第十三話
※
「なるほどね」
瑛子が紙のメモに要点をまとめている。水穂はブラインドに指を差し入れて外を伺う、すでにとっぷりと暮れていた。
気温も低く、今は異常は見られない。
「ここで喫茶店の開店準備をしてた頃なんですが……コーヒーを淹れてると、急に暑くなったり、外の昼夜が逆転したりするようになって。でもすぐに治まるんで、何かの錯覚だろうと」
「そういう現象は自宅では起きないの?」
腰にタオルを巻いている瑛子が言う。水穂は後ろで神妙なと言うべきか、はらはらと落ち着かない様子である。
「ねえお母さん、ズボン履いたら?」
「仕方ないのよ。あの服抜けの手品は一度やるとズボン捨てないといけないの」
脱ぎ捨てられたデニムは店の隅に転がっていた。切り裂かれたりした様子はないが、なぜ捨てねばならないのか。それにどうやって靴を履いたままでこのスキニーから脚を抜いたのだろうか。謎が深まるばかりである。
大貫の方はそれどころではないようで、目に怯えの色を濃くしたままで答える。
「ええと……自宅はマンションの三階ですが、そこではまったく起きません……このお店だけなんです。そんなバカなことが、と思って考えないようにしてたんですが……」
「暑くなるのと昼夜の逆転、昼夜が逆転するのは時差のせいかしら……? それで、なぜブラジルになると思うの」
「それは、空気感といいますか……分かるんです。ブラジルの匂いです。排気ガスとかシュラスコの匂い、サッカー場の草いきれ、女性の香水と整髪料の匂い、屋台のスパイスの匂い……」
「あなた、子供の頃から念じた場所に飛べるとか、無意識のうちに結構な距離を移動していた、とか経験ないかしら」
いわゆる瞬間移動というやつだろうか。しかし水穂の見る限り、どうも大貫が超能力者とは思えない。どういう人間がそれっぽいのか、と聞かれても困るが。
「いえ別に……」
「その現象はどんな時に起きるの? 何もしてない時にもたびたび起きるのかしら」
「いえ、寝てる時とかにはそんな感覚はなくて、おもにコーヒーを淹れてる時ですかね……。僕、飲み物はコーヒーしか飲まないんです」
「カフェイン中毒になるわよ? まあいいわ。とりあえず企みがあるようには見えないし、ゆっくり検証しましょ。心配しないで、私はこういう不思議なことの面倒を見るのが仕事だから。根乃己ではよくあるのよ」
「は、はあ……」
大貫はすっかり首が縮こまって目が怯えている。当たり前と言えば当たり前である。むしろ堂々と味方だと言える瑛子が肝が太いというか、事務的に過ぎるのだろう。
「さっき、厨房でコーヒーを淹れてたわよね、その時に店内気温が上がった気がしたわ、再現してみて」
「わ、分かりました」
「お母さん、レーテ呼んでこようか」
「駄目よ、レーテくんの力は流れの者にしか使わない、そういう約束でしょ」
それはレーテがカスタネットで働くにあたり、瑛子との間で決めたルールだ。そのためレーテは普段はまったく力を使わず、人間と同じだけの仕事量をこなす、それを注意深く守っている。
「こっちが厨房なんですが……」
この喫茶店にはカウンターがなく、調理は奥で行うようだ。短い廊下に入り、左に折れれば厨房がある。それはちょっとしたもので、ステンレスの台を中心に口の字になっていた。プロ用の大口コンロがあったり、大型の天火もある。パウンドケーキの焼き型の回りにはケーキ作りの道具が並んでいた。
「けっこう立派ね」
「せっかくだから大きく作っておこうと思いまして……。将来的にランチを出したり、人を雇ってレストランにもできたらいいなと」
コーヒーが縄張りを主張するような感覚がある。一歩踏み込むごとに強まるコーヒーの香り。麻袋に入った豆があり、プロ用のエスプレッソマシーン、ネルドリップや水出しコーヒーの用意などが見られた。
「ここでこうやって、コーヒーをドリップしてました」
IHヒーターの上でケトルが熱を保っていた。大貫は焙煎した豆をミルで挽き、ドリッパーにペーパーをセットして再度、コーヒーを淹れる。
「こういう風に回し入れます。ブラジルコーヒーは細口のケトルで、小さな円を描くのがコツで」
「そういうのいいから」
「す、すいません」
認識を五感の一つ一つに配置する。同時に意識を室内から喫茶店全体へ、小さな把握と大きな把握を両立させるように神経を研ぎ澄ます。
まだ何も起こらない。瑛子は壁の温度計を見やるが、変化はない。
「そして抽出できたら、泡を除くために少し混ぜます、こうやって」
大貫は左利きらしい、巨体と比較すると爪楊枝のように小さいスプーンを持ち、コーヒーにそっと差し入れて回す。
「ん、いま気温が上がったような」
「え、ほんとですか」
大貫がそう答えた瞬間。
喫茶スペースの方から、けたたましいガラスの破砕音が響く。
「! 水穂!」
瑛子が踵を返して喫茶スペースへ、そこには驚愕の顔で立ちすくむ少女がいて、店の隅からもうもうたる白煙が。
「水穂! 奥へ行きなさい! 口と鼻を押さえて!」
そして厨房へ叫ぶ。
「コーヒーを零して!」
瞬間、喉の奥に激痛が走る。
それを感じつつも瑛子の動きは早い。着ていた革のジャケットを脱いで腕に巻き付けるように構え、ブラジルウッドの机を思いきり横に蹴って視界を開く、白煙をあげる黒い個体を一瞬だけ確認して、きつく眼を閉じて前進、一瞬だけの視界情報で位置を把握し、その物体に向かって倒れ込むように動き、物体をジャケットで覆うと、力任せにブラインドの外に放り投げる。
「うわ!? なんだ? 目が痛い!」
「喋らないで!」
遠く聞こえる大貫の声に叫びを返し、瑛子は目を閉じたまま後退する。厨房に戻る前に数秒だけ音を聞くが、何の気配もない。店内の温度も下がり、すでに異常は消えている。
厨房に戻ると、記憶をたよりに大型のシンクまで行き、手探りで蛇口をひねる、水を全開にして頭を突っ込む。
「水穂、そこにいる?」
声は枯れている、眼も喉も火であぶるような激痛が走っていた。激しい流水を顔全体に浴び、水しぶきでシャツがずぶ濡れになっていく。
「う、うん」
「眼は絶対に開けずに、声をたよりにこっちに来なさい」
流水を頭から浴びつつ、手で水穂の体を探り当てると、瑛子は頭を上げ、今度は水穂の上半身をシンクに突っ込む。
「うわっぷ」
「大丈夫、たぶんただのCOガスよ、いわゆるトウガラシスプレーの成分ね。直接は浴びてないし空調も効いてる。流水で洗い流せばすぐに痛みは引くわ。目はこすっちゃダメよ、流水に当てるだけ」
もし神経ガスやびらん性ガスならただでは済まなかった。瑛子は内心、肝を冷やすがそれは黙っておく。
「あ、あの、一体何が」
「大貫さん、あなたにも応急処置するけど絶対にコーヒーには触れないで、この店内で何かをすること自体が危険、できればそこから一歩も動かないで」
「な、何が起きてるんです、あなたたち一体」
「私も予想外だった。いえ、本当は予想しておくべきだった。店内の異常現象に気を取られて、客観的にものが見えてなかった」
「何の話なんです……?」
「この店ごと消そうとしてる連中がいる、ここまで積極的なやり方は、おそらく」
「黒鉾よ」
※
「つまり、その、異常なものを消そうとしてる団体、ですか……」
水穂はずぶ濡れのままでタオルをかぶり、瑛子はというとシャツと下着のみという姿である。大貫の服は借りてもサイズが合わないのは明白であったし、店内でなるべく動きたくなかった。
「分からなくてもいいから聞きなさい。私たちの組織は異常存在に対しては監視と制御、可能なら利用しているわ。凶兆の天秤もそう。異化因子を受けた人間も可能なら結界の中に受け入れている。根乃己はそういう村でもあるの」
「はあ……?」
水穂は母の言葉を聞いて、心の中で少し訂正を入れる。正確に言えば「可能なら」ではなく「排除や消去が不可能なら」という面もある。REVOLVEも結局は同じ穴の狢、流れの者や超能力者を全面的に受け入れる団体ではない。
母の言葉は続く。
「恒常性結界とREVOLVEシステムによって一般人は異常を知覚できない。しかし、それを克服している団体もいくつかある。宇宙先住者崇拝主義、数秘騎士団、そういう特異団体はいくつかあるけど、私たちのREVOLVEに対抗できるほど大きな団体は黒鉾だけ。あれは徹底的な排除と拒絶が信条。自分たちの活動記録すら消去しているほどのイカれた団体よ」
「その、宇宙人とかを、ですか?」
「常識的でないもの、よ。彼らはそのために、異常存在の利用を除けばあらゆる手段を使う。国家権力や軍事力も使うし、非人道的兵器も躊躇なく利用するの。いま窓から投擲されたのは噴霧式の催涙ガス弾よ。ガスを浴びれば人間なら動けなくなる」
「日本にそんな人たちが……?」
「日本じゃない、あなたが言ってたことでしょう。この店舗は日本とブラジルを行き来していると」
瑛子は説明を続けつつ、爪を噛んでわずかに思考する。
(そう、この移動は店舗ごと、あるいは敷地ごと行われている)
(これは客観的に見れば、ブラジルに突如として店舗が出現していることを意味する。黒鉾から見れば異常存在。排除にかかって当然)
(根乃己の恒常性結界の中なら対抗手段はある。それ以前に日本とアメリカでは黒鉾はうかつに活動できない)
(でもブラジルは違う。彼らは全世界の黒社会のパワーバランスを整えるための組織。南米や東南アジアでは特に活動が激しい)
(店主の口ぶりからすると何度も移動している。黒鉾が部隊を手配するには十分な時間があったはず)
「……あの催涙ガス」
「はい?」
(あれで相手は何を把握した?)
(そう、事象としては「投げ込んだ催涙ガスが即座に投げ返された」ということ)
(中にいるのが現代兵器についての知識を持ち、催涙ガスを排除せねばならない存在だと分かったはず)
(致死性のガスを投擲しなかったのは、中にいるのが何者なのか見極めるためでもあった)
(相手が流れの者なら彼らも慎重になる。しかし一連の行動で、その確率はぐんと低くなったと見積もるはず)
「交渉の余地は……無駄ね。問答無用な連中だし」
「ど、どうなるんですか?」
瑛子は視線を上げ、その切れ長な目で大貫を睨めつける。
「爆破しましょう。それが最善ね」
「えっ――」
瑛子はゆっくりと伸びをして、濡れ髪を指ですきながら言う。
「マンションで起きないなら原因はこの店舗でしょう。入店の時に見ているわ、隣家との距離は最大で11メートル。このぐらいならぎりぎりで被害を出さずに店舗ごと排除できる。爆薬を用意している手間も惜しいわ。店舗の空間容量とコンロの大きさから考えて、ガスを開放して7から9分後に火種を投げ込めば爆発するでしょう」
「そ、そんな」
「諦めなさい。次に移動が起きたら重火器で一斉掃射されてもおかしくないのよ。REVOLVEで補償はするから」
「大貫さん、命あっての物種だよ」
水穂も説得に加わる。彼女は店にあった布巾やらタオルやらでなんとか服の水気を落とそうとしていた。目にまだ痛みが残るのか、目を何度も瞬いている。
「……だ、ダメです。このお店を壊すなんて」
「どっちにしろ奴らに攻め込まれたら終わりよ。何もかも壊されるだけ」
瑛子は手際よく元栓を開き、持っていたツールナイフでゴムのガス管を切断しようとして。
「ダメです!」
その手を大貫の腕が掴み。
一瞬後、その手はねじり返されて背中に回されていた。
「いだだだだだ!!」
「ごめんなさいね。でもパン1の人妻の手を取るのはやめてくださる? 私だって好きでやってるわけじゃないの」
「こ、このお店は僕だけのものじゃないんです。元々はブラジルにいる両親の家なんです。いつかお店に呼ぶために移築して、喫茶店に改築したものなんです」
「なるほどね。この店舗がブラジルと行ったり来たりしてるのはそのへんに原因があるのかもね。でも聞き分けなさい。補償はするって言ってるでしょう」
「い、嫌です! そもそもあなた方には関わりないことです! 店を手放すぐらいなら僕は一人でも戦います!」
「敵の素性を知らないからそんなこと言えるのよ。あなたが異常存在、要するに超能力者であると疑われたら何をされるか想像できるの? 実験動物の境遇ならまだマシ、一も二もなく殺害されてもおかしくない、そういう連中なの」
「……」
水穂は、複雑な表情でそれを見ている。
「ぼ、僕の家族のための家なんです。絶対に、絶対に手放すわけには」
「ねえお母さん、かわいそうだよ」
「黒鉾に踏み込まれる方が何倍もかわいそうだと思うけど」
瑛子の声はいつも端的で迷いがない。しかしこの時だけは、その声音にこわばった焦りのようなものが無くもなかった。彼女もまた切羽詰まっているのだと、娘である水穂にだけは察せられる。
「……その二択なのかな。何かもっと、解決できる方法……」
黒鉾の脅威は水穂も知っている。彼らに交渉は無意味であり、戦闘してもこの状況下では勝ち目はないだろう。この店舗がどこに出現しているのかわからないが、郊外であれば数日でそれを見つけ出し、市街地であれば周囲の住民やマスコミを完全に排除して部隊を配置しているはず。
「……」
水穂が考えに沈もうとしていた時、ふいにその思考が打ち切られる。
この緊迫した場面に似合わない軽快なメロディが、店舗の奥から聞こえたのだ。
「っ!」
警戒状態になっていた瑛子がすばやく身をかがめ、勢いで大貫の肘がねじられる。
「いだだだだだだだだ!!」
「あの音は何!」
「お、お風呂です! お風呂!! あとで入浴しようと思っててタイマーでお湯張りを」
(風呂……?)
コーヒーによる瞬間移動、その事象と、風呂を無関係と考えるほど瑛子は楽天家ではなかった。
「あなた! さっき言ってたわね、どういう状況で移動が起きるかの問いで、「おもにコーヒーを淹れてる時です」と!」
「そ、そうですけど……あっ」
大貫がそれに思い至るより早く。
四方からの機銃掃射が、店舗の外壁を突き破った。