第三十話
※
遠い日の記憶。
それは夕日の世界。
畳に寝そべって紙を折る。あらゆる影が壁を這い登り、生命を得て踊る刻限。
部屋中に散らばる千代紙。部屋はお城の舞踏場のように広く思えて、天井は空の高みのよう。
あらゆる色彩の紙が床一面に散らばる。新聞紙もあればボール紙もあり、父はちゃぶ台の方に向いて、白い紙を丁寧に折っている。
父が何かを見せてくる。
それは透明な球体。水晶玉のように向こうが透けて見える。ふすまの輪郭が曲線に歪む。
目隠折りと名付けたんだよ。
父はそう言って、私の前でもう一度同じものを作る。
だが、私には分からない。
父の指がどう動いているのか、眼では追えているのに、何が起きているか分からない。
私はふるふると首を振り、父は寂しそうな顔をする。
父の手が折り紙に触れると、それは透明な球となる。
そして世界から消える。
屈折率も反射率もゼロに近づくのか、あるいはこの世ではないどこかへ去ってしまうのか。
私には何もわからない。
私だけではない。誰にもそれは分からないのだと。幼いながらにそれを思う。
父は誰からも理解されず、いつも一人で、どこに行き着くのか誰も知らない。
そして世界は。
そんな父を、許しはしない。
※
けもの道と見まごうばかりの、茶色の蛇のような道。ジャージ姿の水穂は姿勢を低くして走り、草苅記者が木の枝を払い除けながら追う。
「水穂ちゃん! 待ってってば!」
草苅記者はよく走れている方だった。もう少し注意深ければ、水穂が何度か振り返りつつ、草苅が見失わない速度を保っていることに気づいただろうか。
ふいに視界が開けて、土のむき出しになったグラウンドが見えた。土の坂はいつの間にか石段に変わっている。まろび出るように広場に着地。
「っと、あれ、ここどこ」
「根乃己小学校、奥薪分校です。もう廃校になってますけど」
なるほど、背後は切り立った山、前方には根乃己の水田が一望できる。山の中腹にある校舎のようだ。
すぐ横には水穂がいる。汗だくの草苅記者とは対象的に涼しい顔だった。
「水穂ちゃん!」
「根乃己が攻撃されてるなら放っておけません。私も戦います」
その言葉に、草苅は一瞬きょとんとした顔になる。
そういえば、枯滝水穂はそもそもなぜ根乃己に戻ろうとしたのか。
戦う、という言葉が反響する。
「え、戦うって、戦えるの……?」
「さっきの見たでしょ。お父さんの残した折り紙がありますから」
また別の疑問が浮上する。
「でも、犯人は枯滝路さんかもしれないって。そうだとすると、その折り紙を作った人……」
「なおさらです。私ならお父さんを止められるかも」
その答えについてはどうも気持ちが入っていないと感じる。
父親が犯人と信じていない、と言うよりは、その可能性を考えまいとしているように思えた。
「そういえば……お父さんが根乃己にワープしてくる手段があるって言ってなかった? それで呼べばいいんじゃないの?」
「……」
水穂は先ほど見せたルーズリーフを取り出し、かるく振る。
すると、それは縦長にほぐれていき、ビニルテープのような白い帯となる。
水穂は少し歩き回って、グラウンドの中でも草のない場所にそれを広げる。帯はぴたりと端と端がくっつき、円形となった。
「海路端苑台折り……。お父さんは世界のどこからでもこの輪に飛んでこれます。でもこれは一方通行で、こちらから行けないんです」
「じゃあ、それを使えば……」
「……もし、お父さんが犯人だったらと思うと……」
「あ……」
草苅は少し心を痛める。
この装置を使って呼び掛けたなら、この事態の犯人が父親なのかどうか確定してしまう。
もし、父親が呼び掛けに応じなければ。
「……ん?」
ぽん、と疑問符が耳から飛び出して、そのへんを跳ねながら草むらに消えた。
この装置を使って、父親が来てくれればよし。
来なければ、犯人が父親だとほぼ確定する。
それがどうした?
「水穂ちゃん、あなた……」
水穂はぷいと視線をそらし。
距離を取ろうとするその肩を、草苅ががしりと捕まえる。
「ノープランね!」
「ええと、その……」
枯滝水穂にはあまり見られない事ではあったが、両手の人差し指を合わせて弱り顔になる。
「お父さんの折り紙はたくさん持ってきてたし、行けば何とかなると」
「何とかって何! 何をどうするのが解決なのか分かってないでしょ! 私も分かってないけど!」
「心配だったんですよ……。レーテの謹慎は解けてるけど、前よりも物静かになって、能力もほとんど使わなくなったし、根乃己にはお母さんもお爺ちゃんもいるし」
「だからってこっちに来てどーすんのよ! いや、それ以前にお父さん呼べるならとっとと呼ぶべきでしょ! 来てくんなかったらそんなもん仕方ないでしょ!」
「ううん……」
水穂はその場にかがみこみ、いじけたように土を指でいじりだす。
草苅は肩で息をしながら、あきれた様子でため息をついた。
だが、同時に水穂の認識を改め、少し安心したような気もする。
結局のところ、父親が根乃己に攻め込むと聞いて、いても立ってもいられず乗り込んできただけなのだ。そのような直情傾向、子供らしく後先考えない部分が水穂にもあったのだと、笑みが浮かぶような心境でもあった。
「でももし……お父さんが犯人じゃなくて」
水穂は、それはあまり言いたくないことなのか、土中の蟻に言うような小声になる。
「それでも、助けに来てくれなかったら……」
「……」
草苅はやれやれと腰に手を当ててから。水穂のそばにしゃがみこむ。
「そんなことないわよ。必ず来てくれる。この事件だってお父さんが犯人のわけない。もし万が一そうだとしても、何か事情があるはずよ」
「草苅さん……お父さんのこと知らないでしょう?」
「あら、よく知ってるわよ」
え、と水穂が眼を見開く。
その額を、草苅の細い指が突いた。
「水穂ちゃんのお父さん、それだけで十分でしょ。水穂ちゃんはいい子だし、お父さんを慕ってる。悪い人のわけないって」
「……うちは結構複雑で、そんな簡単には……」
だが、草苅記者の言葉に救われる気もした。回りの大人たちは父については腫れ物に触るようで、母の瑛子もあまり話題にしたがらない。
そんな中で水穂を通してとはいえ、善人であると信じてくれることが嬉しかったのだと、水穂は自分でも自分の心境を意外に思う。
同時に、いじいじと迷っていた自分を恥ずかしくも思った。混乱のままに根乃己まで来たものの、何をするべきか、どこへ向かうべきかは一寸先も見えないままに走っていたのだ。
やるべきことなど、最初から一つしかなかったのに。そのために日吉町まで出ていたのに。
「分かりました、今からお父さんを呼びます」
「うん、それがいい」
「草苅さん、ライター持ってますか」
「ライター? うん、あるわよ」
「よかった、途中で調達できなくて困ってたんです。あの装置は燃やすことで起動するんです」
「そうなのね……て、まさか」
十分前を思いだし、ようやく理解する。
水穂を追うとき、彼女は互いに見失わない程度の速度で逃げていた。それはライターが欲しかったわけだ。
「ライターぐらいどこにでも売ってるでしょ、コンビニとか」
「コンビニにあるんですか?」
今度こそ、草苅は口をあんぐりと開けて。
そして一瞬後、腰を曲げて盛大に笑う。
「し、知らないんだから仕方ないでしょう」
「いや、ご、ごめん、み、水穂ちゃんって普段めちゃくちゃしっかりしてるから、ふふ、ギャップが……う、くく」
途中でジャージを調達できているのに、ライターは手に入れられなかったとは。これは将来、回顧録を書くときに入れるべきエピソードだな、などと思う。
ともかく草苅は胸ポケットからタバコの箱と、ライターを取り出した。
「はいこれ」
「ありがとうございます。さっきの狐のやつ使おうと思ってたんですけど、あれ貴重なものだし、一枚しかなくて」
などと言い訳じみたことを呟きながら輪の方へ向かう、それを何となく微笑ましい気持ちで眺めていた。
耳にきいんと響く感覚が。
「……?」
「じゃあ呼びますね、まず火をつけて」
じっ、と火花を散らすが火がつかない。
さらに数回の試行。やはり同じだ。
さては火打ち石を回すだけで、ガスのスイッチを押し込めていないのだと推測。
「水穂ちゃんへたねえ、私がやるから……」
次の瞬間。
水穂がはっと顔を上げて叫ぶ。
「草苅さん! 息を止めて!」
「え……」
ぐらり、と視界が歪む。
瞬間、足から力が抜けて地面に倒れ伏す。反射的に肘をついたが、頭部が勢いを残しており地面にぶち当たる。
「が……」
急激な頭痛。しびれるような全身の倦怠。視界が暗くなって焦点が定まらない。
誰かが。
それは迷彩柄のズボンと灰色のジャケット。肩から複数の銃を吊り下げ、大きめのアタッシュケースを持っている。
その右手には銃が。プラスチックで出来ているかのような青白い銃であり、側面に「Sauerstoff」と刻まれている。
「な……誰、何、を……」
「まだ話せるのか」
黒いアーミーブーツ、腰に吊られたナイフケース。軍人なのだろうかと考える。それにしては歩き方が無造作で、体格も痩せすぎにも思える。草苅のそのような思考はまとまりのないもので、ほとんど記憶にも残らない。
彼が枯滝路なのだろうか。
その人物の銃口が、倒れている水穂に向けられる。彼女にはもう意識がないようだ。
「や、やめ、なさい……」
「心配はいらない」
ばす、とサプレッサーのついた銃が駆動し、水穂の背中に衝撃と白煙が。
「あ……!!」
「世のすべて生きるもの、やがて天に導かれるのみ」
そして銃口が草苅の眉間に向き、一瞬の躊躇もなく引き金が引かれ――。




