第三十三話
「折り紙というものが平面の三次元的な変形という認識は二次元的物体の変異として適切ではありません。本来はある二点間の距離や重厚さ、堅牢さや密度の推移というものを温順ならしめることです」
「それは生命の付与あるいは模倣、まだここにはない法則の励起、算術的な回帰と輪転、卑金属と貴金属との交わり、惑星間の階段、円と多角形との数列的序列、楕円軌道の不定なること……」
報告書をぱたりと閉じて、枯滝瑛子は呟く。
「彼は本当に協力しているの?」
対面しているのは高齢の博士。一般世界において知の巨人と讃えられ、あらゆる学問を極めた人物。
REVOLVEにおいても第一線の存在であり、彼によって解き明かされた異常存在も少なくない。
「間違いない」
その声には活力がなく。白髪の隙間から覗く目には生気がない。
「およそ120分の聞き取り、三度に渡って行われたが、彼が話している言葉にほとんど乱れがない。彼は同じ内容を確信をもって話しており、それを我々が理解できないだけだ」
「彼は何一つ意味のある事を言っていない。まれに錬金術や占星術を想起させるセンテンスがあるけど……」
「そう、意味はない。その認識で正しい」
博士は答えて言う。
「彼が語ろうとしている意味内容は、我々の言語世界に存在しない。この世界の語彙というものがあまりに少なすぎるのだ。あるいはこの世界のあらゆる文字をアトランダムに並べ、それを時の最果てまで繰り返しても絶対に現れない。彼の語っているのはそういう技術だ」
「……そのような概念は人間の脳内ニューロンにも存在するはずがない。あるいは彼の指の動き、紙に起こる変化、それはすべて三次元的に観測できるはず。それを言語化できないはずがない」
「ミス瑛子、あなたのその主張もまた正しい」
この博士の真に偉大なる点は、奢っていないことだと言われていた。
異常存在に対してあくまで謙虚であり、人間がそれに迫れる限界があることを知っている。
「ミスター枯滝、あの人物は確かにその技術を理解して行使しているが、それは脳内活動の範疇ではなく、指先の三次元的挙動ですらないかも知れない。我々の観測しえない知覚、第五の次元、あるいはさらに高位の技かもしれない」
「我々は、いつか彼の技術を理解できる?」
「できない」
博士は淡々と言う。
それは知を極めたが故の落ち着きか、あるいは諦めの感情か。
「我々が三次元世界の住人である以上、ミスター枯滝の技術とは相容れない」
「近付くことすらも?」
「そうだ」
年老いた博士は「分からない」を繰り返す。あるいはそれがこの世界の、人類という種の守るべき立ち位置であるかのように。
「彼は永遠に孤独であり、ある意味ではもはや人間とすら言えない。ある宗教的観念においては超越者とも呼ばれるだろう」
「――では、彼を」
瑛子は、それはあくまでREVOLVEという組織からの言葉であると、義務的な響きを過分に乗せて言う。
「彼をこの世界に、私たち人間の世界に繋ぎ止める手段が、あるとすれば……」
※
「この男……」
膨大なデータを参照している中で、その人物が眼に止まる。
「所長、どうかされましたか」
「今のファイルを再度表示して、すべての情報を、細大漏らさず」
それは以下のような内容だった。
『ワンダラー』ラザロは米国籍を持つ23歳の人間である。
20××年7月14日、アラバマ州南部の××において、食堂の支払いを1ドル札で行おうとしていたところをREVOLVE職員により拘束される。正確な料金は6ドル40セントであった。
能力概要
『ワンダラー』ラザロはどのような物でも1ドル札で購入することができる。
売買の際に購入相手は適切な金額が支払われたと認識し、疑問を抱くことがない。監視カメラでの映像にはその時の光景が残っているが、当事者及び第三者が見ても異常性を認識することができない。
店舗や個人の出納帳簿にロスが生まれるが、その原因を特定することはできない。多くの場合はヒューマンエラーによるロスか、いずれかの時点で金銭を盗まれたものと解釈される。
ラザロの異常性はそれが人間により管理されるすべてに及び、不動産や会社組織など巨大なもの、あるいは人体などのように通常は売買の対象にならないものにまで及ぶ。
取引の相手はその売買と譲渡に一切の疑問を持つことがなく、人体を売買した場合、本人は自分をラザロの所有物であると認識し、可能な限りの命令に従う。
国家組織、自然物など、管理する人間が明確ではないものに能力が行使されたことはない。
拘束とともに『ワンダラー』ラザロの異常性が解除され、REVOLVEによる聞き取りと追跡調査の結果、彼が能力を行使したのは少なくとも25回。不当に入手したものは金銭的価値で8170ドル17セント。ハイスクールにおける学力試験の解答一枚、『ワンダラー』ラザロと顔馴染みであった白人女性一名、一度は結婚するも七日後に離婚。
20××年11月30日、REVOLVE収容所内にて急性心筋梗塞により死亡。
「能力の割にはやってることがセコいわね……。人間まで買ってるのは悪質だけど、七日後に離婚してる……?」
「この人物が何か……」
瑛子が探していたのは、『Mr.ファイア・ホーネットの銃砲店』をハックしうる異常存在である。
REVOLVEにおいては異常存在の分析も行われているものの、異なる異常存在を組み合わせる実験はタブーとされており、行われることはまずない。
だが、それは瑛子がそう聞かされているだけだ。
「この男の能力なら、オルバースの銃を購入できる可能性がある。四兆ドルなんて馬鹿げた額でも」
「記録では病没となっていますが」
その指摘は当然だろう。
では、なぜ自分はこの人物が気になったのか。
「見覚えがある、この顔……」
細面で髭面、海外ドラマでよく見かけるジョニー・デップ顔の男だ。
「この男……」
彼はREVOLVE職員によって捕まったという。
誰にも観測できない異常の行使者を捕まえられる、そんな人材といえば。
「そう……この男、確か枯滝路によって拘束されたはず。まだREVOLVEの協力者だった頃に」
場にざわつきが走る。
「こいつの死亡を再確認できる?」
「REVOLVEのフロント病院で死亡確認のち、ニューメキシコにて埋葬されています」
「病院のデータベースにアクセスしました。死亡診断書が書かれた形跡がありません」
「妙です。ラザロに関するデータが死亡後から現在に渡って存在しています。ただし閲覧不可です。agoleによって独占管理されています」
ビンゴか、と感じる。
「アメリカはこの男を生かしていた。能力を悪用するためとまでは思いたくない、おそらくは研究のために。それはアメリカにとって大変な不祥事、だから犯人は枯滝路であるなどと……」
(ならば、事態の裏にいるのはアメリカ?)
(いや、それはない。それなら枯滝路に罪をなすりつける必要はない。根乃己を消したいならとっととそうすればいい)
(ラザロは自力で逃げた? それとも逃亡だけはアメリカの手の内のことだった……? そして異常存在の銃を持ち出し、根乃己へ……)
そこでまた、思考が行き詰まる。
(なぜ根乃己へ? まさか、自分を捕まえた枯滝路へ復讐でもするつもり……?)
「所長!」
職員の鋭い呼び掛けに、意識がはっと引き戻される。
「どうしたの」
「妙賀山の望遠カメラが何かを捉えました。奥薪分校です!」
※
「カレダキ、ミチか。久しぶりだな、会いたかったよ」
「流暢な日本語です。何かの異常存在を使いましたね」
二人を視界の端にそれぞれ置き、草苅記者は激しい混乱を覚える。
(同じ顔……)
服装は違うし背丈も微妙に違うが、顔は双子のように似ている。迷彩服の男は奥歯を噛み締めて睨み付けるのに対し、黒スーツの男は笑うでもなく不機嫌でもなく、ある種の厳しさを感じさせる無表情。仏像のように隙がない。
混乱を来たしているのは水穂も同じだった。彼女は異常存在によって認識の混乱を起こしているという。迷彩服の男を肉親と思うようにと。
「お、お父さん……?」
「大丈夫だよ、水穂」
その声は迷彩服の方から発せられる。飢えた狼のような凶悪な面相のまま、それを水穂に見せぬように言う。
「こいつは偽物だ。悪いやつなんだよ。父さんが倒してあげる」
「ラザロ。なぜそこまでするのですか。異常存在で顔を変えてまで」
「語る言葉など無い」
足元の銃を爪先で跳ね上げ、先端がラッパのように広がった拳銃を構える。
「お前はここで死ぬだけだ」
「事情を語る口もないのですか」
黒スーツの男は手のひらを上にして構える。一瞬そこに色水が吹き出すように見え、気づけば赤い紙が乗っている。
草苅記者が眼を見張る。こんな場面で手品を見せるとは思えない。ではまさか、空中から紙を作り出したのか。
「私に敵対してまで、何を求めるのです」
「カタログナンバー44! この世すべての痛み!」
それは射撃の直前の4分間。世界中で撃たれたあらゆる弾をすべて放つ銃。
引き金を引くと当時に目の前が暗黒に染まる。
蝗の大群のように広がった弾幕が視界を埋め尽くす一瞬の光景。それは秒速400から1600メートルの速度で面的に、あるいは三次元的に広がってすべてを粉砕せんとする。
「翠蘭乙王牢蜜折り」
黒スーツの手が赤紙を握り、開いたその瞬間に周囲に半透明の立方体が出現する。
その正面に数十万もの弾丸が着弾、一瞬後に左右で激しい火花。弾丸が極端な角度で屈折し、左右を通っていた弾丸にぶつかっている。
「弾丸では私には……」
「カタログナンバー96! 腐肉もつ銃王!」
また別の銃を構えている。グリップから銃口まで黒い晶石に覆われた銃を。
引き金を引く。打ち出されるのは一匹の蝿。弾丸の速度で飛んで立方体に張り付く。
瞬間、その全体が真っ黒に染まり、泡立つ泥となって崩れていく。耐えがたい腐臭と息が詰まるような気配が。
「冠石要枢錬折り」
黒スーツの男は緑の紙を折っている。生まれるのは透き通ったエメラルドのような宝石。
次の瞬間には蝿は一粒の宝石に変わっている。黒真珠に似た高貴な輝き。腐肉の臭いがどこかへ消え去り、足元の土が輝く砂金に変わっている。
「え、な、何あれ……何が起こったの」
「紙を宝石に変えただけです。それを見た者までも宝石に変わるような高貴な石に」
「カタログナンバー……」
言い終わる前に抜き放つ、そして引き金を絞る。
「鈴々絡舞鯉埜宮竺折り」
銃を撃たれる。だが何の音も響かない。
黒スーツの足元から跳ね上がるのは一匹の鯉。黒スーツの頭の高さまで上がり、地面に波紋を生みつつ潜る。
音が戻る。意識してなかった風の音や木の葉擦れが明確に聞こえるような一瞬。
「な、何が……?」
「あれはカタログナンバー19、ノイジーキング」
誰かの呟きに答えて、黒スーツの男が言う。
「音を放つ銃です。人間を即死させる力があります。だから音を食べる鯉で防ぎました」
「ぐっ……」
迷彩服の男は歯噛みする。イヤーウィスパーは装備していない。今のは自分をも殺す覚悟で撃ったのだ。
カタログナンバー7、止まらざる心臓、死んだ後に復活できる銃を己に撃っておいたが、それらのことを黒スーツが知るはずもない。
「馬鹿な……間に合うはずが」
「そうですね。間に合うはずがない」
黒スーツの男はズボンのポケットに手を入れ、そこから懐中時計のようなものを取り出す。それはよく見れば紙で出来ていたが、分針も秒針も軽快に動いている。
「だから対応を一段階ずつずらしました。あなたが三番目に撃った銃への対応は、四番目の銃を撃ったときに行います」
「ぐ……」
もはや草苅だけではない。この場の全員の理解を超えている。
(これが枯滝路)
まぎれもなく本物。と確信する。
そして迷彩服の男は、舌打ちとともに叫ぶ。
「ならばこれを受けるか! カタログナンバー111、オルバースの銃を!」
「……」
黒スーツの男に、初めて緊張のようなものが走る。
その眼がちらりと脇を見て、斜面の下を、根乃己の村を見たように思えた。




