第三十四話
「あれは……!」
タツガシラ電波観測所の地下。
妙賀山の山腹にある望遠カメラが数キロを隔ててそれを捉え、細部を補正して鮮明な画像をもたらす。
それは鏡面に覆われた銃。比喩ではなく、その銃はほぼ全ての箇所が限りなく100%に近い反射率を示す。
周囲の景色を写し込んだ銃は機械的に像を補正され、オートマチック拳銃に近い形状であることが示される。
「オルバースの銃……! 本当に持ち出していた!」
瑛子は手元のコンソールに拳を落とし、ガラス蓋をぶち割ると、中にあったスコップの柄のようなハンドルを引く。
施設全体に鳴動が響き、あらゆる隔壁が降りる。主要区画を分断する十七枚の隔壁が、外部の観測窓に降ろされる鋼鉄製の鎧戸が。
「全職員に緊急警報、地下施設へ避難を。現時点をもってこの施設を破棄、REVOLVEへの対外的同期のみ設定して退避」
職員の大半は命令を終える前に動いている。床のハッチを開け、垂直の空間をタラップで降りていく。
だが全員ではなかった。数人の職員はコンソールについている。
「あなたたち、避難しなさい」
「どうせオルバースの銃の影響範囲は全宇宙規模です。逃げる意味などありません」
「あとはミチ・カレダキの働きに期待するか、ステーツが秘匿戦力を繰り出すのを待つだけです」
「ならばせめてデータを取りましょう。ここで観測を続けますよ」
「あなたたち……」
ロングショットで見たならば、職務に殉じる人々の真摯なる場面。
だが、眼球の奥まで覗くほどの接写で見たなら。
瑛子の眼には、わずかな猜疑が見えた。
(残ったのは三人……)
(理解しているの? この緊急退避は単に危険から身を守るという意味ではない)
(その要旨はすなわち、オルバースの銃によって引き起こされる事象、それを職員に見せないため)
(REVOLVEでも排除できない異常存在、その効果を見ることは重要な意味を持つ。それはREVOLVEの弱みにもなりうる……)
考えすぎている。と感じる。
彼らは古参の職員であり、裏切りや内通については何度も調査を受けている。
(……だめね。味方まで疑ってどうするの)
この異変に関して、アーグルトンの動きはなく、米国本土からの応援の気配もない。
何か、歯車が噛み合ってないと感じる。
オルバースの銃が使われようとしている、それがどれほどの脅威か分かるはずなのに。
なぜ動きがにぶいのか、どんな思惑があると言うのか。
(私は根乃己の責任者)
(自分の手足まで、疑うのはやめるべきね)
「所長、QRファイルよりオルバースの銃についての資料を開示します」
「そうね、お願い」
そして示される画面。
その概要にはこのようにある。
――オルバースの銃とは、19××年7月、南極にて発見された物体である。
形状はオートマチック拳銃。全体が鏡面反応を示す。黒革のケースに板状のガラスとともに封入されていた。
ガラス板には極めて滑らかな線で文字が刻まれ、13の言語にて仕様とおぼしきものが記されていた。
その効果とは、オルバースのパラドックスで示される高位宇宙への遷移。
現行宇宙を白く染め上げることと推測されている。
※
その銃を握った刹那、迷彩服の男が消える。
男の輪郭に沿って空間が歪んでおり、周囲の景色が映り込んでいるのだ。
「な、何あれ……」
こころもち、黒スーツの方に近づきつつ草苅記者が問う。
「全反射現象です。オルバースの銃は光速度がこの世界よりずっと早い世界に在る。それを手にした人間は高次の世界に移動し、その体に当たる光は鏡のように反射するのです」
「ごめん全然わかんない……」
水穂を見れば、彼女は胸に拳を当てて立ち尽くしている。その眼はどこも見ておらず、周囲に強い風が吹いて彼女の濡れ髪を撫でる。
「この銃と、それを手にした者は現行宇宙と隔絶する。いかなる物理干渉も受けない」
勝ち誇ったような声が響く。鏡面の体には古びた校舎が写り込む。
「あとはただ引き金を引くだけ。それで世界は一変する」
「……分かっているのですか。その世界が持続するのは所有者の生命があるうちだけ。誰もオルバース宇宙などに対応できない。世界はただ荒廃するだけ。高位の世界など来はしない」
「ど、どういうことなのよ! 説明してよ!」
草苅の声に答えてか、興が乗ったような声が返る。
「そこの女、なぜ夜空が暗いか分かるか」
「え……? そ、それは、光源がないからでしょ。星しかないから……」
「そうだ。だが森はどうか。ある程度広く、木が十分にある森では、360度どこを見ても木の幹しか見えなくなる」
「? それはそうだけど……」
もし宇宙に十分な数の星があり、十分な広さがあるならば。全天において星の見えない角度は無くなり、夜空は昼のように真っ白に見えるはず。ヴィルヘルム・オルバースという天文学者はそのように提唱した。
だが現実には夜空はそのようには見えない。宇宙が無限であるという当時の観念に反するため、これをオルバースのパラドックスという。
宇宙が暗いのは、すなわち宇宙の広さが有限であり、存在する星の数に限りがあるから、現代ではそう説明されている。
ある計算においては、全天が真っ白に見えるためには宇宙の広さが現在の観測限界の一兆倍、存在する星の密度も一兆倍は必要であると言われる。
このような宇宙において現行の物理法則を適用すれば、大量の星がぶつかりあってブラックホール化し、宇宙はほどなく暗黒に飲み込まれるだろう。
「もし、無限に広い宇宙があるなら」
黒スーツが言う。
「その宇宙には果てはなく、どこまでも高密度に恒星系が存在し、光速度はこの宇宙よりも遥かに速く、また重力崩壊が起こらぬような強固なクーロン力が存在するとしたら」
「ど、どういうことよ、何を言ってるのよ」
「つまりオルバースの銃とは、宇宙をより高次元に塗り替える銃」
「その通り」
鏡面の人物から声が上がる。
「これこそは黙示録の笛。世界をより高みに連れていく銃だ」
「だが、その宇宙に常人は耐えられない」
無限の広さを持つ宇宙。
星が一兆倍の密度で存在する宇宙。
草苅の想像など遥かに超えており、また正確にその環境を表現することは非常に困難である。
だが少なくとも、天変地異という形容を超えていることは分かる。
黒スーツは言う。
「その宇宙において光速度の壁はほぼ存在しない。周囲の数兆個もの星から一瞬にしてエネルギーが届く。光波、電磁波、放射線、そして潮汐力。たとえ鋼鉄の塊だろうと一瞬で砂となるエネルギー、それに人間が耐えられるはずがない」
「口数が増えたな、ミチ・カレダキ」
鏡面の指が、鏡面の銃を握っているのが分かる。その照準はふらふらと動き、黒スーツの男の顔を何度も横切る。
「分かっているはずだ。オルバースの銃とは鍵であると同時に、やはり武器でもある。高次の宇宙についてこれない生命は、あるいは天体は根こそぎ滅ぼす、そういう銃だ」
「あなたなら耐えられるのですか」
「俺はすぐには死なん。カタログナンバー7、止まらざる心臓。8個の銃弾を肉体に撃ち込んでいる。8回までは生き返る」
「……分かっているのですか。ゲームのように残機が増えるわけではない。弾丸は当人の心臓から作られる。多くを作れば寿命が」
「この世界の寿命よりは長い!」
鏡面の男が銃を振り上げる。そして一気に引き金を。
「! 待ち……」
があん、と銃声が根乃己に響く。
変化は急激に起きる。まばらに雲が浮かぶだけの青空がストロボのように発光し、肉体のあらゆる部分が引っ張られるような感覚と、一瞬で体がはじけて四散しそうな感覚が。
ふいに、その気配が弱まる。
周囲は緑色の光に満ちている。何かに包まれているのだ。
「櫃徒命廻倉折り」
それは多面体を張り合わせたようなドーム構造。目も眩むような天の光が減衰されている。
「な、何これ、バリア?」
「局所的に地球の環境を再現しています。ですが長くは持たない。これがオルバース宇宙。予想より、遥かに……」
鏡面の存在だったものを見れば、もとの通り迷彩服の姿となっている。
先ほどの光速度がどうのという話のことか、ならば今なら攻撃できるのかと草苅は思いかけるが、周囲からの異様な気配で思考がまとまらない。
数千体の巨人に睨まれるような、形容しがたい畏怖。高位の宇宙に精神が翻弄されている、自分の状態が理解できない。
迷彩服の男は言う。
「無駄なこと。俺は異常存在で肉体を強化している。止まらざる心臓もある。ミチ・カレダキ、お前の防御が破られる方が先だ」
「ぐ……」
「ちょ、ちょっと、あなた本物の枯滝路さんでしょ。折り紙があるでしょ、それであいつを攻撃できないの」
「……」
「無駄だよ、お嬢さん」
高位な宇宙には似合わぬ下卑た笑い、そう形容できそうな顔で迷彩服の男が言う。
「ミチ・カレダキは人を攻撃できない」
「え……」
「今までを見ていれば分かるだろう。この男は人智を超えた技を持つが、すべて身を守る技ばかり。その力で人を攻撃したり、まして殺すことなどできないのだ。理由は知らんがね」
「……」
黒スーツの男は奥歯を噛み、この世界で眼に見えぬ影響を受けているのか、額から玉の汗を飛ばして膝をつく。
「じゃ、じゃあ私がやる! 何か武器になる折り紙あるんでしょ! それを渡して!」
「……できません」
内蔵の病に耐えるような声。
「どうしてよ! 非常事態でしょうが!」
「……折れなくなったんです」
「え……」
「本当なんです。何時の頃からか……」
びし、とその肩を銃弾がかすめる。
「!」
「たとえ折れたとしても、使わせる訳も無いがな」
「うぐ……」
「ちょ、ちょっと、マジなの……」
世界の「圧」が高まるのを感じる。
人間の矮小さを際立たせる高位宇宙のダイナミズム。
多面体のドームがきしむのを感じる。もしこのドームが壊れたら、肉体がどうなるのか想像もつかない。言語化できない恐怖が襲う。
(水穂ちゃん……)
乱れる思考の中で、それを思う。
そして眼光が引き絞られ、それが迷彩服の背後に。
枯滝水穂は膝立ちになっている。
眼は焦点が合わず、口はぼんやりと開き。何も思考できていないように見える。
すでに天からの光は紙が燃え出すほどの強さに感じる。この環境では茫然自失も当然だろうか、と草苅は思う。
その口が。
水気が吹き飛んで乾いている唇が、何かを呟いている。一音ずつゆっくりと動く口元。
(お父、さん、って言ってる……?)
右の手の平を突き出す。
その手に黒い紙が乗っている。どこかに隠していたのか。いや、水穂は一度水に沈められたはずだと思う間に、その紙が姿を変える。
四角い紙がひとりでにパタンと折られ、二つ折りから四つ折りに、そして開き、絞り、紐のような部分や柱のような部分が生まれ、形を成していく。
それは十字弓。
片手に乗るほどに小さく、鉛筆ほどの矢をつがえて弦がきりきりと引き絞られ、焦点の合わぬ眼のまま、その矢が。
「が……」
変化はその直前に起きた。
迷彩服の男が喉を押さえ、地面に倒れてもがく。
「な、こ……これ、は」
そして光が去る。
一瞬、周囲が暗くなったように思えるが違う。世界が元に戻っているのだ。森が黒く染まり、背後の校舎はほぼ炭化しているが、空は青さが戻っている。
「こ、今度は何よ」
「これは……」
動かなくなった男に近づき、その後ろ襟を確認すれば。
そこには蛇の入れ墨があった。首を取り巻くように巻き付く、紫の鱗を持つ蛇。それが首をぐるりと取り巻いている。
「……何らかの異常存在。かなり高位なものです。止まらざる心臓を打ち消したのか、あるいは瞬間的に複数の「死」を送り込んだ……?」
「異常存在? この人の持ち物?」
「いいえ、これはつまり……」
黒スーツの男は、本物の枯滝路は、ちらと水穂を見て、草苅もその視線を追う。
水穂はもう何も待っていない。地面に力なく倒れ、黒髪を土の上に広げている。
枯滝路は水穂に意識がないのを安堵したようだ。先程の黒い弓のことは見ていなかったのだろうか、と草苅は思うが、まだ思考が乱れており、そこまで言及する余裕がなかった。
そして枯滝路は、悲しげに言う。
「彼は呪殺されました」




