第十五話
場所は移って純喫茶ブラジル。
梅雨の曇天が生憎の天気ではあるが、コーヒーの香りが南国の陽気を運んでくるかのようだ。
テーブルを囲むのは水穂と瑛子、そしてこの日はレーテもいた。
「コリオリの力、ですか」
彼はコーヒーを口に運びつつ言う、基本的にレーテは飲食を必要としないらしいが、根乃己で暮らすために擬似的な消化吸収を身に付けたという。
瑛子は指で空中に環を描く。
「そう、物体の移動は地球の自転の影響を受ける。例えば風呂の栓を抜いた場合、北半球では左回り、南半球では右回りの渦を描く。これがコリオリの力、北半球では台風が左回りになるのはこれが原因。だけど、実際には渦を発生させなくても回転は起こっている。液体の粒子は常に動いているからよ。北半球にある液体は、ほとんど観測できない程に微小にだけど、常に左回りで動いているの」
「つまり、それが転移の原因なの?」
と水穂。瑛子は肩をすくめつつ肯定する。
「そうなるわね。このお店では因果、つまり原因と結果が逆転している。店舗内に存在する水が右回転をすると、この店舗はブラジルにあることになる。左回転している水のほうが多いと日本にあることになる」
「しかし、それは一定以上の規模がないと観測できない事象です。小規模の水では、空気の流れや容器の形状のほうがずっと影響が大きい」
「そうね、youtuberが直径四メートルのプールでコリオリの力を観測した、なんて話もあるけど、実際には小規模な実験で確実に左回転を起こすのは非常に難しい。だから風呂の給湯なんかでも転移は起きた。お湯が注がれるときの水流の乱れで右回転が生まれたのね」
「だから、コーヒーを右回りにかき混ぜると転移が起きたんだね」
「そう、コーヒーカップぐらいの規模だと回転方向なんかコロコロ変わる。給仕のときに角を曲がったとか、カップをテーブルに置いたとか、そんなことですら変わってしまう、ひどく不安定な事象なのよ」
「……科学的ではありません」
レーテは不満と言うより、その事象は自分の領分ではない、という意思を込めてそう言う。己の立脚点を確認するかのように。
そこへ店主の大貫が現れる。
「どうでしょうか枯滝さん、新作の七色ジャムタルトなんですが、虹の色を表してみました」
「いいと思うわよ、ジャムだけのシンプルな作りとか、鮮やかな色使いなんかが日本のセンスと一線を画してる。ブラジルらしさというか、いい意味での大雑把な陽気さがあるわ」
「ありがとうございます。今日は試してほしいサンドイッチもあるんです、お持ちしますね」
大貫は巨体を揺すりながら厨房へと去っていく、水穂が少し声を落として言う。
「大貫さん、ほんとに覚えてないの?」
「気絶したあと日吉町の病院に運んだのよ。恒常性結界を通って二日は戻ってないから大丈夫、書き換えられた記憶の方で安定してるはず。仕事中に貧血で倒れたってことになってるわ」
「恒常性結界……不思議なシステムです。記憶はもちろん、映像記憶や手書きの文書すらも通さないとは」
レーテは何となく根乃己の空を見上げて言う。曇天はやや濃くなっており、降りだす気配も感じられた。
水穂は七色のジャムタルトのうち、紫色のものをつまむ。ブルーベリーの香ばしい香りがした。
「それで、どうやって転移を防いでるの?」
「ルールが分かれば簡単よ、転移は敷地内にある水の多数決で決まるの。店舗の地下に貯水タンクを四つ配置してる。それぞれ予備を含めて三系統から電源を取って、内部の水をゆっくりかき混ぜてるのよ」
まるで「おまじない」のような処置だと水穂は思ったが、理解し得ない異常への対応なのだからそれで良いのかも知れない。
「その工事と店舗の修理、写真から食器類、調度品まですべての復元は完了してるわ。オープンしたての店だし、多少の変化はごまかせるでしょ」
その作業は大貫氏が入院している間、48時間あまりで行われた。REVOLVEの構成員が優秀なことはもちろん、数多くのフロント企業と、豊富な資金力あっての早業である。
「でも変なのよね、凶兆の天秤が見つかってないのよ、銃弾で砕けちゃったのかしら」
「そうかも、テーブルもコナゴナだったし」
「……ん、まあしょうがないわね、一般人に拾われて困るものでもないし」
はたと、瑛子の理知的なものしか詰まってなさそうな眼が水穂を見て、そしてわずかに弛緩する。
「いろいろ大変だったし、全容の分からない部分も多いけど、良しとしましょう、家族が無事だったんだから」
「珍しいね、そういうこと言うの。難しいこととか、不思議なことを解き明かすの好きなんでしょ?」
「この村のすべてを知りたがるほど傲慢じゃないわ。難解なのはうちの家族だけで十分よ」
ごろごろ、という音がする。山向こうからの遠雷が迫ってきているようだ。
「あら大変、夕立かしら、洗濯物取り込んどかないと」
「でもサンドイッチ来るんでしょ」
「水穂、お母さんひとっ走り先に帰るから、ここで待ってなさい、迎えに来るから」
「大丈夫だよ。カスタネットまで歩いて30分ぐらいだし、空模様が落ち着いてから帰るよ」
「そう? じゃあ迎えが要るときは電話頂戴ね」
瑛子は急いで席を立ち、水穂の歩頬にキスをして、厨房へと一声かけると店を出てゆく。そしてけたたましいエンジン音。買ったばかりの新車だというのにアクセルワークに容赦がない。
「水穂さん、一つ疑問が」
ふいに静けさの降りた店内で、レーテが静かな声で問いかける。水穂は橙色のジャムタルトをつまみつつ顔を向ける。
「どうしたの?」
「なぜ天秤を外に投げたのですか?」
水穂は目を丸くして、胃の府からの声を出す。
「うわ、バレちゃったかあ」
「瑛子さんも分かっておられますよ。視線移動を観測したところ、天秤の話を持ち出したときに水穂さんの反応を見ていました。水穂さんの動揺を見抜いていましたが、理由までは推測できなかったため、保留されたようです」
あちゃあ、と水穂は頭を抱える。
「天秤はおそらく敷地を越え、転移の際にブラジルに残されたことでしょう。問題は、何故そんなことをしたかです。外にいた黒鉾を威嚇するためなら、わざわざ天秤を投げる意味はない」
「REVOLVEが中にいるぞってアピールだよ、そうすれば手を出してこないかも」
「それなら声を出せばいい話です。それに黒鉾は異常存在についての知識を共有せず、記録もしないと聞いています。天秤が何なのかを理解し、REVOLVEと結びつけるような人達ではない。そもそも、中にいる者によって攻撃をためらうような連中なら、中を確認もせず一斉射はしません」
「ううん……」
淡々と論理を並べていく。それは丁寧な議論のようにも見えるが、見ようによっては真綿で首を絞めるようなやり取りにも見えただろうか。
「事の最後の方。瑛子さんが異常事態の仕組みに気づく直前、店舗が明るくなりかけたそうですね」
「そ、そうだね……」
「なぜその時には攻撃が無かったのでしょう。即座に銃撃が起きてもおかしくないはずです」
「たまたま、じゃないのかな……向こうからどう見えてたのか知らないけど、完全に現れてから攻撃しようとしたとか、あるいは今度は中に踏み込んでやろうと思ってたとか」
「おそらく、その時には黒鉾は攻撃できなかった、少なくとも即座に攻撃に移れない混乱が起きていた、という可能性があります」
「うぐぐ、な、何が言いたいのよ」
「枯滝路さんですね」
「うわー」
とうとう水穂はテーブルに突っ伏し、伏せたままでイチゴジャムのタルトをもさもさと食らう。
「異常存在あるところに現れる、それが抗異化因子存在だと聞いています。水穂さんは、ブラジル側に路さんがいると考えたんですね」
「うう、そうだよ、お父さんってばそういうの目ざといし、店舗の移動は数日前から起きてるみたいだったし、噂を聞いてお父さんが駆けつけてた可能性はあったんだよ」
「そして凶兆の天秤を投げることで、中にいるのがREVOLVEだと気づかせ、加勢を願ったと」
「そう……移動するお店ってだけじゃ黒鉾とは戦えないかもしれないけど、中にいるのがREVOLVEなら、私たちの可能性があるなら、気をそらすぐらいはしてくれるかなと……」
枯滝路、REVOLVEの網にもかからず、黒鉾や他の組織を出し抜いて異常存在を集めているという特異なる人。
レーテはまだ会ったことはないが、いったいどのようにして殺気だった武装集団を撹乱したのか、また、水穂が父に寄せる信頼、そこまでの行動ができると確信している理由はどこにあるのか、レーテにすら想像の及ばない話である。
「なるほど、話は分かりました」
レーテは居ずまいを正し、椅子をやや動かして水穂の真正面に位置どる。
「うう……」
水穂には、すでに推測できていた。
このじっくりと粘っこい事情聴取は、あまり他人の事情に首を入れないレーテが色々と詳しく聞いてくるのは。
それはこれから始まる、かなり長めのお説教を予感させるのではないか、と。
「水穂さん、あなたがどれだけ危険なことをしたか分かっていますか」
「うう、だ、だって」
「まず私の話をお聞きください。いいですか、まず私はカスタネットの店員として、そして根乃己で暮らす一人の村民としてあなたに忠告せねばなりません。まずは、あなたの行ったことがいかに推測に頼っているかについて一つ一つ説明いたしますが……」
※
「申し訳ありません」
深々と頭を下げるのはダークブラウンのスーツを着た男。目の前には大きめのモニターがあり、京劇のような中華風の面をかぶった人物が映っている。
「妨害の発生、当時、説明を求める」
会話はポルトガル語で行われている。機械翻訳を通じたリアルタイムの会話のため、相手の言葉はカタコトに聞こえた。
「はい、異常存在の再度の出現に備えていたところ、突如として数千羽ものカラスが上空に現れ、急降下して隊員たちに襲いかかりました。銃声にもひるまず、一人あたり数十羽も密集され、作戦行動が困難になったものです」
「カラス、は、眼球や、頸動脈、狙ってきたか」
「いえ……そこまでは。ただ服などをついばむ程度でした。目は保護ゴーグルで守られていましたし……」
「では、作戦行動、不可能、ない、はず」
「……は、はい、そうです。直接の原因は、我々の混乱によるもの、かと……」
「訓練を積む必要、ある」
面の人物は、頬杖をついた姿勢になる。
「他に、報告すべき、ことは」
「は、はい、奇妙なことですが、カラスは銃撃を受けると、黒い紙となって地面に落ちました。あれもまた、何らかの異常存在でしょう。二つの異常存在が同時に発生することは不自然です。おそらく何者かの妨害が」
「その報告、推測、か」
「い、いえ、申し訳ありません。見聞きしたことは、以上です」
「分かった」
映像は消える。
ダークブラウンのスーツの男、彼とても元軍人であり、今は黒鉾の支部を束ねる人材である。
だが、緊張で動悸が治まらない。
今の人物こそは組織の頂点。
不定形で定まった組織図のない黒鉾において、その全てを掌握し、睨みを効かせる重鎮だと聞いている。モニター越しとはいえ、その重圧はありありと感じられた。
実際の後始末はもっと面倒で、自分の処遇がどうなるかも分からない。
だがスーツの男は、ともかくも面の人物への報告が終わったこと、それだけで道のりの半ばを越えたような安堵を覚えた。その存在の事を、長い嘆息とともに呟く。
「あれが奇典老人……組織の創設者、か……」