第十八話
それからしばし。
「瑛子さんの手料理はうまいのう、なんか変な味じゃけど」
「こっちの白いやつはなんじゃ、マヨネーズか」
「それディップですよ、野菜スティックつけて食べてくださいね」
水穂が配膳しながら説明している。畳の間の中央に折り畳み小テーブルが設置され、老人たちはわらわらと群がって自由に食べていた。
メインはラム肉とアボカドをハーブとチーズでまとめあげたホットサンド。
野菜スティックには赤、緑、白のディップが添えられており、それぞれ材料がミキサーで処理されていた。その内容は。
赤はオマール海老とワインビネガー。
緑はブロッコリーとホウレン草とレモン果汁。
白は大根とウドとモッツァレラチーズという、お洒落なのか独創的なのかよく分からないランチ空間が卓上に展開されている。
「やはり分からんのう」
竜興老人はずっとキーを叩き続けている。コユビが横からニンジンスティックを差し出すと、視線も向けずにがりごりと噛み砕いた。
「タッちゃんでも無理か」
「遠隔じゃあ限界もあるわ、材料の分析はどうじゃ」
霧雨会の老人たちは食べつつ作業を進めている。「奉書」はバラバラに分解されて、フェルト張りの表紙から中紙がすべて外されていた。奥付けもページ番号もない本のため、もはや並んでいた順番も分からない。
「水穂ちゃん……これ返金効くのかしら……」
「あとで戻すんじゃないですか? たぶん」
ムシメはというとビン底眼鏡ごしに、さらに手鏡のように大きな拡大鏡を取り出して文字を追っている。
「んー、フォントは小塚明朝っぽいが少し違う、オリジナルかのう。手が込んどるなあ。印刷はインクジェットプリンターじゃ、この厚みの紙なら印刷会社に発注するかと思ったが、こりゃ芯になる厚紙をコート紙で包んどるんじゃ、製本はミシンでやっとる、手作りじゃぞ」
カギハナはフェルト張りの装丁を持って臭いを嗅いでいる。
「郵送の間にだいぶ薄まっとるが、裏表紙にモンゴロイドの臭いが残っとる。製本してた人間の体臭じゃな、おそらく日本人の男じゃ」
草苅の前にランチが運ばれてきたので、小声で問いかける。
「オブザーバーって言ってたけど……つまりアレかしら、「元」ってこと?」
「そうですよ、お爺ちゃんも元REVOLVEの職員です。霧雨会のお爺ちゃんたちもそうですけど、タツガシラの基地にいたとは限らなくて、警察だったり官僚だったり、一般企業で働くこともあるとか」
「それってスパイを送り込んでるみたいなこと? 根乃己の人ってみんなそうなの?」
「違うぞ草苅のお嬢さん」
聞き咎めたのかマルミミが割って入る。
水穂はてきぱきと動き回り、飲み終わったコップやら食べ物の皿やらを回収している。
「根乃己に生まれても、REVOLVEに関わる人間はほんの一部じゃ。だがわしらの世代は優秀でな、根乃己小学校第十九期生、ほぼ全員がREVOLVEに関わるようになったんじゃよ。わしは東京へ出て音響機器メーカーに就職したが、そこはREVOLVEのフロント企業でもあってな、REVOLVEの使う集音マイクやら小型のレコーダーやら開発したり、異常事態に関する音声の分析をしとったんじゃ」
「はあ、なるほど」
「何せわしらの業務は多岐にわたるからのう。流れの者への対処はもちろん、異常存在の発見と確保、超自然犯罪の捜査、他団体との抗争に古代の文献の解読、あと情報操作なんかもわしの担当で」
「ええいマルミミ! こっち手伝わんか」
自慢げな様子を邪魔したくなったのか、ムシメが畳をバンバンと叩いて呼ばわる。
「タッちゃん、ちょっとこっち見てくれるか」
ノートPCを操作していたコユビが言い。竜興老人がのっそりと振り向く。
「なんか分かったか」
「文章を頻度分析にかけてみたが、一定の偏りが見られる。文字列は22×45、58ページで5万7千字弱、平仮名、片仮名、漢字、ギリシア文字、数学記号がまんべんなく出てきておる。頻度としてはひらがなとカタカナが12%ずつ、存在する文字種では漢字が圧倒的に多いので、明らかに片寄っておる」
「意味のある文字列っちゅうことか?」
「そう思って解読ソフトにかけてみたが、かいもく分からん。だが人間が適当に打ち込んだものではない。高度な乱数を使って機械に打たせたか、極めて特殊な暗号かじゃ、まったく新しい言語のような……」
ふうむ、と竜興老人は深く考える素振りを見せる。
「すまんの草苅さん、もうちょい待ってくれるか」
竜興老人がそう言って、草苅は少し居ずまいをただす。
「あ、いえ、全然大丈夫ですから」
なんとなく察した、この老人は悩んでいるところを見せたくないのだ。どうやら出版した人間の素性を掴んで追い詰めようとしているらしいが、思いのほか難航しているらしい。
(……でも、何かな、この感じ)
老人たちが、わいのわいのと本を分析している。
その中で、いま。
誰かが妙なことを言ったような。
その思考は一瞬だった。水穂が立ち上がったことに意識が向いたのだ。
「お爺ちゃん、飲み物持ってくるよ、何がいい」
「麦茶」
「あ、じゃあ私はレモンティーで」
草苅が手を上げた直後に、霧雨会の老人たちも一斉に挙手。
「わしはジンジャーエール」
「ブレンドコーヒー、砂糖三つで」
「ビタミン強化つきリンゴジュースちょい薄めで」
「デカフェキャラメルフラペチーノスリークォーターダークチョコチップグランデアンチファット」
「分かりました」
「分かったの!?」
草苅が驚きにのけぞり、水穂はぺこりと頭を下げて部屋を出ていく。
「はー、水穂ちゃん凄いなあ、今の注文を一発で全部覚えて……」
「水穂ちゃんは頭ええからなあ、あの年で山ほど本を読んどるし」
ムシメが孫を思うような様子でうんうんとうなずき、草苅はふと、そういえば枯滝水穂は何歳なのだろうと思う。ごく幼いように見える瞬間もあるし、立派に自立した大人びた知性も感じる。竜興はかなりの高齢のようだが、彼の孫ということはもう大学生ぐらいでもおかしくない。身長は150センチそこそこ、身にまとう雰囲気がころころと変わるため、印象だけでは測りかねるところがある。
「まあそうじゃろうなあ、あの人の孫じゃからなあ」
「……? ん、あれ、そういえば」
と、ふと思い付いたことを言う。たくさん本を読む、という言葉で連想が生まれていた。
「この奉書っての、似たような本が他にあったりするのかなー、みたいな。たくさんあるならそこから何かつか、め……」
竜興が蛙のように目を見開いてこちらを見たので、内心かなり動揺する。
「……それは今やろうと思っとったわい」
ぷいと視線をそむけ、またキーを叩き始める。
「草苅さんやるのう、タッちゃんの気づいてないところを指摘するとは」
「そうなの?」
「クラッカーちゅうのは知識とか経験も重要じゃけんど、何より気づきが重要じゃからな、発想力があってこそじゃよ」
「はあ、そんなもんなのね」
実のところ、百戦錬磨、海千山千という風情の竜興老人に対して、まったくの素人である草苅が示唆を与えるというのは余りにも出来すぎた構図ではあった。そこには摂理を捻じ曲げるほどの豪運が関わっていた、と考えるほうがまだ通りがいいが、草苅は気づきもしない。
「こりゃ……何ちゅうこっちゃ」
画面に現れたのは草苅の持ち込んだものと同じ、濃藍色の装丁を持つ「奉書」である。その横にハイフンで区切られた長めのコード番号が付与されている。ISBNコードと呼ばれる固有番号だ。
「どうしたんですか?」
のっそりと四つ足歩行になってモニターへと近づく。その女性らしい肢体に誰かがつばを飲み込んだと気づくが黙っていた。
「似たような本が6億件以上登録されとる」
「は……?」
聞き間違えたのだろうか、と思って目が点になる。
6億?
「え、でもこれって手作りなんでしょ、そんなに作れるわけが……」
と、とぼけた角度からのツッコミが出てしまうが、竜興老人の目は真剣だった。
「通販サイトに出品されたのは一件だけじゃ。いま見とるのは国立国会図書館内部の蔵書データじゃな……。数週間前から、似たようなコード番号の本が一日に数千万件も登録されておる」
「はあ、じゃあやはり亞書みたいな、納本制度を利用して……」
「あるわけがない! 職員の作業限界をはるかに超えとる! 誰かがシステムを乗っ取って登録しとるとしか思えん!」
声を荒げながらも竜興老人の指は動き続ける。草苅にはよく分からなかったが、ほとんど目視できない速度のその指は正確無比、という言葉を連想させた。
「何のためにそんなこと……」
竜興老人は草苅の質問には答えず、傍らのコユビに語りかける。
「コユビ、書洞に潜るぞ」
「国会図書館にかい! そりゃまずいよタッちゃん、あそこにゃ猟犬がおる! 覗くだけならまだしも降りていくのは……」
草苅がはてと首を傾げる、竜興老人に効くのは効率が悪そうだったので、優しげな印象だったカギハナに話を向けた。
「あの、説明をぷりーずします」
「うん、草苅さん、京都デジタルアーカイブっちゅうのを知っとるかな」
草苅とてぎりぎり記者の端くれ、どうにか記憶の底にあった知識を掘り起こす。
「ええ、確かVR空間で京都の町並みを再現して保存しておこうとかいう……」
「そうじゃ、同じように世界遺産の町並み、秋芳洞などの天然の観光地も次々とアーカイブ化されたがな、国会図書館にも同様のプロジェクトが持ち上がったんじゃ。電子書籍の技術と合わせてな」
それが書洞、と呼ばれるプロジェクトだという。
「すでに刊行物のオートでの電子書籍化、撮影によるデジタライズの高速化は完成しておる。電子書籍データを3D情報としてVR空間に再現し、誰でも閲覧できるようにするっちゅうプロジェクトじゃ。これはおもに絵本や、古文書のような特殊な形態の本のためのプロジェクトじゃったが、いまや保存できるデータなんか膨大じゃからな、一般書籍もそのまま3Dデータにしてしまえ、というお上の判断があったんじゃろう」
「えーと、でも確かそれって、問題があるとかで公開が延期がどうこうとか」
肝心な部分でフワッとした記憶しかないが、もともと説明するつもりだったのか、カギハナはそうじゃな、とだけ相槌を打って続ける。
「猟犬、の仕業じゃ。人によって黒狼とか、敵対数域などとも呼ぶがな。簡単に言うと、特別に巨大な公的VR空間に出没する敵対存在のことじゃ」
「あっ! 聞いたことあります! 政府の対ハッカー用の傭兵プログラムとか!」
オカルトの世界では「ばぐいぬ」と呼ばれている。
噂では政府が機密を守るために作り出した防衛プログラムであり、いつしか電子の世界で野生化し、アクセスするもの全てを噛み砕く凶悪な存在になったという。そのため京都デジタルアーカイブを始め、一定以上の規模を持つVR空間は現在公開されていない。それは、ある一定の規模を超えると、その空間に「ばぐいぬ」が出るからと噂されている。
「世間でどこまで噂されとるか知らんが、あいつは公的な空間にしか興味を示さん。政府が作ったという噂もあるが、どこかのウィザード級ハッカーの仕業とも、進化して意識を持ったプログラムとも言われとる。とにかく国会図書館の蔵書情報もすべて電子化され、広大なVR空間が形成されとるんじゃが、そこにも猟犬が出るんじゃ」
「タッちゃんとコユビはREVOLVE時代に何度か遭遇しとるが、凶悪なやつじゃ」
と、カギハナの言葉を継いだムシメが言う。
「接触した瞬間に数万種のウイルスを送り込んでくる。それどころかVR空間を構築してるマシンをダウンさせようとしたり、逆探知でこちらの機器を物理破壊しようとまでしてくる。敵意の塊なんじゃ」
「なんでそんなのが……」
「なんでもええ」
ぱんと膝を打つ音がして、竜興老人の鶴の一言が跳ぶ。
「猟犬はこんな妙なイタズラはせん。おそらくどこかのクラッキング小僧の仕業じゃろう。大事になる前に止めにゃならん。今夜潜るぞ」
そこはやはりリーダーなのか、全員が竜興老人を注視し、そして重々しく頷いた。
「決行は今夜21時、各自、自分ちのPCからアクセスせえ」