第二十一話
「……カギハナ、どういうつもりじゃ、霧雨会を裏切るつもりか」
「ハ、裏切るじゃと? ワシに言わせれば裏切っておるのは根乃己の方じゃろう。あるいはアメリカのagole、英国のアーグルトン、みな同じじゃ。なぜ多くの人々に嘘をつき続ける。流れの者を拒み続けて何年経った。素晴らしい出会いもあったはずじゃ。なぜ未知の世界を受け入れぬ」
「お前は受け入れたというわけか」
「そうとも。タッちゃんにはこの深淵の知識が分からんのか。ここの知識は知りうることの最果てよりも深い。人間の理解しうる遥かに外側の知識が、果ても見えぬほど深く神秘的な哲学がある。ネットワークの深みにこれがあることをなぜ無視する。なぜ潜ろうとせぬ」
ふ、と草苅の耳につぶやきが聞こえる。
竜興老人が嘲笑を漏らしたことはカギハナにも察せられたらしい、目も耳もない、けぶるようなノイズに覆われた姿をわずかに揺らす。
「笑うか、お前たちREVOLVEはいつもそうじゃ。理解できないものを拒むことを恥とも思わぬ。拒み続けてその先に何がある。あの異様なシステムもいつかは尽きるだけではないか」
「カギハナよ、それで情報の深淵に触れたつもりか? それで人間を超えたとでも思っておるなら片腹痛い。羽化登仙、人間を超越したものがなぜ俗世間に関わる。なぜ小賢しい策を弄してまでわしに害をなそうとする。丹魚の恨みがそれほどに深いというのか」
その言葉にカギハナは少なからず反応を示す。闇色の塊が肩を震わせ、まっすぐに竜興を見つめるかに見える。
「当たり前じゃろう。お前のせいで彼女は寿命を縮めた。異形に深く関わりすぎたのだ。お前は彼女を危険な目には遭わせぬと誓っただろう」
「それは否定せん。確かに丹魚は体が弱かった。しかも彼女を狙い撃ちするように様々な異常現象が起きた。人間の想像を超えたものもあった。わしを含めてREVOLVEが全力で排除し続けたが、寿命を縮めたことは間違いない」
「その責任を感じんのか?」
「恒常性結界を出るべきじゃったと? そうは思わんな。異常現象は世界のどこかに必ず起きる。世界に三つある恒常性結界はそれを集めておるだけ、ワシらが逃げても必ず誰かのところに現れる」
「それが丹魚さんである必要がどこにある!」
影の足元で猟犬たちが立ち上がる。可聴域ぎりぎりの高音でうなり、その周囲で仮想空間は秩序を失い、泥のように溶けていく。世界を溶かす猛毒が撒かれたかのように。
「誰である必要もない。誰かに押し付けることもできん。立ち会ったものが最後まで付き合わねばならぬ。それが運命というものじゃ」
「戯言を、それで罪を受け入れて生きていくとでも言うのか。誰もお前を許してなどおらぬ、この世の誰もだ」
竜興は毅然と受け流そうとしているが、カギハナの殺気は高まる一方である。その黒い姿はまるで蝿が集まって生まれた魔王のよう。微細な電磁的ノイズの集合が密度を増していく。触れた瞬間に全てを破壊する高圧電流のような。目が潰れるほどの神さびた穢れのような。
「た、竜興さん……怒らせて大丈夫なんですか、ここはログアウトしたほうが」
「駄目じゃ。かなりの人数分の回線を結界の外に出しておる。その過半数をズタズタにされておるということは、電子防御において米軍の支援が損なわれるということ。この場所から根乃己への攻撃について守る術がないという事じゃ。今のカギハナにはREVOLVEのスタッフでも太刀打ちできるかどうか」
「よく分かんないですけど……つまり、私たちを国会図書館に誘い出すのが目的だった、ってことですか」
「御名答じゃよ、お嬢さん」
機械的な声でカギハナが言う。
「異変を仕組んだのはワシじゃ。あの「奉書」、あんたはウェブサイトから無意識に選んだつもりじゃろうが、思考を誘導するなど容易いこと。あの本が図書館にあれば、いつかタッちゃんが調べに来ると思うておった、思ったより早かったがのう」
「ああ、このお人は幸運に守られとるからな」
ぽん、と草苅の腰を叩いて竜興が言う。
「スムーズに進んで都合が良かったわけじゃ。お前も、わしもな」
「――お前はいつも強がる」
カギハナが、その影だけの顔から高音を放つ。それに呼応して犬たちが殺気を宿す。
「分かっておるのか? わしはもはや霧雨会など問題にならぬほどの力を得た。深淵の知識に触れ、深淵の番犬たる猟犬すら手駒にしたのじゃぞ。こいつは超高密度の攻撃的プロトコルの固まり。タッちゃんとて食われればただでは済まん。カスタネットと根乃己の電脳世界も一瞬で消し炭と化す。そして世界は変容することになる。わしが深淵の力をもって世界を変える」
「深淵の知識か。塩水をなめた程度で海を語るか、カギハナ」
「崩落!」
重力が薄れる。
空中に放り出される感覚。一瞬後に足が地面を認識する。
周囲がとてつもなく巨大な縦穴に変じ、地面が浮島のような足場となって落下していく。
遠景ではトンネルのようなダムの壁のような。灰色の壁が凄まじい速さで上昇して見えて、そして草苅の脳裏に流れ込むのは情報の断片。
「これ……頭の中に、情報が」
それは草苅には表現が不可能な知の洪水。言及できず、五感でも捉えられない濃密な情報、それが文字情報として無理矢理に流れ込んでくる。おそらくは目の端で目視している表紙のほんの一部。それですら人間のキャパシティを遥かに超える。そしてそれは肥大している。ちらりと目の端に映った分類記号は五百桁を超えている。超えていることだけが認識できる。
「タッちゃんにこれが理解できるか! 人間の矮小さを思い知るか!」
「――ふん、崩落ウイルスとは古典的じゃな。足元を崩して情報の深淵へ落ちていくわけか」
平皿状の岩盤の上で、竜興老人は腰をかがめたまま構える。
「ぬるいのう、こうじゃろ」
だん、と脚を踏みつける。
途端、全員の体が、猟犬たちが岩盤に張り付くような力が働き、降下の速度が数倍に跳ね上がる。周囲の眺めは下から上に落ちる本の大瀑布。あるいは大爆発。
「な――」
「分からんのか。自由落下では一生かかっても情報の底など行けぬ。そもそも底などあるのかどうか。それは宇宙と同じ、光学など時空のごく一部に過ぎず、宇宙開闢から広がり続ける観測可能領域すらも零に等しいほどの広大さ。本当の混沌とは、混沌の度合いすら無限――」
もはや草苅にはその一端すら理解できぬ。舞い上がる本には記号のようなものが書かれているが、その記号をひと目見ただけで脳のキャパシティを超える。分類記号はすでに百万桁を超え、さらに加速度的に増えていく。
「くそ――四肢を喰らえ! 犬ども!」
速度を上げる岩盤の中。その像をびりびりと震えさせながらもにじり寄る黒犬。
数匹は加速していく足場への畏れで動けなくなっているが、動けるものは顎を思い切り開き、その居並ぶ牙で目の前の老人を食いちぎろうと――。
「た、竜興さん、どうする、の――」
「……草苅さん、わしは一瞬だけ、カギハナに負けてやってもええと思うた」
「え……?」
「どうせわしは現役ではない。今のREVOLVEがカギハナに負けるなら、それもまた運命。地球がようやくのファーストコンタクトを迎えるだけのこと。満足できる来訪者ではないかも知れんが、満足できる来訪者など存在するのかどうか。地球人類を超える文明すら拒んでおいて、なお選り好む我らに救いなど与えられるべきなのか、そう思うとった」
「……」
「じゃがまあ、わしが踏ん張るべきじゃろうな。わしにはあいつに復讐される資格がない。わしとあいつは同じじゃからな。あいつの復讐に付き合って楽になろうなぞ、虫が良すぎるのう」
「え、それはどういう……」
頭が割れそうなほどの高音。カプラー音を響かせながら黒犬の一匹が走り、そして跳躍。竜興老人の腕に喰らいつかんとする瞬間。老人は拳を握って口腔に腕を突き入れる。
「竜興さん!」
「なっ――馬鹿な。現実の犬ではないぞ、そんなことで」
黒犬は、腕に食らいついたまま動きを止め。
そしてぶるぶると振動を始める。大噴火のように上昇していく背景の中で、黒い蒸気のようなオーラが猛烈な速さで真上に登っていく。
「カギハナ、おかしいと思わんかったのか。なぜ猟犬は不可知の世界の境界にいる? どこかのハッカーが生み出した獣なら、それはどんな目的でここにいる?」
「何を――」
「そして猟犬は弱すぎる。なぜ人間レベルで勝ったり負けたりするのか。もし不可知の向こう側から来た獣なら、人間など勝てるわけがないと思わんか」
猟犬の形象が崩れる。
溶けて流れて、そして他の犬たちもすべてコールタールの沼のような眺めとなり、粘性の生き物のように竜興の足元に集まる。その脚を這い登り、腰を巡り、肩に昇ってそして腕の先にすべて集約されていく。
カギハナのノイズ混じりの高音が、動揺の色を宿す。
「馬鹿な――それはお前も何度も遭遇した敵のはず、コユビも――」
「山に深く分け入れば、己の仕掛けた罠を踏むこともあるじゃろう。コユビや、お前の前では攻撃的ファイルで撃退したがのう。カギハナよ、お前はこれを自立型のウイルスプログラムと思っているようじゃが、それは少し違う」
それは今や、黒曜石のような艶を備えていた。竜興老人の腕から伸びるのは異形の槍。奇妙にねじくれ、刃の枝を伸ばしながら天を突かんとする長槍である。
「これは呪詛の塊。およそ聞くに耐えぬ怨嗟の声、憎悪の声を縒ることで生まれた槍じゃ。開発者は闇奴沼矛と名付けたが、こうとも呼ばれる」
「――黒鉾」
それは誰の呟きだったのか。
すべては一瞬のことだった。振りかぶり、投擲される槍は空を裂いて跳び。
瞬時にカギハナは岩盤を蹴り、電気的信号となって高速で真上に逃げ、そして黒の槍が直角に跳ね上がって追尾、地から伸びる雷撃となって上空のカギハナを射抜く。
黒い閃光、そうとしか形容できない衝撃が広がり、四方八方に伸びる雷撃が壁を砕き書物を砕き、そして数万冊もの本が薙ぎ散らされ。
落下が止まる。
「――え」
そこはもう落ち続ける岩盤の上ではなかった。竪穴でもなく、書物で構成された壁もない。ただ書架が整然と並ぶ書庫に過ぎない。地面に投げ落とされたような錯覚に、草苅はバランスを崩して尻餅をつく。
「歪みの根本を断った。もうただのVR空間に過ぎん」
竜興老人はいつもと変わらず、腰の後ろで腕を組んで、膝をこころもち曲げた姿で佇んでいる。
「カギハナさんは――」
「黒鉾が処理する。友人のよしみじゃ、命までは奪わんように努力したいが……遅すぎたかも知れんのう」
「……」
数秒とも数分ともつかぬ沈黙が流れ、やがて竜興老人が口を開く。
「わしをREVOLVEに売るか? 黒鉾のスパイであるわしを」
「いえ……」
それは駆け引きとか、交渉の意図はなく、するりと喉を滑り出た言葉だった。草苅は床の上で正座になって言う。
「黒鉾のことは聞いてますけど……何か事情あってのことだと思うし、ジャーナリストとしては、本人が公表されたくないことは、記事にはしません」
「そうか」
そうとだけ応じる。それは草苅一人が何と言おうともどうとでもなる、という余裕のようでもあったし、これ以上それに言及しまいとする恐れのようにも見えた。
竜興老人からは覇気のようなものが抜けていた。小柄で素朴な老人のようにも見えて、草苅は少しの混乱を覚える。
「情報の深淵か、そんなものを求める気が分からんの。どれほどの読書家でも読みきれないほどの本が、ここにこうして存在しておるのに」
「そうですね……水穂ちゃんも本が好きだったし、きっと水穂ちゃんのお父さんもそうだったとか?」
何気ない一言だったが、老人の肩がわずかに固まることが察知される。
「いや」
どう答えたものか悩む。という様子を始めて見て取った。いつも堂々としていて、何事にも物怖じしないはずのカスタネット店主が、その人物、枯滝路についてだけは、言及を危ぶむかのように。
そして最後に、竜興老人はゴーグルを外す動作をしながら、言った。
「あいつは、本を読まんかったからの……」




