第二十話
「――ばぐいぬ」
数メートル離れた場所、ドーベルマンのような漆黒の犬がいる。
その体から闇色の蒸気のようなものが立ちのぼり、踏みつける本が猛烈な勢いで黒ずみ、腐葉土のように形象を失っていく。
そいつには殺気しかなかった。猛烈な速度で駆けてきて跳躍、鷲鼻の老人、カギハナの腕に食らいつかんとする。
「ぐっ!」
カギハナが手をかざす。出現するのは白い膜。よく見ればそれはぎっしりと書き込まれた数式のようだった。周囲から次々と覆いかぶさって小山のようになり、中の獣を押さえつける。
「カギハナ、猟犬の解除ロジックを探す、3分押さえられるか」
「無茶言うな! 侵食速度が異常じゃ!」
かぶせた数式の膜が一瞬にして黒ずんで崩壊していく。文字化けのように意味のない文字列となってほつれていく膜。奥に見える黒犬が顎を開き、膜を食い破りつつ滅茶苦茶に暴れている。
「タッちゃん! そっちで回線状況見えんか! 他の連中はどうなっとる!」
「確認する……ダメじゃな、アドレスごと消去されておる。回線はもはや復旧不能じゃ。マシンも臨終じゃろう」
黒犬は暴れ続ける。数秒も持たずに這い出し、カギハナの腕に牙を突き立てる。
出血、と思われたのは血ではなかった。黒い文字の塊がアバターから噴き出す。
「ぐあっ――!」
「カギハナさん!」
カギハナは一瞬、ゴーグルに手を伸ばそうとするも間に合わず、その腕がブロックのような色とりどりの立方体の集積に変じ、変容が一気に肩から首、首から全身へと広がって連結力を失い、ざざざと地面に流れる。
黒犬は残ったブロックを食らうかに見えたが、すぐに興味を失って草苅たちに向き直る。
「――――」
何かを叫ぶ、それはハウリングのような機械的な高音であり、意味をなさない。もし草苅が古い時代パソコン通信を知る者なら、カプラー通信の音を連想しただろうか。
「う、ひどい音……」
「草苅さん、まだゴーグルを外すでねえぞ」
ずい、と前に出るのは竜興老人。拳を前に出し、ぱちりと指を鳴らす。
瞬間。黒犬との間で巻き起こる衝撃。黒犬が後方に吹き飛ばされる。
「わっ!?」
爆発かと思って身構えるが、しかし草苅の体には変化がない。
よく見れば衝撃と思えたものは錯覚だった。黒犬と草苅たちの間に透明な立方体が生まれている。それは通路いっぱいを塞ぐスライムのような質感であり、緑色の液体で満たされている。
「え、これ、何かを挟み込んで……」
「逃げるぞ、輪に入れ」
竜興老人が地面に輪を描く。そこががくんと陥没し、エレベータのように沈んでいく。草苅も慌ててその中に飛び込む。
「何やったんですか?」
「メガデモじゃ。8キロバイトしかないが、GPUに素早く干渉して地形を生み出せる。周囲の雑データからランダムな地形を生み出すんじゃ。なるべく重くて食いにくい地形をな」
「へー、魔法みたい」
「同じ手は二度は通じんな」
竜興老人の返答は簡素だった。それは愛想の無さよりは余裕の無さと言うべきか。地面の下降は速度を増しており、アリの巣の観察のように洞窟の断面を何度か通り過ぎる。
「まずいの、汚染が深すぎる、ルーターボトムまで進んどる」
「何ですかそれ」
「電話線とPCを接続する箱のような機械があるじゃろ、あれもルーターというが、この場合はもっと広範な、ネットワークを実現する設備全体のことじゃ。いわば地盤じゃ。仮想領域がオンライン化されるということは、京都もアンコールワットも、国会図書館も全て繋がっておるとも言える。フォーマットが違うだけじゃ」
「はあ、よくわかんないですけど……」
「降りるぞ」
そこも地下空間のような眺め。しかし壁や地面は灰色のコンクリートのようだった。
よく見ればそれも本であり、平坦な床、円柱状の柱、アーチのような波模様で装飾された天井、そんなものもすべて本でできている。
天井は高く、円柱は規則正しく並んでいるが、空間の果てというものが見えない。壁もなく闇もない、無限の視界の中で同じ円柱がどこまでも並び続ける、そんな空恐ろしさのある眺めだった。
「なんか神殿みたいな……これも書洞なんですか?」
「汚染が高まると元々の地形データの名残が完全に消えて、フィボナッチのような天然のアルゴリズムによって見かけの地形が生まれる。円柱と石造りの通路も一つの数学的帰結じゃ」
竜興老人の語りは説明と言うより、自分の考えを整理するかのようだった。
草苅の返答を待たずに先を続ける。
「できるなら全て消去したいが、まず汚染の原因を探さんとな」
「でもなんだか綺麗な感じ……文明的というか」
本の一冊を取り出す。みっしりと詰まっているように見えたが、意外とするりと抜けた。
署名は「shaoserwmeuyd羊蹄山のidsuiaueionainuduaenyhbru冥府たる暗澹階層gasjfdneiui絹の街uahsuidiaohouhiふりゆよしoeufininsian」
分類記号は「852000021934444444444498342.1」
「これ、完全にバグってないですか」
しかし本の重み、整然と組み合わされた本の円柱、そこには何かの秩序を感じる。
秩序立っているのに中身は混沌。その感覚のギャップに不安定さがある。
「本当にバグならプログラムが走らん。ここは場所として成立しておる。人間の理解を超えておるだけじゃ」
「理解……」
口調が重たい、と感じる。
竜興老人の様子、口数が少ないというだけではない、直接的にこの空間を表現したくないような、草苅に分かる言い方で言いたくないような、そんなふうに思う。
また一冊の本を手に取ると、カバーの間から砂のようなものがざざざと流れ、驚いて取り落とす。しかし落ちた後も砂は流れ続けて止まらない。
また別の本を取る。それは取った瞬間に弾かれるように手から離れ、だるまのような形になって天井まで跳ね上がり、まっすぐ落ちてきてまた跳ね上がる。その往復運動を繰り返す。
「……」
「あまりいじくるなよ、何が起こるか分からん」
竜興老人は一本の柱に近づき、軽く手を触れる。
「ふむ……」
見れば、その手の表面から淡い光が出て柱に伝わり、灰色だった本に色がついていく。草苅でも知っているベストセラー本、売れ筋の本、週刊雑誌や漫画に。
「何してるんですか?」
「理解不能と言ってもしょせん1バイトのデータの集まりじゃ。アセンブラ単位で干渉して一般的な電子書籍のデータに書き換えとる。この汚染に原因があるとすれば、この修復作業に痛みを感じるはず、釣り出しとるのよ」
「釣り出す……」
その言葉に、どことなく違和感を覚える。
いや、違和感はずっと前から感じている。この秩序だった灰色の世界。そこを極彩色の本に書き換えていく作業に胸の奥で違和感があるのだ。灰色の書庫に色をつけていくこと、理解不能なものを理解可能なものに書き換えることが本当に正しいのか。
「……この場所、本当に汚染されてるんですか?」
「……」
竜興老人の背中に、わずかに重い気配が宿る。
「もしかしてこの本、バグってるんじゃなくて、すべて意味があるんじゃ」
「草苅さん、あの「奉書」じゃが、わしは似たようなものを見たことがある。混沌の文字列をな」
ふいに、そんなことを言う。
「え? それはあれでしょ、亞書のこと……」
「違う。わしはいろいろな場所に潜ってきた。一定以上の情報の深みに潜るとコードが複雑化し、ある一点から先は理解不可能になる。意味のない文字列。意味のないコード。意味のない数式、しかしプログラムは走る。その作動ロジックを誰も理解できない混沌のコードじゃ」
「……?」
「それは深海に似とる。深さ1万メートルあまりの深みですら、そこに住む生物は人間の理解を超えとる。もし海溝の深みが数十キロ、数百キロあったらどうなる? 数百ギガパスカルという圧力、どのような手段を用いても人間は行けず、観測も不可能な深みにも生物はおるんじゃろうか」
「何の話です?」
「情報も同じこと。穴を掘るように仮想空間を拡張していくと、どこかで混沌に触れる。それはあるいは境界線なのかも知れん。人間の理解できる世界よりも深い領域に、おそろしく広い理解不可能の領域があるのかもしれん。分かるか草苅さん、情報の複雑さにも領分というものがあるんじゃ、人間には絶対に理解できない情報領域というものがあり、猟犬はそういう場所に出よる」
「猟犬……」
「あるいは、それは見張っておるのかも知れん。人間が分相応という垣根の外に出ないように。あるいはその逆、向こうから来るものを拒むように。わしらの相手は宇宙からの来訪者だけではないぞ。あるいは宇宙よりも広い概念的世界。知性の壁で区切られた世界のカタチの外側。人間が認識も理解もできない場所から来る連中もまた排除しておる。だから流れの者という」
「……」
――口数が多い。
そう感じる。
草苅の発言が呼び水になったかのように、この偏屈そうな老人には似合わぬほどの長口舌だった。それも草苅には理解しにくい言い方、子供を脅すような恐ろしげな物言いが見られる。
竜興老人は何を言わんとしているのか、あるいは何を言わずにやり過ごそうとしているのか。そこを訝しむ。
腐臭。
嗅覚などない世界でそう感じたのは錯覚だったろうか。草苅が素早く振り向くと、そこに黒い煙をまとった影がある。
その足元では木目調になっていた地面が黒ずみ、石でも木でもない混沌の泥のようなものに変じる。
「ばぐいぬ!」
「猟犬か、来おったな」
草苅の目は周囲に動く。
一匹ではない。数十の黒犬が柱の影から現れる。その犬の周囲で石柱は蝋燭のように溶け崩れ、柱の根元に粘性の泥が溜まっていく。
そして、もう一人。
「……誰じゃ?」
ゆらりと現れる影。それは黒一色の人影だった。全身が羽虫の集合体かのように像がぶれており、目も口もなく、ノイズのようなジジジという音を放っている。
「……」
それは物も言わず、ただそこに立っている。そして周囲の猟犬たちがその周りに集まる。しかし攻撃的な動きではなく、周囲にうずくまるだけだ。主人に忠誠を誓う猟犬のように。
「何、あれ……」
「理解域の向こう側から来たのかの、あれも流れの者か」
竜興老人は皮肉げに笑う。
その指先が淡く光り、空中に赤い線でキーボードが形成される。
「いいじゃろ、局所型電脳戦……ひさびさに本気で相手になってやろうかのう」
「竜興さん……」
「草苅さん、あんたはわしのそばを離れるでねえぞ。猟犬が10匹以上おる。手持ちの攻撃型ファイルをすべて展開しても勝ち目は薄いが、なに、最悪でもカスタネット全部のPCが死ぬ程度じゃろう」
「そうじゃなくて、竜興さん……」
「ログアウトか? それはできんな。わしにもそれなりにプライドがあっての、せめて悪あがきぐらいは見せてやろうとも」
「いえ違います。あれ、カギハナさんですよ」
…………
……
「何じゃと?」
「……」
黒い人影は微動だにしない。しかし薄っすらと立ち上る黒いオーラが、少し揺らめくかに思えた。
「急になに言い出すんじゃ」
「雰囲気というか……。いえ、視点ですね。あの人、けっこう何度も私の脚とか見てたので」
「馬鹿を言うな、他の連中の回線はズタズタじゃ。ルーターごと破壊されとるんじゃぞ。この空間に残るどころか、ネットに繋ぐのも無理じゃ。他に根乃己からここまで来とる回線もない」
投射されたキーボードを叩く。空間に高速で何かのプログラムが表示されていく。
「見ろ、わしら以外に生きとる回線はないぞ。それに何故カギハナがわしらに敵対する」
「ええと……いくつかおかしい点あったんですよね。あの人、「奉書」を調べる時、裏表紙に匂いが残ってるって言ってましたけど、あの本って背表紙にしか文字がないのに、どっちに開く本か分からないでしょ、表表紙も裏表紙もないはず」
「……日本人じゃから、左開きが当然と考えたんじゃないかの」
「他にも……いくら「ばぐいぬ」が強くても、バックアップのマルミミさんとコユビさんが同時にやられるって不自然ですよね。だから中継してたカギハナさんが怪しいなーみたいな」
「いや、そもそも回線がズタズタじゃと言うたじゃろ。カギハナがここに来れるはずがないわ」
「……ここに潜る話が出たのって昼ですよね。そして、21時から潜った……」
「それが何じゃ」
「それだけあれば、移動できるんじゃないですか? 国会図書館に」
「なっ……!?」
「根乃己から来てるのはフェイク。いや、もしかして誰か身代わりに潜らせてたのかも知れないけど、カギハナさん本人は国会図書館から直接アクセスしてるんじゃないですか、それなら可能なんじゃ……」
「……ハ」
人影が、ガラスを削るような高音を放つ。
「ハハ、タッちゃん、ざまあないのう。そんな娘っ子に出し抜かれるとは」
「く……」
竜興老人は歯噛みする。場の緊張は不穏な空気を保っている。
その原因は明らかだった。黒い人影の放つ。遠慮のない殺気のせいだと――。




