第四十一話
時代の流れから忘れられた陸の孤島、根乃己の村にも夏休みとなれば沸き立つような気分の高揚、大気を満たす光の恵みと水の蒸散、どこかで聞こえる子供たちの声、そんなもので作られる歓喜の渦が巻き起こる。夏の陽気で満たされていく。
「個室は二階にございます。お飲み物はあちらのドリンクバーからお持ちください。カウンターへお越しいただければ注文も受け付けております」
カスタネットの前庭、駐車スペースにはワゴン車からコンバインまでが詰めかけ、読書スペースは老若男女がひしめいている。
「レーテくん、冷やし中華と米粉ピザ持ってって」
「はい」
厨房では枯滝瑛子が数人分の注文を流れ作業で仕上げている。物の配置も手の動きも神業のような正確さである。
銀髪の青年は奥の厨房に踏み込んで右手でトレイを、左手で皿と箸とおしぼりをさっと取って、カウンター脇の階段から二階へ。
ちん、と外線電話の鳴りだす一瞬、銀髪の青年は素早く戻ってきて受話器を取り上げる。動きは流麗であり、足音と無縁であるかのようだ。
「はい、カスタネットでございます。17時より4名様、個室、お食事付きですね。本日のメニューは……」
銀髪の宇宙人、レーテがいかに優秀であっても、客が20人を超える時間帯には対応が滞ることはある。
しかしその頻度はおそらく普通の人間よりはかなり少なかった。店内のどこに何があるかを把握し、最適な作業効率を考えて動く。来客が何を欲しているかを予想してあらかじめ準備をし、片付けなどの時間のかかる作業をいつの間にか終わらせている。
何よりレーテの落ち着いた態度のためか、彼に対してクレームが出たり、無理な要望を突きつける客というのはめったに出なかった。彼の前では誰もが真摯になり、また行儀よく過ごすことを心地よく感じるような気配があった。
「レーテくんってバイト代出てるの?」
夕飯時、羊のチーズと中国野菜でアレンジした冷やし中華をもくもくと食べつつ、草苅記者が尋ねる。
「はい、いただいています」
「そうなんだ、何か買い物とかするの? 趣味ってある? 旅行したりする?」
「草苅さん、いっぱい聞いたら迷惑だよ」
水穂が言う。彼女は草苅記者からレーテを守るように間に座っている。
本来はレーテに食事は必要ないが、彼がカスタネットの一員として座卓につくことを誰も疑問に思うことはない。いつものカスタネットの景色である。
「食事中は静かにせえ」
竜興老人もいつもと変わらない。
草苅はちらと水穂を見る。先日の騒動からすでに10日ほど、少し気落ちしていた時期もあったように思うが、今は普段どおりに落ち着いた様子である。水穂は浮かれたり騒いだりということが少ないので、平静な状態というのが分かりにくいが。
そして夕食も終わり、雑然とした空気の漂う頃、たんと湯呑みを置いて竜興老人が言う。
「やはりキャパが足らんのう」
「キャパですか?」
竜興老人が何かを切り出そうとするとき、枯滝瑛子の反応はいつも遅かった。この時は草苅が聞き役になる。
「今年になってますます客が増えとる。受け入れのキャパが足りんのよ。遠くから来とるもんもおるけえ、断るのも心苦しいのう」
「そうなんですか、最近えらく混んでるなと思ってましたけど」
「経営も多角化したいと思うとる。ビリヤード台は無理としても、最近はオンラインのダーツやらあるしのう」
「いいですね、カラオケなんかもいいかも」
「うむ、レンタルオフィスなんかも考えとる。ともかく部屋をこしらえて」
「増築はダメですよ」
ぴしゃん、と瑛子が言って、竜興老人は茶渋のような顔になる。
「今だって二度も無茶な増築してるんですからね、駐車場も考えると今以上に広げるのは無理です」
「……裏の納屋があるじゃろ、使っておらんし」
「西側は生活スペースですよ。納屋を客室にするとお客様の動線が作れません。個室にするのはもっとダメです」
どうやらその検討は過去に何度か行われているようだ。瑛子はREVOLVEの所長として高給取りのはずだが、カスタネットの経営に関してはひどくシビアである。あらゆる投資も運転資金も、カスタネットの純益からのみ支出される。
納屋はカスタネットの西側にあり、かつて枯滝家が農家だった頃の名残だという。それなりの広さがあるが、今はただの物置である。田畑は人に貸しているらしい。
瑛子は大きめの動作で茶をすすり、話を打ち切る空気を出してから言う。
「水穂、お母さん後でタツガシラに行くから、お店の掃除お願いできるかしら」
「うん、いいよ」
「泊まりになると思うから、朝ごはんは作っておくわね」
「いいよ、朝ごはんぐらい私が作る」
「そう? じゃあお願いするわね」
てきぱきと食卓の上が片付けられ、草苅記者も腰を上げる。
「じゃあ私も帰りますんで」
「ああそう、レーテくんお会計お願いね」
「はい」
そして支払いを済ませ店を出て。
数時間後、彼女はタツガシラ電波観測所にいて、職員と話をしていた。
「へー、オックスフォード出てるの。すごいわねえオックスフォードってスタンフォードの近くにあるアレでしょ」
「スタンフォード大は米国です、オックスフォードはイギリスの」
「ああイギリスだったわね、でも若いし金髪だしモテるでしょ合コン組もうか明日とかそうだ今って土用だしウナギでも食べに」
その後頭部を瑛子のスリッパが一撃する。すぱあん、と小気味よい音が鳴った。
「あいたっ!?」
「草苅さん、うちの職員ナンパしないでって言ってるでしょ」
「うう、だってみんな一流大卒のエリートなのよ。こんなチャンスめったにないでしょ」
草苅はREVOLVEの協力者としてタツガシラに出入りするようになっていた。普段の仕事は、おもに記録写真の撮影である。
それは彼女の能力を買ってというより、眼につくところに置いておかないと何をするかわからない、というのが大きいが。
「みんな根乃己で見ない人だし、ずっとこの施設で寝泊まりしてるんでしょ。かわいそうでしょ若い男が、たまには合コンでゴーゴーしないと」
「使命感に燃えてる子たちなんだから大丈夫です。ちゃんと休暇も与えてます」
根乃己のREVOLVEには150人からの職員がいるが、そのうちの4割ほどがアメリカからの出向組である。日本人に役人ぽかったり理系の研究者然とした者が多いのに対し、外国人には見るからに体の大きな、軍人風の者が数名いる。
「それで、今日は何の実験なんですか」
「昨日と同じ、オルバースの銃の調査分析よ。大深度区画に行くから三号エレベータに」
山中に抱かれるように存在するREVOLVEの施設から、さらに地下数十メートル。
分厚いコンクリートに覆われた廊下が複数の地下空間を繋ぎ、異常存在の収容と研究が行われている。
「すごい施設よねえ、巨大ロボットでも作ってそう」
「異常存在の研究のための施設だけど、研究にはリスクがあるからあまり使ってなかったのよ。職員に犠牲者が出ることも少なくなかったらしいし」
アリの巣のように施設が地下に散らばる構造。その一室にてそれは行われていた。
部屋の壁と天井や床、六面から四角錐の突起が出ている電波遮蔽室。その中に銀髪の青年がおり、手の中のものを探るように撫でる。その部分だけ像が歪んで見える。
「オルバースの銃ってそんなヤバい物なの?」
「言ったでしょ。オルバース宇宙へのチャンネルを開く銃。起動させると宇宙の広さは一兆倍、星の密度も一兆倍、光速度も一兆倍になる。光速度が早すぎるためか空間の媒質が強靭なのか、その宇宙においてはブラックホールが発生せず、熱と物質に満たされている」
「ビックリするぐらい分かんない……」
それが正常だろう、と瑛子は犬歯を舐めつつ思う。
オルバース宇宙の概念について正確に理解している人間など誰もいない。それを直接経験した枯滝路ですら似たようなものかも知れない。その宇宙は人間には荷が重すぎる。
「レーテくんだと何か分かるんですか?」
「あの銃は電磁波による干渉を受け付けないけど、物質であることは分かってる。レーテくんがこの数日で提出したデータがこれよ」
ばさり、と監視室の机に放られるのは数冊のノートだ、草苅が開いてみると見慣れぬ文字がびっしりと書き込まれている。
「英語ですね」「数式よ」
秒で突っ込みつつ、素っ気なく語る。
「あの銃はまるで大都市のよう。あらゆる機構がぎっしりと詰まってる。その数式で表現される部分は一種のエネルギー増幅装置と思われるわ。銃口の内部に刻まれてるのは原子が規則的に並んだ回路構造。それが空間からエネルギーの濃い部分と薄い部分を選り分けて流動化させている。一種のマクスウェルの悪魔、人類がまだ観測してないような素粒子の挙動を制御する装置と思われるの」
「ああイタリアブランドの」
「それはマックスマーラ」
草苅記者がこの話を理解できるとは思っていない。瑛子としても思いつくままをダラダラ話しているに過ぎなかった。
成果は上がっている。順調にいけば上位文明のエネルギー世界を解き明かすことができるかも知れない。外見では分かりにくいが、瑛子は少し昂揚してもいた。
「原子を規則正しく並べる、というのは一種のブレイクスルーになり得るのよね。人類はその技術をまだ持ってないだけで、実現すれば超効率の発電機、高性能の演算素子、材料工学にも薬学にも革命が起きる、そういう世界の話よ。まして素粒子の世界でそれが実現すれば、さらに高位の物理現象が引き出せるかも知れないの」
「なるほど……すごい事なんですね」
草苅の理解はざっくりしていた。
「でもレーテくん、なんで協力してくれてるんでしょうね。確か路さんに会いに来たんでしょ」
「別に枯滝路に会うことが目的じゃないわ。彼には彼の目的があって、枯滝路に会えば進展があるかもと思っていたらしいけど」
実際に二人は接触したらしいが、どんな会話があったのかまでは把握していない。
ともすればそれでレーテという存在が排除されるかとも思っていたが、彼は変わらずカスタネットの店員であり、今はこうして実験にも協力している。
これは瑛子にとっては意外なことでもあった。流れの者以外には力を使わない。それは人間側からの申し出というより、レーテと根乃己の間での合意だったからだ。
だからREVOLVEでもレーテの体について調べたり、実験へ協力を願うことは控えてきた。オルバースの銃という特異存在がなければ、その関係はずっと続いていただろう。
(……彼は、なぜ協力を承諾したのかしら。先日のボールマンの件がそこまでの負い目とも思えないけど。それとも彼は人間に対して従順であろうとしてるのかしら)
そして疑問はもう一つ。
オルバースの銃は、なぜまだ根乃己にあるのか。
(アメリカはこの銃を根乃己に預けた……それも推測に過ぎないけど、預けてどうしようというの。根乃己にどんな変化が起きると……)
「瑛子様、一つ発見がありました」
モニターから声が響き、瑛子ははっとして手元のマイクをオンにする。
「どうしたの」
「はい、新たな物理回路と思われる構造を把握いたしました。後ほど記録しておきます」
「そう、ごくろうさま、今日はここまでにしましょう」
するとレーテは、カメラの方を見て僅かに疑問の表情を作る。
「まださほど時間は経っておりませんが」
「今日はもう一つテストがあるの、レーテくんにやってもらいたいゲームがあってね」
「ゲーム、ですか」
「そう……」
瑛子は脇にいる草苅を少しだけ意識し、あえて言い聞かせるような調子でその名を語った。
「ポリビアス、というゲームよ」




