第四十六話
「筐体が……」
やがて空の映像も消える。蛍光灯の走行するゲームセンターの天井、周囲で電子音を奏でるゲーム機が意識される。
「どういうことだ……なぜPOLYBIUSⅡが沈黙している」
「沈黙してはおりません、ゲームは続いております」
確かに、画面はまだゲームを続けている。一機の戦闘機が五機を相手に立ちまわっているが、ごく普通のゲームならばレーテ側に操作の分があるのか、またたくまに敵機すべてが撃ち落とされた。
「私の勝利です」
「おのれ……」
ドラシエラ7/4世が手をかざす。瞬間、瑛子は精神攻撃に身構えんとするが。
何も起こらない。レーテの顔にも何も張り付きはしない。
「なぜだ、隷属の虫が出せぬ」
「! まさか」
取り出すのは凶兆の天秤。ポスターを止めていた画鋲をひとつ抜き取り、天秤の片方に置く。
天秤の留め具を外せば、常識の通り、画鋲を置いた皿が下がった。
「シグナルブルー……。異常性が消えている。この店舗も、あのPOLYBIUSⅡも」
その言葉でドラシエラ7/4世もようやく事態を認識したのか、目に狼狽の色が見える。
「貴様、何をした」
「この土地には結界があります。基刻網恒常結界と呼ばれるその結界、常識的な乱数を張り巡らせることで、世界を常識の観測下に置かんとする結界です。それを私の演算素子によって強化いたしました」
瑛子がハンドサインを出す。窓越しにそれを確認した職員たちが店内に入ってくる。遠巻きに、壁に沿って包囲するように。
「それは知識としては知っておりました。幸運を司る龍にも見た挙動。原子の単位までを観測下に置けば、不確定性原理に象徴されるような例外的なふるまいは観測され得ない。この根乃己の砂粒の一つ、生物の細胞の一つまでを観測し続ければ異常なことは起こらないのです」
「何だと……ありえん、そんなことが……」
「ありえないのは貴方です。本来、あなたは存在しえない。厳密な観測が為されていない世界でのみ存在する幽霊に過ぎない。それは上空に浮かぶあの飛行体すらも同じ。
瑛子の眼の端を光がよぎる。
それは流星だ。お盆のような形の根乃木に降り注ぐ流星雨。断熱圧縮で燃え尽きながら、光の尾を引いてチリとなっていく。
「あれは……我の艦隊! なぜ落ちている!」
「あなたの船はある座標に停止していただけ。衛星軌道に乗っておらず、推力を持たない物体が落下するのは当然の帰結です」
「! ミスターグルーガーデ! ただちにREVOLVEの実行を!」
「先ほどから申請しております、しかし」
職員の構える、それはコードを引いた黒電話、根乃木の地下を走行する電話線に直接接続して通話している。
「agoleが応じません、世界各地の基地局による増波が得られません」
「何ですって……!」
(まさか、これは米国の計画のうち)
(レーテくんに基刻網恒常結界と同じ力を使わせ、異常性を封じ込める結界に変える)
(でも、そんなことが可能なの)
「……レーテくん。それはおかしい、できるはずがない」
その銀髪の宇宙人は、ゆっくりとした動作で瑛子の方を向く。その顔に敵意はなく、害意も悪意も見られない。菩薩のように柔和な顔。深い慈しみすら感じる。
「あなたの演算能力を強化しているのは根乃己のコンピュータ。あれは異常存在を練り込んでいる。それが結界と同じ力を持つという事は、つまり自分で自分を封印してるに等しい」
「それは正しくありません、瑛子様」
レーテはそっと首を動かして夜空を見上げ、静かに外へ出ていく。
「私はこの筐体を観測し、その次の瞬間には自分で自分を観測いたしました。そのとき根乃己のシステムには何らの異常も見られませんでした。私は最初から異常なものなど何一つ見てはいないのです。根乃己のシステムは、高性能ですが既知のスーパーコンピューティングに過ぎません」
物静かながらも、そこには鉄のように冷徹な気配がある。
瑛子は強く警戒しようとする。
だが、心がまるでざわめかない。むしろ冷静さは増すばかり、心を温水で満たすような深い安堵の感情が押し寄せる。レーテによる精神攻撃と判断。意思を振り絞って指示を出す。
「ミスターテーセウス……枯滝神社の秘匿兵器を戊まで解放、機動部隊をすべてここへ……」
「所長……枯滝神社へのアクセスコードが拒絶、いえ、アクセスのためのポートが見つけられません」
その職員たちも混乱している。より正確に言うなら焦ろうとしている。
一人が筐体の影から声を投げる。
「所長、枯滝神社にそのような兵器があるのは分かっています。で、ですが、失われつつあります。システムが呼び出せません。タツガシラの基地にもそのような兵器の記録が。私も、それが実在したのかどうかの確信が」
「落ち着いて……わかってる。何が起きようとしているかは分かってるの。私たちはレーテくんを見ていたからそれを「変化」として受け止めてる。だけどおそらく、タツガシラはひとたまりもない」
あらゆる異常が喪失している。自分たちの記憶の中からさえも。
水田の中で職員たちは困惑している。あるいは茫然自失に立ち尽くし、あるいは焦りの色のままに電話をかけ続ける。
「違う……異常存在はあったはず、この場所にもいま、誰かが」
誰かがいたはずなのに、それが誰なのか思い出せない。この水田に囲まれた空き地に何かが建っていたはずなのに。夢から醒めて直後、見ていた夢を思い出せないときの感覚がある。
「レーテくん、あなたは覚えているの? 今、ここで誰かと戦っていたはず」
「覚えておりません」
チリ一つほどの迷いもなく、そう答える。
「瑛子様、何も心配はありません。根乃己は最初から不思議な村などでは無かった。異常な物体など存在せず、来訪者もいない、そういう土地になりつつあるのです」
「駄目よ……そんな、こと。アメリカが、許すはずが」
――オルバースの銃。
「……!」
可能性が脳裏をよぎる。
これはすべて、agoleの仕立てた絵図なのか。
レーテに超常存在に触れさせ、その力の向上を促した。観測素子の集合体であるレーテなら、強固な結界を作れるはずと。
(ではこれはアメリカの意思。約束された喜ばしき出会い、それにレーテくんが選ばれたと言うの)
(異常の存在しない世界、それが最良のファーストコンタクトであると……)
「瑛子様、星が美しくまたたいております」
ふいに、そんなことを言う。
記憶の置き換わりに混乱する中で、突然発せられた言葉。瑛子はつられるように空を見上げてしまう。
シルクの布を広げたような、満天の星。
子供の頃から見慣れているはずなのに、それでもなお、あまりにもその星空は美しかった。
瑛子は意識の端で自覚する。精神の好不調が「好」の側に振り切っている。今までの自分は激甚な頭痛を抱えていたのか、と思うほどに。
義務感や心配事からの解放。常に念頭に置いておかねばならなかったいくつかの異常存在。それが心の中から抜け落ちている。ここ十数年なかったほどの深い安楽の感情。職員の中には泣いてるものもいた。大きな罪を赦されたような、避けがたい滅びを回避したような歓喜が全員を支配している。
「……だめよ、レーテくん」
だが、瑛子は歯噛みしつつ言う。強烈な義務感のみを杭にして地面に踏みとどまる。
「基刻網恒常結界でも消えない異常存在がある……国家レベルで秘匿しているいくつかの器物。そして、枯滝路も……」
「……路さまですか。大丈夫です。きっと見つけてみせます。あの方の異常性を封じ込める手段を」
「レーテくん、何故、何故こんなことをするの。あなただって元々は枯滝路に会いに来たはず。そのために根乃己の村に」
銀色の髪。透明な瞳。それがぞっとするほど美しく見える。
レーテは瑛子を見て、彼女が胸に当てていた拳にそっと両手を添える。
そして優しく、あらゆる親愛の感情を添えて微笑みかける。
「それは瑛子様、あなたのためです」
長い沈黙。
全員が一斉に沈黙したような時間、あるいは水田の蛙すらも。
「…………え?」
「私はカスタネットの皆様を好ましく思っておりました。水穂さんも、竜興様も、何より瑛子様、あなたをです。あなたは才気煥発であり努力家であり、理路整然としていながら創造性に富み、深い知性があります。ただの演算機械に過ぎぬ私をよく導いてくださいました。私が根乃己に居続けられたのは貴女の力添えあってのことです」
「ちょ、ちょっとレーテくん、何言って」
ぱしゃっ
「草苅さんあんたなに撮ってんの!!」
「いやあ……スクープかなあと」
周りの職員たちも困惑しながらも、何かとてつもない事態が起きていることは感じている。
「瑛子様、私はやがて、自らの異常性すら消えると感じております」
「え……」
「その時に宇宙から来た演算機械などというものは存在しなくなり、私はただの人間になる。この星は永遠の安寧の中に生きることになるのです。そこには理解の及ばないものは何もない。奇妙な器物も、不可解な技も、傍若無人で自由奔放の過ぎる傲慢な人間もいないのです。最初から最後まで何にも出会わなかった。それこそが素晴らしい出会いであり、気付きなのです」
「レーテくん待って、か、顔が近い」
理解の及ばぬ事態。しかし何一つ不自然ではないような不思議な心境。それが職員たちを満たしている。
こうなるのが必然だったような。ようやく正解に至れたような気配。
ぱちぱちと、誰かが拍手をして。
それはよく分からないまま伝播して、やがて星くずの弾けるような、満開の拍手に。
※
「えーと、それで」
翌日のカスタネット。
縁側に腰掛けた瑛子と草苅記者、カップアイスを食べながら話す。日差しは千本の針のように強い。
「再婚されるんですか?」
「なんでそんな話になるのよ」
瑛子は多少ではなくぐったりしていた。足を組んでサンダルを足先に引っ掛けている。そんな様子はとても珍しい。
「そもそも枯滝路と離婚してないから」
「じゃあ不倫関係」
「ぶつわよ」
日差しは強く、蝉も鳴きわめく。
いつもと変わらない日常にしか見えない。しかし本当に昨日と同じなのか、それはよく分からない。
「タツガシラはどうなってます?」
「施設は残ってる……でも異常存在に関する記録がない。今のあの場所は、本来のSETIの施設のよう。宇宙人を探す数奇者の集まりになっているの」
あるいは、全てそうなのか。
1971年のサイクロプス計画。オハイオ州のビッグイヤー。21世紀までに100あまりのプロジェクトが存在した地球外文明探索。それはすべて異常性を失ってしまったのか。得たはずの何かしらの成果も無に帰したのか。
考えてみれば奇妙な話だ。地球のあらゆる天文台が宇宙人を探し続けて、50年以上も何の成果もないなど考えられるだろうか。宇宙には無数の星があるのに。
「瑛子ちゃんに相談するんですか」
「今はお爺ちゃんと一緒にお寺に行ってるから……枯滝家の菩提寺があるのよ」
「路さんとちゃんと話しといた方がいいですよ。水穂ちゃんの親権とか」
「あなた楽しんでない?」
草苅記者は肌がつやつやしており、眼はいつもより大きく見える。最初は根乃己にUFOの取材で来たはずだが、その時の5倍はやる気を感じる。
草苅記者は幸運の龍という異常存在から影響を受けていたはずだが、それはどうなったのだろう。幸運についてタツガシラでテストを受けさせたこともあったが、明確な結果は出なかった。
「瑛子さんまだ若いでしょ。自由に生きたっていいんですよ。路さんだって瑛子さんにはそこまで執着してないでしょ」
「……」
「実際どうなんです。路さんのこと夫として愛してますか。ぐだぐだ結婚関係だけ続けてもいいことないですよ水穂ちゃんのためにも」
枯滝路。
もともとは小中高の同級生。根乃己でほんの数人の同期。数十億人に一人の抗異化因子存在であり、その力をREVOLVEに取り込むために結婚した相手。
「あいつは放浪癖があるし、人格破綻者。何よりREVOLVEに敵対している。身勝手だし、身だしなみにもだらしない。帰ってきても土産の一つもないし、水穂としか連絡を取り合わない」
「じゃあ別れたほうが」
からん、と縁側にカップを放る。
「プライバシーに答える気はないわ。それ片付けといて」
「あ、ちょっと瑛子さん、取材じゃないですって、ちょっと話を聞きたいだけ」
「じゃあポケットの中のスマホ出して」
「う゛っ」
「勝手に録音するとか犯罪よ。没収するわ。メモリー初期化させてもらうから」
「い、いやその、これはその、蝉の声を環境音にして寝ようかなと思って」
うだるような暑さ。雲を焦がすような蝉の合唱。
「瑛子様、4名のご予約がありました。部屋の調整をお願いしたく……」
店の奥からレーテの声。
それは以前からの日常だったのか、それとも何かが決定的に変わった結果なのか。
それはもはや、瑛子にも分からなかった。




