれて視界が開けている。望遠カメラで下から監視できるようになっているのか。
その根乃己の村。
昔から見知っている眺めだが、何か違和感がある。数日前からだ。奇妙な感覚が。より正確に言うなら奇妙な気配を何も感じない。
「ねえお爺ちゃん、なにか変じゃない」
レーテの様子もどこかおかしかった。店番はいつも通りこなしているが、いつもよりずっと落ち着いていて、今にも微笑んできそうな柔和な気配があった。食事の際、母がなぜかレーテと距離を置いてたのも気になる。
「何も感じん」
答えは短い。その何も感じないのが気になるのだが、水穂にもそれ以上はうまく言語化できない。
そうこうするうち、山寺が見えてくる。
山の中にあるにしては立派な寺だと思えた。石鳥居の向こうに本堂があり、そこから渡り廊下でいくつかの建物に繋がっている。木材は古びていて一部は苔むしており、今にも高下駄をはいた修験者が出てきそうな趣がある。
「ねえお爺ちゃん、ここって何宗のお寺なの?」
「知らん」
お堂の前で靴を脱ぎ、勝手に上がってしまう。
「知らないって……うちの菩提寺だよね?」
水穂も後を追う。正面にある灰の詰まった鉢と、座布団と木魚。奥にはくすんだ金色の仏像もある。
枯滝老人は線香をあげ、座ってお祈りの仕草をする。何か形式に則ってるというより、自己流の動きに思えた。とりあえず水穂もマネをする。
「やあタッちゃん、来なさったかい」
右脇から出てくるのは袈裟を着て、数珠を持った和尚である。年は60過ぎだろうか、かなりの肥満体であり、顎が三重になっていた。
開け放たれたお堂は風通しがいいが、その和尚は手ぬぐいで汗を拭いつつ笑いかける。
「水穂ちゃん、大きくなりんさったねえ。ついこないだまでこんな小さかったのに」
「こんにちは」
僧名は確か朴泉と言っただろうか。水穂は小耳にはさんだ程度の名前でもなかなか忘れない。
「納骨堂に参りたいんじゃが、何人か先客がおるのか」
竜興老人がいきなり言う。水穂はそれを受けて人の気配を探るが、セミの声ばかりでよく分からない。
「おや、なんで分かったんじゃ? 向こうの別棟におるのに」
「山道がだいぶ踏み荒らされとった。一人はかなりの巨漢じゃな」
それは気づかなかった。さすがは異常存在と戦い続けてきた祖父というべきか。
「はは、さすがタッちゃん。まあこんなご時世ですからのう。うちの寺も法事ばかりじゃ厳しいもんで、今年は新しい試みをしようと思うての。ほれ、いま流行りの断食合宿、あれ始めたんよ」
「合宿じゃと……」
水穂はわずかに身をこわばらせる。竜興老人から警戒するような気配が放たれたからだ。
「ちょっと見学していかんかい? こっちですがのう」
和尚は歩きだし、祖父は無言でついていく。
それがおかしいことは水穂にも分かった。REVOLVEの異常存在を封じてある寺に、一般人を客として入れるとは思えない。
到着した先は大広間である。三十畳ほどもあり、雨戸がぐるりを取り囲むだけの箱のような建物だ。
「あれ、水穂ちゃん」
そこにいたのは巨漢の男。喫茶「ブラジル」の大貫である。それに若い女性が二人。メガネをかけた中年の男が一人。
「大貫さん、何してるの?」
「断食だよ断食。いやあ最近また太っちゃってね。ちょっと体重落とさないとやばいなあって思って」
「ええ私もそうなんです。職場の健康診断で黄色信号が出ましてねえ」
「こんにちはー、私も初参加でーす」
「私もです。マキちゃんが誘ってくれたもんでー、でもなんか本格的すぎてびびってまーす。めちゃくちゃ寺じゃんって」
「和尚、この試みはいつから始めとる」
竜興が他の人間たちを無視して問いかける。
「3日前に始めよう思ってのう。とりあえず麓に降りてみたら新しい喫茶店が出来とってな。そこで店主に相談してみたら、知り合いに声をかけてみるって言うてくれてなあ」
「はい、僕のほうから連絡させていただきました。うちの喫茶店ではブラジルらしいボリューミーな料理も出してますが、そのぶん健康とか美容にも気を使ってまして、ローカロリーな料理もいろいろ研究してて」
「つうことは、全員そこの御仁の知り合いか」
「いえいえ、知り合いの知り合い、というぐらいで初対面の方ばかりです。僕もこの村に来てから日が浅くて……」
「そうか」
発言を押し止めるように言う。
数秒の沈黙。枯滝老人は思考してると感じられた。水穂は他の客を観察するが、少なくともREVOLVEの職員はいないように思える。
「和尚、その断食合宿、わしらも参加できるか」
「おお? タッちゃんがかい」
「水穂、お前も参加せえ」
「うん」
水穂はそう答えて、つとめて平静を装う。大貫は知り合いが参加するとなって喜ばしい言葉を述べていたが、それは頭に入らなかった。
「こりゃ大変じゃ、初日と二日目は精進料理を食べていただくんじゃが、材料は十分じゃったかな、ちょっと確認してくるで待っといてくれ。いやあそれにしてもホントに人気なんじゃな、もっと早うからやっておけば……」
和尚の足音が離れていくのを確認してから、水穂がそっと声をかける。
「お爺ちゃん。私だけ下山してもいいよ。何かおかしいんでしょ。お母さんに伝えるから」
「寺を出んほうがええ。この事態はおかしすぎる。何らかの異常でREVOLVEと完全に切り離されたか、あるいはREVOLVEが機能しておらん。あの和尚も自分の役割を忘れとるように思える」
「……」
「いやあ皆さんそんなにダイエット興味あったんですね。あ、僕コーヒー淹れますよ。砂糖が入ってないものなら自由に飲んでいいらしいから。台所どこかな」
「ねえねえ水穂ちゃんだっけ、かわいー、お人形さんみたい」
「肌きれー、きめ細かすぎ、どこのメーカーの使ってるの?」
「いえ何も使ってないですけど」
にわかに慌ただしくなる。しかし水穂の緊張は続いていた。
REVOLVEとの断絶、あるいは機能不全。
では枯滝瑛子は無事なのだろうか。レーテは、タツガシラの職員たちは。
そして根乃己の近くにいるはずなのに、ほとんど顔を見せない父親は。
※
断食合宿とは本来は忙しいものらしい。体操に散歩、エステに生活改善講座、レクリエーションに座談会など数多くの予定を組み、楽しく取り組むものなのだとか。場所によっては温泉なども加わる。
だがそこは急に始めたためか、翌日の午前中で早くも退屈な空気が流れつつあった。
朝食を済ませ、朝の散歩として山頂まで登る。といっても低山なので往復で40分ぐらい。それが終われば昼まで自由時間である。
「ふー、やることないと退屈なもんですね」
中年男性が誰にともなくつぶやく。彼は水道局の職員らしい。名は高槻と言った。
若い女性の二人組はマキとワカナ。日吉町のブティックに勤めているらしい。二人とも20代前半である。
そして大貫。彼は早くもぐったりしていた。
「あうう……お腹すいたね水穂ちゃん……」
「いや、お食事は出たでしょ精進料理が。昨日の夜も今朝も」
「あれだけじゃ足りなくて」
それはそうだろうと思う。水穂が思うに体格や年齢、疾病などによって微妙に食事を変えるべきではないだろうか。
おおよそだが夕食は700キロカロリーぐらい、朝食は400キロカロリーほどだった。空腹の大貫には悪いが、水穂の見立てでは少し多すぎる。あれでは大貫はともかく、マキとワカナにはダイエットになるかどうか。
明日の二日目からは玄米の粥とわずかな香の物、最後の三日目は白湯だけだという。
(でも人間の基礎代謝って一日1800キロカロリーぐらいだよね。丸一日抜いたぐらいでそんなに痩せるかなあ)
そこらへんは深く考えると危うい予感がしたので思考を打ち切る。
「お爺ちゃん、散歩長いな……」
縁側に出てみる。すると丁度、枯滝老人が戻ってきたところだった。寺で借りた作務衣に着替えており、灰色の布を頭巾にしている。腰が曲がっているので森の妖精のように見えた、というのは口にしない。
「お爺ちゃん、なんだか怖い顔……」
「厭路が消えておる」
聞き慣れない言葉だった。枯滝老人は昨日は早く眠ったようだが、何か調べていたのだろうか。
「えんろって?」
「結界じゃ。この寺に仕掛けておいた算法性結界。道をある一定のパターンで敷設すると、その奥にあるものの気配を消せる」
「ちょっとお爺ちゃん、そんな話」
老人はやや太い声になっている。水穂は後方の人々を警戒するが、二人の女性は雑談に興じており、男性陣は対角線上に寝転がっているので聞こえていないようだ。
「厭路だけではないな。哉座の鳥居、愁夜榎、いずれもこの寺にあった結界じゃ、みな消えるか、異常性を失っておる」
「ここって異常なものを封じ込めてるって聞いたけど……」
「それを守るために異常存在を利用しておったのよ。じゃが機能しておらん」
「……」
では、この違和感の正体はそれなのか。
根乃己にあった異常なものが消えている、しかし何故そんなことが起きているのか。
「……盗まれた、とか?」
「考えられん。愁夜榎は栃木県の古刹にあったものを植え替えたものじゃが、樹齢は千年を超えておる。胴回り20メートルはあった大木じゃ。痕跡も残らず持ち去れるものかよ」
「泥棒さんも、異常な何かを使ったとか……」
そこでふと父の顔が浮かぶ。
枯滝路、異常存在を集めていたREVOLVEの敵対的存在。まさか、と思いかけるが、それは竜興老人が先んじて否定する。
「路の仕業とも思えん。だいたい厭路はあるパターンに則った道という異常じゃ。その道は残っておるのに効果だけが消えておる」
姿を消したもの。異常性を失ったもの。
水穂はまだそこまでの危機感を抱けない。そもそも根乃己は異常存在を収集、分析しているが、それは異常存在を破壊できない、封印できないからという前提がある。
「でもそれ、いいことなんじゃ、異常が消えるなら」
「……」
その言葉は、なぜか竜興老人を深く考え込ませた。数秒、あるいは十数秒の思考。
「……そうじゃ、確かにそれは根乃己の目的の一つ。しかし……」
そこで、はたと気づいたように顔を上げる。
「異常がすべて消えるならともかく、残ってしまったらどうなる……?」
「え……」
「そうじゃな……たとえば神域の奥地に眠る真賀蛇御阿砂魂の剣。一度はこの国を滅ぼしたとも言われるシロモノ。あれを消せるとは考えられん」
老人は何かを思い出しているのか、声を水穂の方に向けずに語る。
「そうじゃ……この和倉寺の結界。それは奥の院に眠る異常存在を守るためのもの。宗教と結びついたものを安定化させるための施設であったはず。しかし超常存在となればタツガシラに安置しておる。この寺にはあるのか、あるとしたらそれは危険じゃ。特異団体や、流れの者を防げない。ではこの寺で解明されておらぬ異常は何があった。そう、そうじゃ、一つだけ分析もままならぬ物があった。名はたしか、無貌円空……」
「御免」
瞬間、水穂の意識に割り込む黒。
その人物は漆黒の僧衣を纏っていた。
夏の日差しを受けてなお黒く、しわ一つ見いだせない虚無のごとき黒。半球のような網代笠をかぶり、土を踏みしめる草鞋。その脚絆までも黒い。
「拙僧は黒現と申します」
「この寺にありしと聞き及びます。顔のない円空仏を拝見させていただきたく……」




