第二十七話
太陽が天の高みでガラスのように砕け、無数の破片がアスファルトにざらざらと降り注ぐ。
道行く人を包み込むような暑気と、すべての日傘をボロボロに朽ちさせるような紫外線。そんな猛暑日の町である。
日吉町とは根乃己より峠を越え、バスで一時間ほどの距離にある。人口は根乃己の十倍はあり、スーパーマーケットや大型書店、ボウリング場など一通りを備えた町だった。山に囲まれた感じがないため、どことなく風通しがよくなった気がする。
枯滝水穂はそんな町を歩いている。彼女にとっては十分に刺激的な都会であった。
白いワンピースに、同じく白の大きな帽子、かご編みになった小さなバッグというスタイルはどことなく浮世離れしているが、その清楚な印象の小顔と、落ち着いた態度で不自然さはない。
バス停を離れて、駅の方向へと歩く。
「えっと、まず新しいトイレマットを買って、接着剤と合板と小さい刷毛を……」
目的はホームセンターまでのお使いである。カスタネットの補修用の品の買い出しに、水穂が名乗り出たものだ。
左右に視線を投げつつ、落ち着いた足取りで進む。
「あれ、水穂ちゃん」
交差点に差し掛かると草苅記者がいた。ダメージジーンズに前開きシャツ、シャツのすそをへその上あたりで縛り、日に焼けた顔に大きめのサングラスをかけている。
地方都市に過ぎない日吉町ではかなり浮いている格好だが、本人に気にしている様子はない。
「こんにちは」
一礼だけして横を通りすぎようとすると、草苅記者もついてくる。
「水穂ちゃん、お買い物?」
「そうですよ。この先のホームセンターまで、それから駅前の書店に寄ろうかなと」
「せっかく会えたんだし、そこらへんの喫茶店でお茶しない? 一人だと入りにくくってさあ」
水穂は足を止めて振り向く。草苅記者はいつものように垢抜けた陽気さがあり、喫茶店どころか一人でバーベキューでもやれそうな女性だが、特に口には出さない。
「まあいいですけど」
入ったのは全国チェーンの喫茶店である。草苅記者は三段のパンケーキとクリームソーダを注文し、水穂はアイスティーとブリュレである。カラメルを割りつつ小さなスプーンで口に運ぶ。
「いやー、たまに町まで降りてくると文明のありがたみが分かるわね。根乃己ってばスマホのパーツとか揃えが悪くて」
「雑貨屋さんしかありませんからね」
「水穂ちゃん、ホームセンターに買い物行くの? 私のほうは用事終わったから、手伝ってあげるわよ」
水穂はちらりと視線を上げ、ブリュレのカラメル部分をスプーンでこそぎ落とす。
「大丈夫ですよ、一人でも持てる量しか買いませんから」
「いいからいいから。ことわざにもあるでしょ、旅はどっこいしょ、世の中はよいこらしょみたいな」
「雑にやらないでください」
水穂はふうと息をついてスプーンを置き、その手をテーブルの下に降ろす。
「そういえば草苅さん。今日、根乃己を出てから体の違和感はありますか?」
「ん? ええと、もしかして結界とかいうやつのこと? 大丈夫よ、もうほとんど違和感ないから」
「そうですね。根乃己に長くいて、何度も異常存在に触れてると結界が効かなくなってきます。でも人間だけなんですが」
「そうなのよねえ。何度もフィルムとかメモとか外に出そうとしたんだけど、峠を越えると白紙になっちゃうのよ」
恒常性結界。
それは根乃己を包むように存在する壁であり、根乃己から外に出るとき、異常存在に関する記録はすべて消え失せ、さらに人間の記憶までも影響を受けるという。
「一度は山の上から矢文を射ってみたんだけど、手紙だけ真っ白になってたの」
「何してるんですか」
あきれたように眼を丸くする。
「恒常性結界は文書情報だけじゃなくて、音とか光も遮断してます。突破するには……」
と、水穂は少し考えてから言葉を続ける。
「いくつか教えておきますね、危ないことしないように」
「あらホント? ありがとう、REVOLVEの人ってそういうこと話してくれなくて」
「まず、根乃己の上空にいくつかの衛星があります。REVOLVEはこの衛星を経由して外とやり取りしています。恒常性結界はメガホンみたいな形をしていて、地上から250キロ上空までカバーしてます。その高さを越えればいいんです」
「静止衛星ってことね、なるほど」
「静止衛星は赤道上にしかないですよ。根乃己上空を通る準天頂軌道に75の衛星を置いてます。必ず二つ以上の衛星が交信範囲に入るから大丈夫なんです」
「ほへー」
正直なところ草苅記者にはよく分かっていないが、とりあえず驚いておく。
それと、と水穂が取り出すものがある。
それは銅製の天秤だった、手のひらに乗るほどの大きさである。
「何それ?」
「凶兆の天秤です。古代の異常物体をもとにして、REVOLVEの開発した道具です。こういうのは持ち出せます。つまり人間が異常性を解明したもの、オカルトではなくなったものです。私にもトラブルへの対応のために持たされてます」
「あ、聞いたことある。それって本物? うわなんかすごいわね、本物のオカルトアイテムって初めて見たわ」
「オカルトじゃないんですってば」
水穂は簡単に使い方を説明する。天秤の傾きによって通常の存在、異常存在、超常存在を判別できること。天秤なのは外見だけで中身は機械であり、内部で乱数評価を行っていることなどだ。
「なるほど、異常存在と超常存在……どう違うの?」
「異常性にも序列があるんです。より高位の異常は、下位の異常の影響を受けにくいんです。呪いのワラ人形で神様を呪い殺せる気がしないでしょう? そういうものだって説明されます」
「うーん、分かるような分からないような。まあとにかく、その天秤で三種類に分類できるってことね」
「いえ、本当はもっと……」
と、水穂は言いかけて止める。吐こうとした息を唇で捕まえるような急な沈黙。視線を脇に投げる。
「本当は?」
「……あのですね、草苅さん」
水穂は少し力を込めて視線を上げる。
その眼にはどこか決然とした色があった。少女らしさを残すあどけない顔に、強い意思を秘めた大きな瞳が不思議な調和を見せている。その頬は涼しい店内にあって朱に染まっていた。
その水穂の小さな手が天秤をつまみ、草苅記者の方へと差し出す。
「これ、あげます」
「えっ。マジで?」
「その代わり、私の味方についてください」
沈黙。
どこかの席でグラスの氷が溶けてからんと鳴り、厨房から食器の触れあう音がする。
草苅記者の顔から、どっと汗が吹き出した。
「な、なな、何の話かしら」
「根乃己から日吉町までのバスって一日に4本しかないんですよ。私が朝イチのバスで来たのに、根乃己に住んでる草苅さんと偶然に会うわけないでしょう」
「そ、それはその、昨日はこっちでパーリナイトして友達とホテルのオールナイトに出掛けナイト」
「落ち着いてください」
草苅記者の手に天秤を握らせ、それを水穂の両手が包む。
「根乃己の事情を知ってる人は監視対象ですからね。普段はここまで厳しくないですけど、少し前にレーテがトラブルを起こして、REVOLVEもピリピリしてるんです。だから私にまで見張りをつけたんですね」
「ご、誤解よ。私は別に何も聞き出してこいとか言われてなくて」
「お父さんを呼ぼうと思ってます」
「うわっ」
草苅記者は頭を抱えてテーブルに突っ伏す。
「REVOLVEは常にお父さんを探してます。お父さんを呼ぶ手段を聞き出したかったんでしょう?」
「うう、そうよ、その通り」
草苅記者は天秤をシャツのポケットに入れる。契約成立とみて、水穂も少し気を落ち着けた。
「REVOLVEの人から言われたの。水穂ちゃんが枯滝路さんを呼ぶ可能性があるから、その手段を聞き出してこいって」
草苅記者は具体名を言わなかったが、指示したのは十中八九、母の枯滝瑛子だろう。レーテを路に会わせる約束のことは母も知っている。このタイミングで根乃己を出るなら、父を呼ぶ可能性が高いと踏んだわけだ。
「でも分かんないのよね。水穂ちゃんってお父さんと連絡取れる携帯あるんでしょ? それ使ったら?」
「草苅さん、少し誤解してます。お父さんは忙しくて、こっちの都合だけでは帰ってこれないんですよ。レーテが来てから何度も帰ってきてって頼んだんですけど、無理だって言われるばかりで」
草苅記者の頭に疑問符が飛ぶ。
「え? どういうこと? レーテくんが不安定だから帰ってきてって頼むんでしょ?」
「違います、頼むんじゃなくて呼ぶんです」
「???」
「つまり……」
水穂は草苅記者のクリームソーダからストローを抜く。それを紙ナプキンで軽く拭いてから、己のブリュレの容器とクリームソーダのグラスを渡す位置に置いた。
「ワープです。お父さんは根乃己に帰ってくる手段を持っています。私がそれを預かってるんです。それを使います」
「おお!? どこでも何とかってやつね!」
「これだと時間もかかりません。それに日本は特に警戒の厳しいところで、お父さんも混乱なく帰るのは難しいので」
水穂は周囲を見回す。観察はずっと続けていたが、他に怪しい客や店員はいない。この店にはカメラもないし、とりあえずは大丈夫だろうと判断する。
「それがこれです」
取り出したそれは一枚のルーズリーフだった。妙に古いもので無数にシワがついており。ゴミ箱から拾ってきたかのようだ。
「何それ?」
「お父さんが私に預けた道具です」
草苅記者は眉根を寄せる。どう見てもただのルーズリーフにしか見えない。それに、これが異常な物体だというなら、根乃己の結界を抜けられないはずではないか。
「草苅さん、さっきあげた天秤をこの上に置いてみてください」
「え、うん」
言われるままに天秤を置く。キーホルダーのように小さいが、銅の重みは感じる。
「いいですか、右の皿には「現実」が乗っています」
「うん、さっき聞いたやつね、左の皿がどう動くかで……」
皿に何かが盛られている。
「え?」
一瞬のことだった。右の皿には山のような果物が。左の皿には眼もくらむような財宝が乗っている。ミニチュアのように小さいが、皿からこぼれるほど大量である。
「え、何これ」
「根乃己の恒常性結界を抜けられる条件は、もう一つあります」
その紙を残したのは枯滝路。水穂の父であり、世界で唯一、流れの者を追い払えるという存在。
草苅はこの日、この時に初めて、その異常性の一端に触れた。
理解すら及ばないほど奇妙さ、その言葉の意味することの一端を。
「そのものの異常性が、恒常性結界のそれを越えている場合、です」
ごくり、と草苅記者が息を呑む。
その瞬間。
目の前で、果物と財宝が黒ずんでいく。ミニチュアの果物が腐り、ゴマ粒ほどの宝飾品が腐食しているのだ。金貨も宝石も炭のように黒ずみ、さらさらと崩れて皿からこぼれていく。
「え……?」
「うわ凄い、それも異常性ってやつね」
草苅の言葉に、しかし水穂は眼をしばたたいて動揺を示す。椅子をがたりと引いて立ち上がり、天秤から距離を取った。
「いえ、知りません。こんな現象は一度も」
天秤に形容しがたい変化が起きる。それはまだいい。
しかし、天秤に乗せてから変化が起きるのはどういうことだろうか。
水穂は凶兆の天秤について思い出す。これは左の皿の変化によって物体の異常性を測る道具であり、そのために右の皿に。
「……現実の」
「え?」
「現実の重さが変化してるの……?」
携帯の着信音が鳴り響いたのは、ちょうどその時だった。




